夜ふかし閑談

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『鳩の撃退』原作 あらすじ・解説 実話がベース!?嘘か本当か新感覚小説

こんばんは、紫栞です。

今回は佐藤正午さんの『鳩の撃退法』をご紹介。

 

鳩の撃退法 上

 

第六回山田風太郞賞受賞作。

 

 あらすじ

一年前の二月二十八日。夜には大雪が降ったその日、かつては直木賞を受賞したこともあるベストセラー作家だったものの、流れ流れて地方都市で風俗店「女優倶楽部」の送迎ドライバーとして糊口をしのぐ日々を送っていた津田伸一は、行きつけのドーナッツショップで仕事帰りの男と偶々相席となり、一時言葉を交わした。別れ際、津田は男に「こんど会ったときに、今読んでいるピーターパンの話をしよう」と社交辞令のたわいもない約束をする。

 

相席した男の名前は幸地秀吉。バーの経営者だった幸地秀吉はこの二月二十八日の夜を境に妻と四歳の娘と共に忽然と姿を消した。

 

それから数日後、津田は亡くなった古書店店主・房州老人の形見分けにキャリーバッグを受け取る。古本が詰まっているだけだろうと思っていた津田だったが、鍵付きのそのキャリーバッグを開けてみると、そこには三千万円を超える札束が入っていた。突如転がり込んできた大金。しかし喜びもつかの間、床屋で使ったそのうちの一枚が偽札だったということが判明して――。

 

「一家三人神隠し事件」、その事件と同時に姿を消したという郵便局員、ピーターパンの本、房州老人が残した厄介な金、偽札、その偽札の出所を探る本通り裏の“あのひと”・・・。

読まれるあてのない小説を書き始めた津田の手によって虚と実、過去と現在は入り混じり、様々な人々の人生を左右した二月二十八日、雪降る一日の、“鳩が飛び立った”物語が浮かび上がる。

 

津田が書くこの物語はホントウなのか、ウソなのか。それを決めるのは――?

 

 

 

 

 

読まされてしまう小説

『鳩の撃退法』は2014年刊行の長編小説。1000ページ越えの結構な長さの小説で、単行本も文庫本も分冊の上下巻になっています。

 

今月、2021年8月27日にこの本を原作とした映画が公開予定で、私がこの本を読もうと思ったきっかけは、この映画のエイプリルフール限定フェイクビジュアルの洒落が効いていて気に入ったためです。

 

www.oricon.co.jp

このフェイクビジュアルに書かれているストーリーが可笑しくって、こんなユニークなことをしてくる映画の元のお話はどんなものなのかが気になって読んでみた次第です。

 

読み終わった今となっては、エイプリルフールのこのセンスも納得というか、原作もユニークさと独特のセンスに溢れた作品となっています。

 小説のサイトも面白い↓

shosetsu-maru.com

物語の主人公であり語り手は津田伸一。読者は終始、津田に翻弄されることとなるのがこの作品の特色。

しかしこの津田、元有名小説家であるものの、今は日銭を稼ぎつつ「女は頼りになる」をモットーに女性の住居に居候するのを繰り返す住所不定のロクデナシ。読者はこの津田の語りに1000ページ以上付き合わされる訳で、物語も時系列がゴチャゴチャと入れ替わったり、唐突に別な事柄が挿入されたりと全体的につかみ所がない感じで進んでいくので、どちらかというと読みにくい小説に分類されるのは間違いないのですが、ロクデナシのどうしようもねぇ野郎だと思いつつも何処か憎めない津田の人柄と、軽快な語り口、絶妙なおかしみに満ちた会話劇により最後まで引っ張られてしまうことになる。いわば、“読まされてしまう小説”となっています。津田に翻弄されるのが癖になってしまうというか、それが楽しくなってくる作品。

 

津田の人柄が人柄なので、だらだらと無計画に思い付きで書かれているような印象を受けるのですが、実はかなり綿密に作り込まれた物語になっていて、思わぬところで思わぬ事が伏線となっていて、思わぬ場所で思わぬ時に回収される、なかなか高度なミステリとして愉しめる作品にもなっています。

 

ただ、何度もいうようですが、津田のロクデナシっぷりがアレなので(どんだけだよって感じですが^_^;)、津田の人柄がどうしても受け付けないという人には完読は難しいかなと思います。津田に付き合えるかどうかがこの作品の肝ですかね。

癖が強く、人を選ぶ作品ではありますが、私個人としては大変面白く読むことが出来ました。なので、この本を手に取った人は早い段階で見切りをつけずに、まずは上巻の半分ぐらいはなんとか!欺されたと思って!読み進めて欲しいなぁと思います。

 

 

 

 

 

以下ネタバレ~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小説(ウソ)か、現実(ホントウ)か

この本、まずページをめくると、

この物語は、実在の事件をベースにしているが、登場人物はすべて仮名である。僕自身を例外として。 

津田伸一

 と、もっともらしい注釈的文章が書かれているのですが、これは嘘です。

あまりにももっともらしいので、ウッカリ「実在の事件がモデルに使われている物語か・・・」と勘違いする人もいるかも分からないですが、そもそもこの本の本当の作者は表紙に書かれているように佐藤正午さんですし、「津田伸一」は作中のみの完全な架空の人物なので。

 

「実在の事件をベースにしている」という“テイ”で描かれている物語でして、この本は、元小説家の津田伸一が関わりを持った偽札にまつわる様々な事件について、誰に読まれるあてもなく小説を執筆している。それが、今あなたが読んでいるこの本だよ~という設定。

なので、第一章よりも先に書かれている津田伸一による注釈から、もうこの物語は虚構の小説としてスタートしているという訳です。

中村文則さんの『去年の冬、君と別れ』でもこんなような仕掛けありましたが、

 

www.yofukasikanndann.pink

 

『鳩の撃退法』ではミステリの仕掛けではなく設定として用いられている。

 

書き手である津田が創作の材料としている“実在の事件”、事柄は、「一家三人神隠し事件」と、ドーナッツショップで幸地秀吉が津田に言った「家内は僕と出会ったときもう妊娠していた」「あり得ないんだよ、下の子が産まれるとか」という台詞。にもかかわらず、失踪当時幸地の妻・奈々美は妊娠していたようだという噂。同時期に起こった郵便局員・晴山の失踪。ハンディカムに残された映像。房州老人から津田への大金。偽札。津田の手を離れては戻ってくる本『ピーター・パンとウェンディ』。などなど。

 

これらの一見バラバラで何の繋がりも無さそうな事件や事柄が、津田が小説を執筆していくなかで徐々に結びついていき、最後には真相に辿り着く。小説を書きながら事件の謎を追うといった風に物語が進む訳です。

 

しかし、津田が書いているのはルポルタージュやノンフィクションではなく、あくまで小説。物語としての創作物で、現実ではない架空のもの。嘘なんですね。

 

津田さんは、むこうとこっちでまる二年間に見聞きした現実の出来事を小説に書いている、そういうことですか。いや、違う、と僕は答えた。どう違うんです?僕が見聞きした現実の出来事とは、辞書的な意味での事実、過去に実際あった事実という意味だろう、僕が小説として書いているのは、そうではなくて、過去にあり得た事実だ。過去に実際あった事実と、過去にあり得た事実とはどう違うんです?過去に実際あった事実とは新聞記事だ、一方、過去にあり得た事実、これすなわち小説だ。ちなみに過去にあり得た事実が一流の小説家の手にかかると、過去に実際にあった事実と混同される。

 

と、一流の小説家である津田の手腕により、読者の私達は、何がホントウで何がウソなのか判然としない、虚実の入り混じった小説世界に誘われる。

 

作中の奈々美と晴山の不倫場面や、その後の幸地秀吉と本通り裏のあの人・倉田健次郎との緊迫したやり取りや、幸地秀吉とその家族が失踪する直前の出来事など、リアリティがあって登場人物の心情も伝わってくるし熱中して読んでしまうのですが、ここら辺の部分、津田が実際には居合わせていない場面はすべて、津田による小説としての創作になっています。

 

不倫場面などは読者に読ませた後で、実は晴山が神社前で白くまアイスを奈々美と食べたというシーンは津田が女子大生をナンパするときに使った手口そのままだったとか、過去に奈々美に酷い仕打ちをし、幸地秀吉と倉田健次郎の手によって消されたことになっている「欠端」という男が存在ごと丸々津田の創作で、「欠端」というのはそのナンパした女子大生の名前であり、珍しいので小説に使ったなどということが明らかとなり、熱中して読んでいた読者としては狐につままれたような妙な感覚に陥る。こういった部分がこの小説の巧みなところですね。

 

こんなに創作部分を入れて、読まれるあてのない小説を書いて、津田は一体何をしたいのか。それは、物語序盤での津田が幸地秀吉とした会話に起因している。

津田が、幸地秀吉が持っていた本の帯に書いてあった「別の場所でふたりが出会っていれば、幸せになれたはずだった」というキャッチコピーを見て、津田が「でもだったら」「小説家は別の場所でふたりを出会わせるべきだろうな」と答えた。この会話から。

 

そもそも僕がこの小説を書こうと思い立ったのは、神隠しにあった幸地家の全員を生かしておくためなのだ。言い方を換えれば、生きている幸地秀吉と再開するためだ。小説ならそれができる。

 

無意識的にそんな目的を持って小説を書いていた津田ですが、書いていたお陰なのかなんなのか、終盤で津田にとって思いも寄らぬ、もしくは願っていた通りのサプライズが起こります。ここで書いていた津田自身さえも小説(ウソ)なのか、現実(ホントウ)なのか分からなくなってしまう現象が起こるんですね。

 

晴山青年と一緒に死んでいたという若い女が誰なのかなど、ミステリ的には疑問が残る点もあり、本当はどうだったのだ?となるのですが、よくよく考えてみると「いや、そもそもこの小説は津田が物語として創作して書いているものなのだから、本当も嘘もないんだよな」とあらためて思い、「じゃあこの場合、真相究明に躍起になるのはナンセンスなのか?」と、考えてみたり、しまいには「いいか。本当だの嘘だの、読んでいて面白ければどっちでも」と、結論づけたりして。

つくづく小説家・津田伸一に翻弄されているな~って感じですね。

 

 

 

鳩の行方

『鳩の撃退法』というこのタイトルにある「鳩」ですが、これは作中で倉田が偽札を「鳩」と呼んでいるところからきています。一万円札の裏には鳳凰の絵柄が刷ってあるから、それと区別して鳩と呼んでいるんだろうと。これは編集者のヒラコさんの推測で、津田は「かもな」と濁した返答をしているだけですけど。

 

この小説は最後、三枚の偽札-“三羽の鳩”がどのようにして飛び立ったのか、その行方と経緯が、津田が知り得る情報を元にした推測により、順を追って明かされることで終わっています。

 

三千枚以上の万札を持ちながら、床屋で使った最初の一枚が偽札だったと指摘され、試しにもう一枚を駅の券売機に入れたらはじき出されたことで、三千枚以上の万札のうち何枚が偽札か分からない状況となり、使えないまま持て余していた津田。

何枚かは本物の万札なのではないかと思いつつも使う踏ん切りはつかず、預けていたロッカーの鍵を倉田健次郎と繋がりのあるチンピラに渡して町を去って東京に来たのですが、後で金はすべて本物だったことが明らかとなる。津田が使った二枚だけが偽札だったのですね。

 

元々、房州老人がキャリーバッグの中に入れていた三千万以上の大金は、若くして亡くなった奥さんが房州老人に残した遺産。房州老人は奥さんの残したお金には一切手をつけず、本屋の稼ぎだけで独り生活してきたのですが、死が間近に迫り、使わずじまいだった大金をキャリーバッグに詰めて津田に渡るよう仕向けた。偽札二枚を一番とりやすいような場所に紛れさせて。

 

偽札の出本は本通り裏の“あのひと”、所謂ヤ〇ザ的渡世をしている倉田健次郎。手違いで三枚の偽札が世に出てしまい、様々な人の手を渡って津田の持っていたピーターパンの本に三枚の偽札は挟まれた。

その後、勘違いからピーターパンの本は津田と一緒に車に同乗した子持ちの女性の元へ。房州老人が津田と知り合いだと知っていたその女性は、房州老人に「津田さんに返しておいてくれ」と、ピーターパンの本を房州老人に渡す。房州老人は津田にちょうど三万円と少し貸していたため、本に挟まれた三枚の万札を見て、房州老人は「これは津田が自分に返すために用意していた三万円だ」と早合点し、自分の懐に入れる。翌朝、ホテルをチェックアウトする際に房州老人はそのうちの一枚を支払いに使った。その後、ホテルで偽札騒動が起き、捜査の手が及ぶことはなかったものの、房州老人は自分が使った万札が偽札だったのではと感づき、残りの二枚を大金にわざと紛れさせ、津田に渡した。

 

房州老人が何故そんな事をしたのか、亡くなってしまっているのでちゃんと確認することは出来ませんし作中でも不明のまま終わっているのですが、ま、ちょっとした悪戯心だったのだろうと思います。

札束を前にして使うことが出来ないという状況にし、「さぁ、津田さん。どうする?」と、悪戯小僧的なちょいと困らせる罠を仕掛けた。あわよくば、これが津田伸一の最新小説のネタの提供になってくれればいいなと期待して。

 

札束を前に津田は大いに困り、これをネタに小説を書き始めた訳ですから、結果的に津田はほぼ房州老人の思惑通りに行動したといっていい。多分、房州老人としては偽札の事がなくっても津田に三千万くれてやろうと思っていたんじゃないかなぁ~と個人的には思いますが。

 

しかし、もとをたどると房州老人に偽札が渡ったのは津田が本に札を挟むなんて無精なことをしたからで、津田が自分の手で大金をダメにしてしまったようなもの。何とも皮肉な結果ですね。

知らないところで偽札を巡る物語に津田が一役買っていたというのもまた、生きていることの“おかしみ”というか、何気ない行動が、本人の知らないところで多大な影響を与えているのだという事実がラストで明らかになることで、物語に深い余韻を残しています。

『ピーター・パンとウェンディ』にある、

私たちが生きていくあいだに、私たちの上にきみょうなできごとがおこり、しかも、しばらくは、そのおこったことさえきがつかないことがあります

 そのままですね。

 

 

 

 

 

読者参加型小説

町を去った後、東京の中野で見習いバーテンをしていた津田は、店に客としてやって来たかつての津田の小説の大ファンだという編集者・鳥飼なほみに「また小説を出しませんか」と熱心に誘われ、金欠だった津田は「じゃあ今ある原稿を金で買い取ってくれ」と、執筆していた一家三人神隠し事件にまつわる書きかけの小説を見せる。

で、鳥飼は出版界では札付きの問題児である(※昔、不倫人妻をモデルに本を書いて訴えられたため)津田伸一の小説を出版すべく、上層部を説得するために先輩編集者のヒラコさんを抱き込んだり、一緒になって物語の先の筋を考えたり、企画書を作ろうだなんだと奔走する訳ですが、結局のところ、津田伸一が新作小説を世に出せたのかどうかは明記されないままにこの本は終わっています。

 

津田が書き続けた“読まれるあてのない小説”はどうなったのか。それは、読者である私達が今この『鳩の撃退法』というタイトルの本を実際に読んでいる、その事実をもって証明されるようになっている。“読まれるはずのない小説”を読んでいる「読者」の存在が、この小説の結末「津田の新作小説はなんとか世に出せた」というオチとなる。「読者」はいつの間にかこの小説を完成させるのに一役買っているという、“読者参加型小説”となっているのですね。

 

各サイト、この本の紹介文で「小説表現の限界点を突破している」と書かれているのですが、まさしくその通りだなぁと。読書家もそうでない人も、未体験の新感覚を味わえる今までにない小説作品となっています。

映画ではこの読者参加型新感覚小説が映像でどのように表現されるのかが気になりますね。脚本や演出方法など、かなりの工夫を施さないとエンタメ映画として成立させるのはかなり難しい原作だと思うのですが・・・どうなのでしょう?映画は富山が舞台となっているようで、富山と東京、過去と現在、二つの場面で交差して描かれるのだそうな。

 


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映画で注目されて、もし!もしですけど、続編が出るなんてことがあったら是非読みたい。津田の書く小説がまた読みたいですね。ドーナッツショップ店員の沼本とか好きだったけど出番が少なかったので、続編出るなら編集者の鳥飼なほみと共にまた出して欲しい。出版社上層部のデビィ夫人とかも気になるし。

 

佐藤正午さんの本を読むのは今回が初で、これを機に佐藤さんの別作品も読みたいなぁ~ともなっていますが、同じくらいに『ピーター・パンとウェンディ』J・M・バリー作/石井桃子

 の本も読んでみたくなりましたね。作中でこの本からの引用が度々あるのですが、なかなか哲学的な内容なんだなぁと驚かされました。

 

色々と気になった方は是非。

 

 

 

 

ではではまた~