こんばんは、紫栞です。
夏のオススメ本を紹介するシリーズ
第五弾は道尾秀介さんの『向日葵の咲かない夏』です。
道尾さんの代表作で、本の内容・ラストと疑問点が多く、なんとも考察しがいがある作品で書評家などの間で度々話題に上りやすい本ですが、映画などの映像化はまず無理だろう作品です。(イニシエーション・ラブをやったくらいだからひょっとしたら出来るのかも知れないですが・・・相当上手くやらないとダメですね)
あらすじ
ミチオは小学四年生。両親と三歳の妹・ミカと一緒に住んでいる。夏休みを迎える終業式の後、欠席したS君にプリントと宿題を届けに家を訪れたミチオはそこでS君が首を吊って死んでいる姿を目撃する。すぐに担任の岩村先生に知らせに行ったミチオだったが、先生と刑事がS君の家に駆けつけたところ、排泄物を拭き取ったような跡だけを残して死体は忽然と消えてしまっていた。一週間後、S君は“蜘蛛”に姿を変えてミチオの前に現れる。S君は「僕は殺された」と言い、ミチオとミカに「僕の身体を見つけて欲しい」と願い出る。彼の無念を晴らすため、ミチオは妹と共に事件を追い始めるのだが――。
“この世界は、どこかおかしい”
あらすじだけ読むとちょっと不思議な、夏休み中の少年の冒険話みたいなお話かな?とか思うかも知れませんが、全然違います。半分ぐらいまでは確かにそんな雰囲気でハラハラドキドキするシーンもありますが、お話の所々で「何か変だ。どこかおかしい」と読者を不穏でザワザワ・落ち着かない気持ちにさせ、後半は一気にダークサイドに加速していきます。
私は初めて読んだ道尾秀介作品がこの『向日葵の咲かない夏』でした。読みながら「S君の“S”表記が不気味だなぁ。何か意味があるのか?」と思っていたんですが、コレは単に作者の好みらしいです。(何だよ・・・)その後読んだ短編集『鬼の跫音』にも“S”いっぱい出ていました・・・。
以下、がっつりとネタバレ~
前にこちらの記事でもこの作品簡単に紹介したんですが
この本は叙述トリックが仕込まれていまして。一言で言うと語り手の少年による大妄想話なんですが・・・。お話の中で“死んだ人間が別の生き物に生まれ変わる”との輪廻思想があって、それによってS君が蜘蛛の姿で現れたことになっているんですが、実は生まれ変わっているのはS君だけじゃ無く、妹のミカはトカゲ、スミダさんは百合の花、トコ婆さんは猫に姿を変えていて・・・と、つまり人間と話しているように見せかけていますが違いますよ~と。
しかも、この“生まれ変わり”自体がミチオの妄想。実際はそのような事実は無く、S君や妹との会話も言うなればミチオの一人脳内会議だった・・・だった・・・。
叙述トリックものでもここまでするものはまず無いのでねぇ。全部語り手の妄想ですってのは(^_^;)読者はミチオの妄想に延々付き合わされていた訳で、人によってはアンフェアだ!とか言いたくなるのも分かります。Amazonのレビューも評価が真っ二つに分かれていますし。
まぁ、普通ならこんなネタ、ぽんっと出されてもとうてい許容できたものではありませんが、ここでは語り手のミチオにそうしなければならないだけの“必然性”があるのでお話として上手く成り立っています。
S君(蜘蛛)を指でつぶしてミカに食べさせるシーンがありますが、まだミカがトカゲだと読者に明かされる前なので、もの凄く気持ち悪くて怖ろしく、異様です。他にも変態的で気持ち悪い描写があるので、そこら辺も読者を選んでしまうところかと。道尾さんは他作品でも割とそういう描写多いですがね。
ミカについて
『ミカは実在しないのではないか』という予想は叙述モノを読み慣れている人なら容易に思い至るのですが(三歳児にしてはいくら何でも言動が大人びていますからね)、この考えにストップをかけるのがミチオの“お母さん”です。お母さんもミカに話しかけたり、スカートのシワを直してあげたりするシーンがあるので『やっぱり存在するのか?』と思い直してしまうのですが、実はお母さんは人形をミカだと思ってまして。
トカゲをミカと呼ぶミチオと、人形をミカと呼ぶお母さん。“ミカ”と呼ばれるモノ(トカゲと人形)が2つ存在することで読者の目を欺く二重トリックが仕掛けられています。コレをふまえると、作中でのお母さんの「ミカって呼ぶんじゃないよ!」のセリフの後、ミチオが「ミカをミカって呼んで、何がいけないの?お母さんだって呼んでるじゃないか」と応えてお母さんが黙ってしまうシーンの意味がよく解ります。
しかし、こんな妻と息子がいる家じゃ、お父さんは大変だなぁと思う。逆にもうお父さんもおかしくなっちゃてるって方が自然なんじゃないか(^_^;)
S君について
そもそも“S君が蜘蛛に生まれ変わった”現象を何故読者は「設定として受け入れないと」と思うかというと、それはミカもS君と会話をしているからなんですが、肝心のミカはトカゲな訳なので(つーか、蜘蛛が人語喋るのおかしいべ)・・・S君が言ってた「僕は、岩村先生に殺されたんだ」もミチオの頭の中で作った“物語”なんですね。
なんでそんな手間のかかる妄想をしたのかというと、S君の自殺の原因がミチオにあり、“S君が自殺した”事実から逃避するための妄想・物語で「自殺じゃない。殺された」ということにしようと。
演劇会に出たくないばかりにS君に「死んでくれない?」とお願いしたら、ホントに自殺してしまった。「冗談のつもりだった」とミチオは言いますが、なんとも空恐ろしくって惨い話ですよね。S君はいじめられてて、クラスでまともに話せるのはミチオだけだったんですよ?それが演劇会に出たくないから死んでくれとか言われちゃ・・・首吊りたくもなりますよね。
叙述トリックの先にあるもの
そもそもミチオの“生まれ変わり”妄想は三年前に自分がした悪戯のせいで母親が流産してしまったことが始まり。(それでお母さんは人形をミカと呼んだり、ミチオに辛くあたったりするんですが)そこにさらにS君への罪悪感が加わり、ミチオの妄想への逃避による自己防衛は加速します。“S君の自殺”を否定するために岩村先生を犯人に見立ててみようとしますが、何だか上手くいかず(岩村先生がマジモノの変態だったてのはミチオにとっては思わぬ誤算・・・)放棄して、私的理由からS君の死体を隠した泰造お爺さんに全て押しつけるべく“物語”を作り直し、とうとう殺害までしてしまいます。(ここの場面のミチオ、めっちゃ怖かった・・・)
「物語をつくるのなら、もっと本気でやらなくっちゃ」
作中、ミチオが泰造お爺さんに向かって言うセリフです。
人殺しまでして“物語”を作り上げたミチオですが、ミチオ自身、もう自分の妄想に限界がきているのを悟ります。終盤、生まれ変わった泰造お爺さん(このカマドウマお爺さんも妄想なので、結局は自分との対話)に全ての真相を打ち明けてしまうのは、妄想で自分を騙すことが困難になり、自覚的になってしまっているからでしょう。疲れたミチオは「これ以上つづけたくない」と言い、物語を終わらせるべく家に火を放って死のうとするのです。
ここで終わっているならある意味スッキリとしたラストなのですが、最後の三ページの家族の会話が読者を混乱させ、色々と物議を醸すことに(笑)
『ミチオが両親を計画的に殺害したのでは』との説があるみたいですが、私は文章のとおりミチオは自殺しようとして、両親に助けられたんだと思いますよ。最後、親戚に引き取られるところで終わっているので両親は死んだんだとは思いますが。
結局ミチオはまた性懲りもなく“妄想の世界”に戻ってしまったのか~・・・と最後の三ページを読むと思ってしまうところですが、私は一応ミチオは決別の道に進んだんじゃないかなぁ~と思います。妄想の両親とは家の焼け跡の前で別れているし、冒頭の何年後かのシーンでミカは事件から一年後に死んだと言っていますが、また新たな生き物に生まれ変わったふうに思ってる感じもないですし。
“幼少の一時のみ、見えていた世界”って感じですかね。
お話の内容としては、ミステリーというよりも主人公ミチオの内面・精神状態を描いた小説なのかなと思います。色々と見事に伏線張って叙述トリックやってますが、本筋はそこじゃないのかな~と。
タイトルの『向日葵の咲かない夏』なんですが・・・意味を考えても何だかハッキリと言葉には出来ないですね。“どこか狂ってしまった夏”みたいな・・・そんなニュアンス?ようわからん・・・(^_^;)
だらだらと書きましたが、この本は読む人によって何通りもの解釈が出来るお話だと思います。読んでみて自分独自の考えを巡らしてみるのがオススメです。
夏の夜長にどうでしょう・・・。
ではではまた~