夜ふかし閑談

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『陰摩羅鬼の瑕』(おんもらきのきず) ネタバレ・解説

こんばんは、紫栞です。
今回は京極夏彦さんの陰摩羅鬼の瑕』(おんもらきのきず)をご紹介。

文庫版 陰摩羅鬼の瑕 (講談社文庫)

 

あらすじ
「おお!そこに人殺しが居る!」
関係者一同が集う場面に突如躍り出た探偵・榎木津礼二郎は、事件が起こる前に威勢良く犯人を指摘した――。

昭和二八年七月。旅先で熱を出し、一時的に視力を失った榎木津に付き添って長野の白樺湖畔に聳える洋館・元華族の由良邸に赴いた小説家・関口巽
鳥の剥製にまみれ「鳥の城」と呼ばれるこの館では、当主・由良昂允と婚約者・奥貫薫子の結婚式が行われようとしていた。これは昂允にとって五度目の婚儀であり、彼は初婚以来四度、婚姻直後に花嫁の命が奪われる悲劇に見舞われていた。
二十三年前に。
十九年前に。
十五年前に。
八年前に。
いずれも婚儀の翌朝、夫婦の寝室で花嫁は死体となって発見されたという。
さらなる悲劇を防ぐため、昂允は探偵の榎木津に警護を依頼。昂允はかねてから関口の小説の熱心な読者であり、榎木津と共に関口も歓迎した。関口は昂允やその婚約者の薫子と接する中で五度目の悲劇はなんとしても防がねばと奮闘するが・・・。

一方、過去三度にわたり由良邸の花嫁殺人事件を担当した元刑事・伊庭銀四郎は、刑事・木場修太郎から由良邸での五度目の婚儀の話を訊き、思いつきから退職直前に担当した事件で知り合った古書肆・中禅寺秋彦の元を訪れる。「鳥の城」にまつわる記憶に長年悩まされていたことを自覚した伊庭は、中禅寺に由良邸の呪いの“憑物落とし”を依頼。共に長野へと旅立つ。

五度目の悲劇を防ぐことは出来るのか?そして、嫁いだ花嫁の命が次々と奪われる、“その”訳とは?

「貴方にとって生きて居ることと云うのはどのような意味を持つのです――」

 

 

 

 

 

 

 


シンプルな作品
陰摩羅鬼の瑕』(おんもらきのきず)は百鬼夜行シリーズ】(京極堂シリーズ)の八作目。

 

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前作『塗仏の宴 宴の始末』がシリーズ第一期締めの大作って感じで、

 

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この大作終了後はシリーズの派生作品が次々と刊行されるなどしていたので、その間は本筋のこのシリーズは少しのお休みをしていました。

前作から五年ぶりの久し振りの長編として書かれたのが今作ですね。(『鵺の碑』がいまだに刊行されない今日を思うと、“五年ぶり”なんてかわいいもんですけどね・・・ホント)
このシリーズは冊を増す毎に事件が多重構造の複雑なものになっていっているという印象で『塗仏の宴』はその最たるモノだったのですが、第二期に突入(と、いうことで良いのかよく分かりませんが)の一発目は果たしてどんな作品を持ってくるんだ!?というと、これが今までにないくらいシンプル。シリーズ史上一番シンプルで判りやすい、言ってしまえば最も単純なお話となっています。

 

今作はシリーズ第一作姑獲鳥の夏での事件から一年が経過、舞台はふたたびの夏で、“館もの”。追うのは一つの事件。主な語り手は関口。鳥の妖怪。・・・と、いった具合に、読んでいるとシリーズ第一作の『姑獲鳥の夏』がおのずと連想されるようなお話。
進むに連れて主要メンバーが増えていっていた【百鬼夜行シリーズ】ですが、今作で登場する主要メンバーは中禅寺、榎木津、関口、木場という第一作から登場しているお馴染みの四人のみで、この点もまた第一作に立ち返っているような、原点回帰している印象を受けます。

 

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関口の語りが大半を占めるのも久し振りで懐かしいと感じるところですね。

 

 

 

 


躁鬱コンビ(榎木津&関口)
シリーズファンとしては裏表紙に書いてある「あらすじ」だけでえらく引き込まれるところであろうと思います。私はそうでした。


目の見えない榎木津!それに付き添う関口!盲目の躁病者に病み上がりの鬱病患者!この躁鬱コンビ、混乱必至!なんて厄介そうな(そして愉快そうな)、取り合わせなんだ!読まずにはいられないわっ!!

 

と、なる訳ですよ。


薔薇十字探偵社』の益田は別件の調査中で向かうことが出来ず、例によって例のごとく、最初は中禅寺など方々に頼んだものの先約があると断られ、関口におはちが回ってきたという顛末。なんだか鉄鼠の檻

 

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での鳥口と同じ思想だなぁと思うのですが。(榎木津を完全に扱えるのは中禅寺なんだけど、ダメなら関口を差し向けて、“いじめ抜かれててもらう”ことで周りへの被害を最小にしようみたいな)下僕は思想が似るもんなんですかね。
後々事態を確認した中禅寺も、あの取り合わせじゃ「混乱することは必定である」と云っています。

関口は前作『塗仏の宴』にて、冤罪で牢屋に入れられて刑事に罵倒されるという酷い目にあってからまだ間もないということで、鬱、大爆発。「そうだった、関口ってこうだった」と、久方ぶりの鬱々語り(鬱病が悪化しているぶん、パワーアップしている)に果てしない既視感であります(^^;)。


普段は鬱病だからといって特別気を遣わないんだけど、病み上がりということで中禅寺も榎木津も関口のことを気遣っているのが今作では見受けられます。
榎木津は珍しく「どうも危険だから先に帰るか関口」とちゃんと名前で呼んでいる場面がありますし(マジなところでは綽名呼びしない榎さん)、中禅寺が由良邸に赴いてきたのも由良邸の事件に感化されているであろう関口の精神状態をおもんばかってという部分があります。

 

熱を出して一時的に視力を失っている榎木津ですが(榎木津って悪寒も逃げそうな性格してるのに結構風邪引くよね・・・)、常態の詳細としては通常の視力は失っているものの、もう一方の視力、“異能の視力”は失っていません。
榎木津の異能については中禅寺の仮説によれば「他人の記憶が視える」というもの。頭の上にスライドで映したみたいに映像が視えるということなのですが、今回はこの各人の記憶映像のみが視える常態ですね。

 

それは重なった過去が現在として視えると云うことになるのだろうか。しかも――その過去を所有しているのが果たして誰なのか、榎木津には判らないと云うことになる。
目撃した主体となる人物には、自分自身の姿に関する視覚的記憶はないのである。誰であれ自分の姿だけは視ることは出来ないからだ。
榎木津には――。
殺された花嫁達の姿だけが視えたのか。

 

殺害場面の記憶が視えるものの、誰がその記憶の持ち主か判らないので「おお、そこに人殺しが居る!」と宣言されても犯人特定に至らないという訳です。逆に云えば、今作は榎木津が通常の視力を失っていなければ瞬時に終わっていたお話だということですね。

目が見えなくって榎木津はどうかというと、これがまったく変わらない。いつも通りの“神たる振る舞い”で、困惑も悲壮感も皆無。メイドと仲良くなって世話を焼かせたりなどしている始末で、いつもながら関口や周囲の人々を唖然とさせています。
しかしまぁ、関口に手を引かれながら走る榎木津という、今作でしかお目にかかれない場面があったりするので必見です。
事件経過に怒って「面白くねぇ」と汚い言葉を云う榎さんもレアなので是非。

 

 

 

 

 

 


他作品との繋がり
今作では別口のアンソロジー集に書かれた作品が二つ組み込まれています。
『死の本』

 

 

に収録されている「獨弔」(どくちょう)。
こちらは関口巽が書いた短編小説”として書かれたもの。女の死体を相手に男が喋っているというもので、なるほど関口らしい奇っ怪な幻想小説となっています。
今作では伯爵(由良昂允)が関口の小説のファンで、この短編小説について質問する場面があります。この「獨弔」なんですが、凄く良いです。作中で伯爵も特に気に入って何度も読んでいると云っているのですが、私自身も伯爵と同じく何度も読み返しています。「分かる。この短編良いよね伯爵」と、勝手に読みながら胸中で投げかけていました(^_^;)。個人的にはこの「獨弔」が収録されているだけで今作を買う価値があると思うほどです。

 

もう一つは金田一耕助に捧ぐ九つの狂想曲』

 

 

に掲載された「無題」
なんと、関口が“あの”、横溝正史と対面して会話をするといった内容。

初読の時はアンソロジー集に先行掲載されていたことを知らなかったので、いきなり横溝正史が登場したのにビックリしました。鬱病爆発中の関口も著名人との対面にさすがに興奮しております。最初は唐突なように感じますが、読み進めていくとこの関口と横溝先生との会話が作中で様々に作用していることに気が付く仕組み。
今作『陰摩羅鬼の瑕』は“婚儀の未明に花嫁が殺害される”という事件。この事件内容はミステリ好きなら金田一耕助シリーズの第一作『本陣殺人事件』

 

 

をまず連想すると思うのですが、まさにその作者自体が登場するというのが何とも意表を突いていて面白い。

 


他、作品の繋がりとしては、今作で語り手の一人として登場する元刑事の伊庭銀四郎は多々良センセイが主役のスピンオフ『今昔続百鬼-雲』に収録されている「古庫裏婆」に出て来る刑事さんです。

 

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即身仏絡みの事件で、伊庭さんは定年前最後の事件として捜査にあたっています。このお話には中禅寺も登場して(良いところをかっさらって)いるので、伊庭さんは中禅寺とこの事件の際に知り合ったという訳です。時系列でいうと、「古倉裏婆」の事件は今作から二年ほど前の出来事ですね。
あと、今作でチラッと出て来る刑事の大鷹篤志は、次作の邪魅の雫でも登場しています。

由良邸ですが、『絡新婦の理』

 

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の織作邸と同じベルナールという建築家によるものという設定です。


そして、別シリーズである後巷説百物語に収録されている

 

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「五位の光」「風の神」には華族である由良家が登場しています。実は「五位の光」の方は『狂骨の夢』とも繋がりがあるので、読むとよりシリーズの深みを味わうことが出来ます。

 

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以下ネタバレ~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


犯人・真相
超絶ミステリなだけに、いつもは真相の説明を要約して云おうにも簡単にまとめることは難しい、複雑な真相だらけの【百鬼夜行シリーズ】ですが、上記したように、この『陰摩羅鬼の疵』は真相の説明はこれ以上ないくらい簡単に済ますことが出来ます。

 

「死体」という概念がない伯爵(由良昂允)が、婚姻とは妻を「剥製」のような常態にして家に入れることなのだと思いこんで婚儀の度に殺害していた。

 

簡単と云いつつ、これだけだと分からないでしょうが(^^;)。
そもそも、この連続花嫁殺人事件は夫である伯爵以外に犯行が可能な人間がいないことは状況が物語っています。新婚初夜の寝室で、一晩ずっと隣に居た花嫁が朝になったら殺害されているんですからね。伯爵が犯人に決まっているんですよ。


じゃあ何で今まで四回とも逮捕されずにすんでいたのかというと、伯爵の態度が犯人としては絶対的にあり得ないようなものだったから。嘆き悲しむ姿に嘘はなさそうだし、自分が疑われるのが確実な状況下での殺害は犯人心理としておかしいし、そもそも娶ったばかりの妻を殺害する動機がない。

作中には伯爵の語り部分もあり、捉えようによっては、今作は叙述トリックもの」と受け取ることも出来るのですが、読んでいると「伯爵が犯人なんだ」というのは読者には丸わかりなんですよね。だから読者を驚かすトリックという訳ではないのですよ。序章の部分からして伯爵が“思い違い”をしていることが示されているので、最初っから犯人をばらしているような書き方ですね。

「は、伯爵は――死の概念が――多分、一般とは異なって居られるのです」

と、伯爵との会話の中で関口が気付いたように、伯爵が「死」をどのように一般とは異なる形で考えているのか、そして、どのようなことがあれば“そのような思い違い”が発生するのかを突き止めるのが、ミステリとして今作が意図するところだと思います。

起こっていることは分かるのに、どうして“そうなるのか”が解らないというのは、同じく叙述要素がある狂骨の夢に通じるものがありますね。

 

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死とは
伯爵の“死の概念”が具体的にどのように一般と異なって居るのかというと、「物体として存在しているものは生きている」というもの。

 

伯爵にとっては、
生きていることは存在することなのだ。
そして存在しなくなることが死ぬことなのだ。
伯爵にとっての殺人とはつまり、人間をこの世界から消滅させてしまうことであり、そうでなければ人間の形を失わせてしまうことなのである。人間の形をして此の世に存在している以上、伯爵にとってその人は生きて居るのだ。
生命のあるなしは――。
関係ないのである。存在するモノは総て生きて居るのだ。

 

なので、伯爵には「死体」という概念がない。
なんでまた伯爵はそのような概念を持ったのか。それは伯爵が生まれてから殆ど「由良邸」から出ない、外界からは閉ざされた世界で生活していたこと、そして、幼少の頃、伯爵は“母親の剥製”と共に過ごしていたという特殊環境に置かれていたためです。


父親である由良行房は、学者として失脚してしまったことで精神的に追い込まれ、病死した妻の死体を、館に住み込ませていた剥製職人に命じて“妻の剥製”を造らせた。伯爵は“その剥製の母”と二歳から五歳までの三年間共に過ごしていた。


世間一般にはどう考えても狂った生活なのですが、その生活が“日常”だった伯爵はそれが“普通”だと考え、嫁入り・妻になることとは、動かぬ、喋らぬ常態になること、外界では「死体」と云われるものになることだと認識してしまうのです。
由良邸は至る処鳥の剥製だらけの館。伯爵は死体に囲まれてずっと生きてきた訳で。個人的に剥製が苦手なので、読んで想像するだけでゾッとしていましたけど(^^;)。

 

それにしても、伯爵は五十代。今までの人生で気が付く場面はあったろうと思ってしまうところですが、作中でも述べられているように「死ぬとはどう云うことですか」と尋ねられても確実なことは語れない。「生命活動が停止すること」と云いたいところですが、じゃあ「生命とは何か」と問われても誰も答えられない。知らないから。
結局、「死とは死だ」としか云いようがない。語りようがない、あやふやなモノなんだけれども、生き物には絶対的なモノが「死」。語ることで解らせようというのは実は無理難題なんですね。世間に触れていく中で解っていくしかない。だからこそ伯爵の世界と外界はいつまでもズレてそのままになってしまった。

 

 

 

 


作中で「そんな馬鹿なことがあるのかと思いましてね」と中禅寺も云っているように、今作の事件は判ってしまえば簡単なことで、起きていたことはメチャクチャ単純。しかし、あまりにもあんまりな、哀しい事件です。
どの花嫁に対しても誠実な愛情を抱いていた伯爵。しかし、悪意も殺している認識もまったくなくないままに殺害を繰り返してしまった。

 

あまりにも悲しいじゃないか。
悪意など、何処にもなくって。
悪人など一人も居なくても。
それでもこんな悲しいことは起きるのだ。

 

すべてを知らされた伯爵の心中を思うと、本当にあんまりな事実ですよね。五十年生きてきて今更知らされて、すでに取り返しのつかないことになっていて・・・。到底受け入れられることじゃないでしょうし、普通なら気が狂っているところでしょう。だから今回の憑物落としはこれまでになく残酷で厳しいもの。

 

「傷は――致命傷でない限り、手当てをすれば治るだろう。そして傷の手当ては人にも出来るさ。でも手当てをしたって、それで傷が治る訳じゃない。本当に傷を治すのは傷を受けた当人だ。当人の肉体だ。傷は自分で塞がるものなんだ。手当てと云うのは傷を治す手助けに過ぎないし、時に傷を受けた時よりも痛いものだよ。治るか治らないか、それは当人次第だ。そこは他人が手出し出来ない処なのだよ。」

 

伯爵の論旨の瑕は、伯爵が自分で治すしかないと迫る訳です。
「伯爵はどうなってしまうんだ!?」と思うところですが、伯爵は常々「納得の出来る整合性のある解答が得られば、それが自分の築き上げてきた総てを否定する結論であっても受け入れる」というのをモットーにしてきたので、中禅寺の整合性のある説明を聞いてすべてを受け入れます。

なんとも聡明で立派な人だなぁと思いますね。もし自分が同じ状況に立たされたら、とてもこんなに冷静ではいられないよなぁ・・・(-_-)。
最終的に、伯爵は過失致死で送検されます。過失・・・致死かぁ・・・ううん、なるほど。

 


そんな具合に、一言で云えば「人間剥製話」な今作。シンプルなだけに語りがたい難しさがあるのが『陰摩羅鬼の瑕』という作品ですね。


シリーズとしてはやはり躁鬱コンビを楽しむ感じでしょうか。木場がお馴染みメンバーと絡んでくれないのがチト残念ですけどね。
伊庭さんの亡くなった奥さんへの想いなども読んでいて味わい深いです。個人的に執事の山形さんに感情移入してしまって、途中気の毒だなぁと感じる場面などもあったのですが、メイドの栗林さんと一緒に小さな宿屋を建てて伯爵の帰りを待つとのことで良かったなぁと。


終盤にはスピンオフの『百器徒然袋-雨』の第二話「瓶長」の事件が調査中である記述(益田の亀探しですね)があります。

 

 

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陰摩羅鬼の瑕』からスピンオフや別シリーズを交え、京極ワールドがグンと広がっているので、やはりシリーズの転換期になっている作品であることは間違いないと云えるかと。
第二期開幕、是非ご堪能下さい。

 

 

 

 

ではではまた~

 

 

 

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