夜ふかし閑談

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『蜜蜂と遠雷』あらすじ・感想 大長編だけど内容は簡単?な小説

こんばんは、紫栞です。
今回は恩田陸さんの蜜蜂と遠雷のまとめと感想を少し。

蜜蜂と遠雷

 

第156回直木三十五賞、第14回本屋大賞受賞作。

 


あらすじ
推薦状
皆さんに、カザマ・ジンをお贈りする。
文字通り、彼は『ギフト』である。
恐らくは、天から我々への。
だが、勘違いしてはいけない。
試されているのは彼ではなく、私であり、皆さんなのだ。
彼を『体験』すればお分かりになるだろうが、彼は決して甘い恩寵などではない。
彼は劇薬なのだ。
中には彼を嫌悪し、拒絶する者もいるだろう。しかし、それもまた彼の真実であり、彼を『体験』する者の中にある真実なのだ。
彼を本物の『ギフト』とするか、それとも『災厄』にしてしまうかは、皆さん、いや、我々にかかっている。
ユウジ・フォン=ホフマン

3年ごとに開催される芳ヶ江国際ピアノコンクール。まだ今年で6回目であるが、優勝者が後に著名なコンクールで優勝するということが続き、ジンクスのように、近年新たな才能を発掘する場として音楽界でも強く注目されるコンサートとなっていた。
かつて天才少女として名をはせたものの、母の死を切っ掛けに表舞台から姿を消してしまっていた20歳の栄伝亜夜。音大出身で楽器店勤務のサラリーマン、妻子持ちの高島明石28歳。高い演奏技術とスター性を兼ね備えた優勝候補、マサル・カルロス・レヴィ・アナトール19歳。そして、今は亡き音楽界の伝説的存在であるユウジ・フォン=ホフマンの推薦状と共に、”劇薬“のように突如現われたピアノを持たぬ15歳の少年・風間塵――。

彼らコンテスタントが、天才たちが繰り広げる第一次から三次予選、本戦までの闘い。
果たして優勝するのは、音楽の神に愛されるのは誰なのか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12年越しの大作
蜜蜂と遠雷』は刊行の際、「構想から12年、取材11年、執筆7年」という謳い文句の通り、12年越しの大作です。
物語の構想はピアノコンクールのエントリーから本選までをひたすら追うというシンプルなものですが、単行本ですと二段組で500ページ程、

 

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

 

 

文庫だと上下巻あわせて1000ページ程

 

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)

 

 と、小説としては結構なボリュームがあります。


12年越しなのだからそれぐらいは書きたいものなんだろうとは思いますが、凄いのはホントにひたすらピアノコンクールの描写に終始しているところです。ピアノを演奏しているか聴いているかしている場面がほとんどで、事件が起きたり、脇で別のお話が展開されるなどということも一切なく”ピアノコンクール“を書き切っているというのは、作者の本作への思い入れが伝わってきますし、クラシック音楽という、一般的な認知度や共感も得にくい題材でこのページ数読ませる事が出来るというのも凄い。音楽は元々ただ”感じる“もので文章や絵で表現するものではないですからね。作者の手腕が問われるというものです。


3年に1回開催される「浜松国際ピアノコンクール」をモデルに4度取材されたとのことですが、この作品を書くにはそれくらいの取材が必要なんだろうというのは読んでいるとよく分かります。

私自身、クラシック音楽に関しては全くの無知なのですが、そんな私でも難なく読めました。クラシック音楽界や曲に詳しい人のほうがより愉しめるのかな~とは思いましたけど。出て来る曲がどんな曲か気になって、読んでいる最中に何度も動画検索しました(^^;)。作中で演奏されている曲がまとめられたCDがあればいいのに!と、思っていたんですが、ちゃんと出ているのですね、CD。↓

 

『蜜蜂と遠雷』ピアノ全集[完全盤]

『蜜蜂と遠雷』ピアノ全集[完全盤]

 

 

2017年発売のもので、全51曲129トラックでCD8枚組。収録時間は約9時間40分。こちらも小説同様の大ボリュームになっております。奥田陸さん書き下ろしの短編小説も収められているようです。
読者の要望にみごとに対応した、本と一緒に愉しむのに最適なお品ですね。商売上手感溢れる・・・・・・。

 

 

 

映画
2019年10月4日に実写映画公開が決定しています。


キャスト
栄伝亜夜松岡茉優
高島明石松坂桃李
マサル・カルロス・レヴィ・アナトール森崎ウィン
風間塵鈴鹿央士

 

物語りの要となる風間塵役を演じる鈴鹿央士さんは、100人を超えるオーディションから抜擢された新人で今作が俳優デビュー作なんだとか。

この作品を映画化って・・・え、演奏どうするのー!!??
ですが、主要四人それぞれの演奏個性に沿って、著名なピアニストに演奏してもらうようです。
それぞれ、栄伝亜夜=河村尚子、高島明石=副間洸太朗マサル・カルロス・レヴィ・アナトール=金子三勇士、風間塵=藤田真央
そして、この組み合わせ(?)によるインスパイアードアルバムたるものが、それぞれの人物バージョンで2019年9月4日に発売されました。↓

 

映画「蜜蜂と遠雷」 ~ 河村尚子 plays 栄伝亜夜

映画「蜜蜂と遠雷」 ~ 河村尚子 plays 栄伝亜夜

 

 

上記した2017年発売の完全収録版とはまた異なるものですね。

こちらは各1枚3000円するので、4枚すべてコンプリートするとなると完全収録版よりだいぶお高い出費になる。こちらの方が各演奏者の個性が際立っているんでしょうけど。

 

三次予選での課題曲として出て来る、宮沢賢治の詩をモチーフにした架空の現代曲「春と修羅」は、映画では藤倉大さんが作曲しています。※インスパイアードアルバムにも収録されている。

それにしても、ほぼ音楽描写で成り立っている原作小説ですので、映画で表現するのはかなり難しいと思います。小説の前評判も「映像化不可能!」と謳われていましたし、著者の恩田陸さんも映画化のお話が持ち込まれたときは「映画化は無謀」というご意見・・・と、いうか、そもそも、「小説でなければ出来ないもの」というつもりで書いた作品だったので、驚きを通り越して呆れてしまったらしい。
“天才の演奏“だらけのこの作品、映画という形でどう説得力を持たせるのか、監督・石川慶さんがどのように演出するのか気になるところですね。

 

皇なつきさんによる漫画もあります↓

 

蜜蜂と遠雷 (1)

蜜蜂と遠雷 (1)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下若干のネタバレ~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おもしろくない?
多くの人々に絶賛されて直木賞も受賞している今作ですが、ネットのレビューなどでは「つまらない」という意見もチラホラリ。検索候補にも「おもしろくない」と出て来ます。
どんなに傑作だと言われている作品だって100人が100人、皆が絶賛するハズもなく、注目作はそれだけ反対意見も出るものなので、ある意味人気がある証拠なのですが。
・・・・・・でも確かに、「つまらない」という感想があるのもわかるというか、納得できる部分が多々あるなぁとは私も読んでいて感じました。

 

ピアノコンクールの一次から三次予選、本選までを時系列通りに追っていくストーリーで、主要登場人物のコンテスタントは四人だけ。
ストーリー上、コンテストに勝ち進んでいかないと話が成立しないと読み手もわかってしまうので、ドキドキもハラハラもしないんですよね。「どうせ本選までいくんでしょ?」みたいな。
他天才三人と違い、明石だけは何処で落ちてしまうかわからないし、読者としても一番感情移入しやすい人物だったのですが、明石は二次予選という早い段階で落ちてしまうので、そこから先は読み手としても一気にトーンダウンしてしまう感じ。

 

音楽描写に重きが置かれていて、それがこの小説の持ち味であり、多彩な文章で演奏を表現しているのですが、結局一次、二次、三次予選も本選も「凄い!凄い演奏!!」という繰り返しなので、若干辟易してきてしまうというのが「おもしろくない」という感想を抱く一番の要因かな、と思います。凄い演奏をしていなければ勝ち進んでいけない訳だから、これはしょうがないことなんでしょうけど(^^;)。


また、今作を読んで他の漫画作品、ピアノの森」「いつもポケットにショパン」「のだめカンタービレなどを連想する人が多いようです。


ピアノの森」と「いつもポケットにショパン」は読んだことがないので何とも言えませんが、「のだめカンタービレ」に関しては、漫画もドラマもすべて観た身としてはクラシック音楽が題材というだけで他はまったく類似点はないように思います。
クラシック音楽が題材となると、どうしてもある程度設定は似ちゃうものなんじゃないかという気はしますけどね。

才能が問われる舞台だから規格外な天才を登場させて主軸にして、努力している面々、天才故の葛藤が描かれて、コンクールで取り組んできた成果が示される~っていう。


クラシック音楽に限らず、芸術を題材にしているものには大体このストーリー展開なのでは。奇抜な設定は不必要で、”どう描くか“で勝負している。


蜜蜂と遠雷』は「音楽を小説でどう描くか」ということに的を絞っているため、劇的な展開や山場を設けるのもあえて排除しているのではないかと思います。直球勝負の作品ですね。

とはいえ、私も登場人物達の掘り下げや葛藤はもっとあっても良かったのではと感じましたがね・・・。亜夜もマサルも塵も純真すぎというか、幼すぎるのではないかというのも気になりました。

 

 

 

 

タイトルの意味
蜜蜂と遠雷』というタイトルですが、「蜜蜂」は風間塵を指しているのだろうとは分かるものの、「遠雷」は何をいわんとしているのかが最後まで読んでもハッキリとは分からずじまいです。


作中での「遠雷」についての描写は、

塵は空を見上げる。
風はなく、雨は静かに降り注いでいた。
遠いところで、低く雷が鳴っている。
冬の雷。何かが胸の奥で泡立つ感じがした。
稲光は見えない。

と、いう部分のみ。


これを読むと、「遠雷」は”遠くから胸の奥を泡立たせる何か“といったボンヤリとしたイメージという印象。ホフマン先生のことを表しているのではないかという意見が多いようですが、どうなのでしょう。

 

今作では音楽は世界に、大地に、自然の中に元から溢れているものである。と、度々描かれています。

 

スターというのはね、以前から知っていたような気がするものなんだよ。

 

なんというのかな、彼らは存在そのものがスタンダードだからね。世の中には現われた瞬間にもう古典となるものが決まっているものがある。スターというのは、それなんだ。ずっとずっと前から、観客たちが既に知っていたもの、求めていたものを形にしたのがスターなんだね。

 

これはスターについて作中で語られていることなんですが。
新たに創り出したり産み出したりしているのではなく、元からあるものを発見しているだけ。
塵がホフマン先生と約束したのは「音楽を連れ出す」こと。狭い部屋から出して、外の世界に音楽を返す。本作の最後で、音楽は世界中に溢れている命の気配、命の予感であり、せっせと命の輝きを集める「蜜蜂」の羽音は命の営みそのものの音である、と出て来ます。
「蜜蜂」であり、「音楽」である塵は、その存在自体が起爆剤となり、周りの才能を刺激し、開花させる『ギフト』である。
推薦状を書いたホフマン先生の思惑を読み解くことが今作の主題なのかも知れませんね。

 


エンタメ作品としての愉しさは希薄かもしれませんが、音楽・読書にどっぷりと浸かりたい方は是非。

 


ではではまた~

 

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)

 

 

 

蜜蜂と遠雷(下) (幻冬舎文庫)

蜜蜂と遠雷(下) (幻冬舎文庫)

 

 

 

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