こんばんは、紫栞です。
今回は京極夏彦さんの『塗仏の宴 宴の始末』をご紹介。
『塗仏の宴 宴の始末』は【百鬼夜行シリーズ】の七作目。
『塗仏の宴』は二部作構成。シリーズ六作目の『塗仏の宴 宴の支度』が上巻で、今作『塗仏の宴 宴の始末』はその下巻となります。
※前作の「支度」についての詳細はこちら↓
以下、「支度」について壮大にネタバレしていますので、「支度」を未読の方は必ず「支度」を読んでからお進み下さい。
あらすじ
世界が――少しずつ歪み始めた。
蓮台寺温泉で起こった裸女殺人事件。被害者は三ヶ月前の事件で一族のほとんどが死に絶えた織作家の唯一の生き残り・織作茜だった。
関口巽は “消えてしまった村”「戸人村」を探して静岡県韮山山中に居たはずが、気がつくと蓮台寺で木に吊された織作茜の遺体を眺めている状態で発見され、蓮台寺裸女殺人事件の容疑者として警察に拘束されてしまう。錯乱して何を訊いても譫言みたいなことしか云わぬ関口だったが、最初に現場に駆け付けた警官に「よく解らない。解らないんだけれども、多分僕がやった、そして、やった僕は逃げて行ったんだ」と口走ったらしい。
その頃、東京では榎木津礼二郎と木場修太郎がそれぞれに行方知れずとなり、中禅寺敦子も何者かに連れ去られてしまう事態に。これには妖しげな宗教集団がそれぞれに関わっているらしく、青木・鳥口・益田の三人は右往左往して中禅寺秋彦に示唆を求めるが、中禅寺の反応は思わぬものだった――。
“消えてしまった村”「戸人村」。その村の「佐伯家」にあったという死なない生き物“くんほう様”とは一体何なのか。村人五十人鏖殺事件は本当にあったのか。この一連の騒ぎは“何”のためのもので、誰が起しているものなのか。
“参加者たち”は伊豆韮山に集結し、長い年月を掛けて支度された宴(ゲーム)は遂行される。
舞え歌え、愚かなる異形の世の民よ。
浄土の到来を祝う宴は、
――さぞや愉しいことだろう。
宴の開催
前作『塗仏の宴 宴の支度』ではそれぞれに語り手が違う短編が六編収録で得体の知れぬ「宴」の支度完了までが描かれていましたが、
下巻にあたる今作『塗仏の宴 宴の始末』は長編でいつも通り1000ページ以上を使って「宴」の本番と始末までが描かれ、前作の六編で散りばめられていた様々な謎が収束されていきます。
「支度」では、関口が逮捕された事件の被害者が『格新婦の理』の織作茜だったことが判明したところで終了。
逮捕された関口同様、読者も困惑がきわまったところでこの「始末」にお話が持ち越される訳ですが、いざ「始末」に進んだら今度は木場と榎木津が行方知れずになり、敦子が変になり、関口は起訴される寸前だしで、事態は前作以上に悪化の一途を辿ります。
シリーズの主要人物達がモロに事件に巻き込まれていくという今までにない展開で「どうなっちゃうの?」てな心境に。シリーズが大きく動こうとしている予感がヒシヒシとしてきて、読んでいると言いしれぬ興奮をしてきます。「盛り上がってまいりました!」みたいな感じですね。後半の宗教団体たちが韮山に集結するシーンはまさに「宴」で「百鬼夜行」そのものです。
薔薇十字団
今作では語り手として村上貫一という刑事さんが序盤割と長めに務めています。関口が容疑者として逮捕されている蓮台寺裸女殺人事件を担当する刑事なのですが、この村上刑事は前作「支度」の「うわん」で登場した村上兵吉の兄で、“宴騒ぎ”の当事者の一人。貫一の家は養子の息子が本当の親の事を知ってしまい、家を出て行方知れずになり、奥さんは息子を見つけたい一心で「成仙道」に入信してしまうといった具合で、家庭崩壊の危機に陥っています。
他、ところどころで謎の人物の語りが入ります。黒幕の視点ですね。
中盤から青木、鳥口・益田の三人が色々と行動して頑張っています。木場や榎木津、敦子が行方不明になることで、この三人が不安でアタフタする訳です。青木ら三人は今作での頑張りからファンの間で「下僕三人組」「三馬鹿」と通称が与えられるように。
「(略)トリ頭に馬鹿オロカにコケシ顔が並んでいる!こんな連中に主役が張れるとでも思っているのか馬鹿者。百年早いぞ。三人合わせて三百年早いぞ!」
上記は榎木津の御言葉。いきなり登場していいとこかっさらっていきます(いつもの事かも知れませんが・・・)三人とも頑張っても主役は張れないようです(^^;)
途中、「あんたらは何者だ」と問われて鳥口が「薔薇十字団だ」と答えちゃいます。
「ば、薔薇十字――って」
「僕等は榎木津さんの下僕らしいし、探偵じゃないから探偵団とは云えないし――まあそんなところっすよ。いいでしょ――」
かくして、今作で「薔薇十字団」誕生。下僕の活躍にご期待下さい。
「薔薇十字団」については益田も十分に認識しているようで、『百器徒然袋』でも発言しています↓
中禅寺の事件
今作『塗仏の宴』が前五作と決定的に違う点は、京極堂こと中禅寺秋彦が事件に対して傍観者ではないというところです。
中禅寺はいつもあえて事件に飛び込んでいこうとせず、傍観者に徹し、最後の最後に拝み屋として事件関係者の“憑物”を落すという役割を担っている人物。事件の当事者になってしまっては“憑物落とし”に支障が出るということで、弁えていつでも傍観者を貫いている訳ですが、今作では傍観者として一貫した態度でいつも鳥口たちを“ある意味”安心させてくれていた中禅寺の様子が何やらおかしい。それで中盤「下僕三人組」も不安をより一層深めてしまうのですが。
「僕は思うんだけどね鳥口君」
「何すか」
「今回の中禅寺さんは慥かに様子が違う。何が違うのか昨夜から考えていた。それで、もしやと思った」
「な、何を――」
「今回の事件はあの人の事件なんだ」
実は今回の中禅寺は事件の当事者。
織作茜が殺されたのは中禅寺が先の事件で関わったから、関口が犯人に仕立てられたのは中禅寺の知人だから、敦子が「気道会」の襲撃を受けたのは中禅寺の妹だから。これは、“ある人物”からの「ゲームには手を出すな」という中禅寺に宛てたメッセージで、当て擦りの嫌がらせなのです。
何のいわれがあってこんな嫌がらせを受けねばならないのか。ここで出て来るのが戦時中に中禅寺が所属し、精神誘導・生命などを研究していた「陸軍第十二特別研究所」。シリーズ二作目『魍魎の匣』
の美馬坂教授が研究者の一人として所属し、中禅寺が「嫌だったんで真面目にやらなかった」と云っていた“アレ”です。
そして、極めつけに『姑獲鳥の夏』で中禅寺が“呪った”内藤赳夫が登場します。
佐伯家・陸軍第十二特別研究所
ネタバレもネタバレになりますが、『塗仏の宴』って真相は佐伯家の人々が“皆が皆、実際にはそんな事件は起こっていないのに、自分が家族を殺し、「村人五十人鏖殺事件」を実行した犯人だと催眠術で思い込まされていた”というモノで、規格外ではありますが(規格外なのはいつものことですが)結構解りやすい真相なんですけども、佐伯家の人々がゲーム「宴」の為にやらされていた宗教団体と名称・・・これが、人数が多い分こんがらがるので(^^;)自分用も兼ねて一覧でまとめたいと思います。
佐伯家
●佐伯癸之介-佐伯家当主 「韓流気道会」会長・韓大人
●佐伯初音-癸之介の妻 自分を襲った甚八を殺害。その後、身籠もって出産後に死亡。
●佐伯甲兵衛-癸之介の父 「成仙道」指導者・曹方士
●佐伯乙松-癸之介の弟 「徐福研究会」主催者・東野鉄男
●佐伯亥之介-癸之介の息子 「太斗風水塾」南雲正陽
●佐伯布由-癸之介の娘 「華仙姑処女」
●佐伯玄蔵-佐伯家の分家 「条山房」の「長寿延命講」主催者・張果老(通玄)
●佐伯甚八-玄蔵の息子 初音に殺害される。
●岩田壬兵衛-玄蔵の父(佐伯家から勘当されている)「みちの教え修身会」会長・磐田順陽
●雑賀笙-初音が甚八に襲われた後に出産した子 「藍童子」
次に佐伯家の面々に世話役として付いていた元「陸軍第十二特別研究所」の三人。
●刑部昭二-「成仙道」の布教者として曹方士(佐伯甲兵衛)に付く。
●岩井崇-「韓流気道会」師範代として韓大人(佐伯癸之介)に付く。
●宮田耀一-漢方薬局「条山房」で働きながら張果老(佐伯玄蔵)に付く。
●元内務相特務機関山辺班・尾久国誠一(雑賀誠一)
薬売りとして催眠術を使って暗躍しながら華仙姑処女(佐伯布由)に付く。藍童子(笙)を息子として育てていた。
他、「陸軍第十二特別研究所」の一員とは無縁ですが、南雲正陽(佐伯亥之介)には羽田隆三の第一秘書で東野を恨むように仕向けられた津村信吾が。
東野鉄男(佐伯乙松)には羽田隆三の財力が割り振られています。(※羽田隆三自身は「宴」とは関わりはない)
磐田順陽(岩田壬兵衛)には世話役とか付いてないのですが・・・韮山に土地を持っている加藤只次郎と懇意だし、別にいっか~って感じなんだろうか・・・?
一覧だけでもこんがらがりますが、作中ではこれらの人物相関がさらに巧妙に入り組んで描かれています。こんなに多くの事柄を計算ずくで書ける著者の手腕にただただ感服しますね。私はこの一覧を書いただけで頭が痛い(笑)
堂島静軒
記憶を好き勝手に改竄して人の人生を弄ぶ、非人道的で悪趣味な「宴」。この「宴」の仕掛け人で今作の黒幕は堂島静軒(どうじませいけん)。
堂島は元帝国陸軍大佐で「陸軍第十二特別研究所」では中禅寺、美馬坂、刑部などの上官だった男で、現在は表向き郷土史家を名乗っています。陸軍時代、中禅寺は「堂島大佐の懐刀」なんて云われていたらしいですが、中禅寺は堂島の本性を知って途中で離れたんだそうな。めっちゃ嫌ってます。堂島の方は未だに中禅寺のことを評価している様子ですが。
【百鬼夜行シリーズ】にこんなラスボス的な人物が登場するとは・・・って感じでシリーズファンには初読だと結構な驚きがあるかと。堂島は戦時中、中国大陸で相当えげつないことをしていたようで、榎木津が過去を“視て”「こ――この化け物め」と云って後退りした人物。
あの榎木津が後退りするんですよ?もうこれだけで遣ってきた事の酷さが解りますよね。
堂島静軒は善く響く低い声と、真っ白い和服に籠目紋が入った小豆色の羽織り姿という出で立ちで、「この世には不思議でないことなどないのです」と嘯く人物。
モデルがいるのかどうか不明なんですが、これらの事柄から中禅寺とは対極に位置する人物としての印象が強いですけども、実は中禅寺も堂島も云っている事の根本は同じなんですよね。
中禅寺の「この世には不思議なことなど何もない」というのは、この世の全ての事柄・事象を知っている訳でもないのに、解らないからって気安く“不思議だ”と云ってかたづけるな。みたいな意味で、云い替えると「この世の中、何が起こっても当たり前だ」というスタンスでの発言なんですよね。だから榎木津の目の事とかも別段驚いたりしないよ~っていう。
堂島の「世の中の現象全て不思議と云えば皆不思議だ」の発言も「何が起こっても当たり前だ」という、同じ内容の発言です。云い方を替えているだけ。
【巷説百物語シリーズ】でも出て来る「世に不思議なし、世凡て不思議なり」ですね。
「それは貴様も同じことだ中禅寺。貴様のしていることと私のしていることは全く同じだ」
「ただ一つ違うところはな――」
「――貴様は愉しんでいないが」
「――私は――娯しんでいる」
同じなのに、何故堂島はこんなにも邪悪に見えるのか。それは愉しんでいるから。こんな非人道的で悪趣味なゲーム(宴)を企画したのも、個人的な娯楽の一貫。ただそれだけなんですね。
この愉しんでいるかどうかで人物の見え方が違うというのは『ヒトごろし』の土方と沖田にも共通していると感じる点ですね↓
家族
佐伯家が崩壊したこともそうですが、今作「始末」では村上貫一を通して“家族”についても描かれています。
貫一や兵吉がいた村上家は、堂島などの企てによって崩壊させられたのですが、これが別に手荒なことをして崩壊させた訳ではなく、貫一にしろ兵吉にしろ、通常は上手くいくはずもない子供の突発的な家出をサポートしただけに過ぎません。
「(略)家族と云うものは実はどんな家族だっておかしいのだ。異常なのだ。でもね、家族が家族で居るうちは、それは異常でもなんでもないんだ。だから――壊すのは簡単なことだ。先ず――第三者の視点を導入する。それだけで家族は変容する。観察することが対象に変化を齎す。そうすれば――後はそこから生まれる差異を増幅させれば済むことだ」
「親を憎まぬ子は居ない。子を疎ましく思わぬ親も居ない。また親を敬わぬ子は居ないし、子を慈しまぬ親も居ない。人の心と云うものは常に矛盾している」
どの家族も端から見れば異常。でも、家族内ではどんなことも平凡なことだと思っているし、親や子供に不満はあっても、経済的に自立が出来ない・体面を保ちたい・義理や恩がある・・・と、障害や囚われた思いがあり、それを疑問にも感じずに家族で居る。
家族を家族たらしめているのは、もちろん愛情もあるだろうけれども、こういった異常な部分やしがらみによるところが大きかったりする訳で。
第三者に「あなたの家族は異常だ」と云われれば平凡な家族の日常は崩れ去り、親が体面を保つことを放棄し、子供が経済的な力を手に入れて、親も子供も一切の障害がなくなり個人の自由に生きるなら“家族”など要らなくなる。もっと云うなら、家族に世間一般の“正常だとされる概念”を完全に当てはめようとするなら、家族など最初っからないほうが良いのだということになりかねない。
「(略)家族を護って何の意味がある。国を護ることに意味がないのと同じだけそれは無意味ではないか。法を守ることに何の根拠がある。迷信を信じるのとどう違うと云うのだ。個性を主張し、性差を主張し、立場を主張し、そんな醜い世の中に何の救いがあるのだ。格差をなくせ段差をなくせと叫んで、概念の化け物のようになって生きることにどんな得があると云うのだ」
上記は堂島のセリフ。この作品は昭和二十年代後半が舞台ですが、“概念の化け物”というのは現代の社会を象徴しているように思えますね。近年はSNS が盛んになって晒される枠組みが大きくなったことで「正しさ」にかこつけ、度を超えるほどの主義・主張がうるさく叫ばれる世の中になっている気がします。まさに“概念の化け物”ですね。
と、読んでいて思わず堂島の意見に同調したくなったところで中禅寺の以下の切り返し↓
「それでは伺いましょう。意味があることにどんな意味があるのです?得があることや、救いがあることや、根拠のあることは、損をすることや救われないことや無根拠なことより勝っていると云うのですか?そんなことはないでしょう。だから、あなたに兎や角云われる筋合いはない」
こんなこと云われちゃ、ぐうの音も出ない(゚Д゚)
あ、意味・・・なかった。っていう衝撃というか目が覚める思いというか。とにかく感銘を受けました。こういう驚きがあるから京極ファンは辞められない。さらに、この後の中禅寺の決めゼリフと榎木津の「そのとウりだ!」が爽快でシビれます。ジャジャーン!って感じ。
意味だのなんだの、別に必要ないんですよ。特に家族なんかにはね。
家族とは、きっと解決するものではなく継続するものなのだろう。
先輩刑事の有馬が貫一に「親子に本当も嘘もあるか!」と怒鳴るシーンも好き。この有馬刑事の名前、「有馬汎(わたる)」ですが、水木しげるさんの作品にも同じ漢字表記で「有馬汎(ぼん)」という学者が登場しているらしいです。
主要人物達の見どころ
今作は中禅寺が事件の当事者の一人ということで、中禅寺の人間くささが垣間見られるし、今までになくマジギレしていて怖い。怖いけどもカッコいい。こわカッコいいですね。「軽はずみに催眠術なんか使う奴は――二流だよ」や、「ただで済ませるさ。僕を誰だと思っている」や、「あのな坊や。勘違いするなよ」などのセリフがシビれます。※私は中禅寺ファンです。
そして今作はですね、榎木津の有り難みを強く感じるお話となっております。京極堂の座敷に榎木津が登場してからの空気の変り方が凄いです。絶望感漂う雰囲気を一発で粉砕してくれます。中禅寺を唆すシーンは必見です。友人思いな榎木津。
石橋を叩いて渡らない本屋、石橋を叩いて落ちる関、石橋を叩き壊す馬鹿修、石橋なんぞ叩きもしないで飛び越える探偵
と、いう例えが凄くよく言い得ていて可笑しいです。
韮山山中での榎木津と木場との闘いも必見ですね。
木場といえばお潤さん。やっぱり木場のことが・・・木場、モテモテですね。シリーズの登場人物達のなかで一番モテていると思う。本人は気がついてないけど。お潤さんと中禅寺の会話が大人な雰囲気(?)で少しドキドキします。鳥口は中禅寺が女を口説いてる姿は想像出来ないと云ってましたが、中禅寺が本気で口説いたら何かヤバそうだな、と、お潤さんとの会話で思いました。
都合により関口が不在ですが、普段はあまり描かれない雪絵さんの心境や、敦子を巡るアレコレとか、朱美の相変わらずの啖呵の切り方とか、今作から新加入の河原崎松蔵とか※河原崎さんは『百器徒然袋』にも登場します↓
見どころ一杯でもう云いきれない・・・(^^;)とにかく全てが必見です!
第一期完
気になる堂島静軒ですが、最後、中禅寺に「今後は一切の手出し無用だ。解ったな――」と云い残して、藍童子を連れて姿を消します。今後も何かしらの形で黒幕的立場を発揮しそうな予感を漂わせつつの退場ですね。藍童子もまた登場するのかな?
シリーズ最大の敵っぽい人物の登場をもって【百鬼夜行シリーズ】の第一期は終了。否が応でも今後に期待してしまうところですが、果たしてどうでしょう。※シリーズ九作目の『邪魅の雫』で少し関係してくるんですけどね。
いやいや、まだまだこんなもんじゃなでしょうと。直接対決に期待。
シリーズ第一期のクライマックス、ファンなら読み飛ばすことの出来ない必読の書ですので是非是非。
ではではまた~