こんばんは、紫栞です。
今回は東野圭吾さんの『むかし僕が死んだ家』をご紹介。
あらすじ
ある日、一本の電話が私の部屋にかかってきた。電話の主は七年前に別れた恋人・沙也加。別の男と結婚し、子供も居る彼女が今更自分に何の用かと思い面会に応じてみると、沙也加は父の形見だといって真鍮の鍵と地図を取り出し、生前の父が自分に隠して通っていたらしき地図の場所、長野の松原湖近くに行くのに同行して欲しいと頼んできた。
「最近になって気づいたの。自分には大事なものが欠けているってことに。その理由を突き詰めていくうちに、幼い日の思い出がないことに行き着いたわけ」
沙也加には小学生以前の記憶がまったくないらしい。その記憶を取り戻すためにこの場所に行きたい。行けばきっと思い出せそうな気がする。他の人には頼めない。だから一緒に行って欲しいと沙也加は言い募る。
まるで摑みどころのない話と、既婚者と同行するわけにはいかないという思いから一度は断ったものの、沙也加の尋常でない様子を見かねて私は一緒に行くことを了承した。
二人で地図の場所に行ってみると、そこは滅多に人が来ることのない山の中。そこには異国調の白い家が建っていた――。
元カノとの奇妙な推理劇
『むかし僕が死んだ家』は1994年に発売された長編小説。四半世紀ほど前の作品で、今みたいに超売れ売れの作家ではなかったものの、1985年に作家デビューした東野圭吾さんはこの時既に様々なジャンルの作品を世に出していました。この『むかし僕が死んだ家』もそんな多彩な作品群のなかの一つ。
恥ずかしながらまったく知らずにいた作品だったのですが、この間読んだ【ガリレオシリーズ】の新作『透明な螺旋』と今作に繋がりがあると聞き、「これは読まない訳にはいかん!」と、手にしてみた次第です。
読む前は勝手に何人か住んでいる家に主人公たちが訪ねていくお話だと思っていたのですが、「私」と沙也加が訪ねていった白い家は長い間人が住んでいた形跡のない空き家。電気もガスも通っていない埃まみれの家で、「私」と沙也加は家に残されている様々な奇妙な痕跡と、この家に住んでいたと思しき少年・御厨祐介の日記の内容を元に、この家でかつて起こったこと、それに沙也加の記憶喪失がどう関わっているかを推理していくという物語。
300ページほどの物語なのですが、主な登場人物は本当に「私」と沙也加の二人のみ、舞台の大半は白い家で場面の変化もほぼないという“一幕物”となっています。推理物となるとやはり登場人物が多いものが主流なのでこのシンプルな演劇風味は新鮮ですね。
得体の知れない薄暗い家の中で終始物語が展開されるとあって、全体的に薄気味の悪いホラーちっくな雰囲気。語り手の「私」の名前もずっと明かされないし、中盤まではこの小説を読んでいてもホラーなのかミステリなのか判断しかねます。今にも幽霊が出て来そうな感じがずっと続くというか、超常現象が起こっても驚かない空気感。作者の東野さんは推理小説以外も書く作家さんですので、余計に分らないのですね。終盤になってから見事に伏線が回収されていくので、推理小説の認識でよかったのだなとなる。
しかし、最後に明かされる真相は空恐ろしく、見方によってはやはり推理小説というよりホラー小説的な怖い作品なんじゃないかという気もします。
以下ネタバレ~
気味が悪い真相
7年前に別れた元カレにこんなヘンテコなお願いをしてきて、一体どういう了見だって感じの沙也加ですが、夫が仕事で家を空けることが多いなか、沙也加は娘に暴力を振るってしまうことに苦しんでいました。夫の実家に「育児ノイローゼだろうから、落ち着くまでしばらく預かる」と娘を連れて行かれ、沙也加は自分が母親失格の、欠落した人間なのだと思い込む。
そんな時、元カレが物理学者として雑誌に書いていた虐待がテーマの記事を読み、失っている幼少の記憶の中に自分が虐待をしてしまう原因があるのではないかと思い至り、元カレの「私」に一緒に長野まで行ってくれとお願いしてきたという訳です。
それにしたって夫以外の男性、しかも元カレと二人だけで遠出するというのは褒められたことではないというか、完全にアウトな行為ですけどね。ま、沙也加自身は「間違いがあってもいい」というようなやけっぱちな気持ちも少なからずあったんですけど。「私」がそこら辺はキッチリ一線を引いていたし(途中、ちょっと危なかったけども)、気味の悪い家の中なのでそんなことにはならなかったのですが。
家に残されていた日記や手紙を読み、この白い家にはかつて御厨啓一郎と妻の藤子、幼い息子の祐介の三人家族が住んでいたこと、沙也加の両親がこの家で使用人として雇われていたこと、啓一郎が病気で亡くなり、生前啓一郎が嫌っていた「あいつ」がチャーミーを連れて家にやって来て一緒に住むこととなり、祐介は「あいつ」から日々暴力を受けるようになったことなどが明らかに・・・・・・。
と、最初のうちは認識していたのですが、残された情報を元に推理をめぐらせた結果、「私」は恐ろしい真相に行き着く。
実は、祐介が「おとうさん」「おかあさん」と呼んでいた啓一郎と藤子は、本当は祖父と祖母。啓一郎の死後に家にやって来た「あいつ」が父親の雅和。
厳格だった啓一郎は不出来な一人息子・雅和に愛想をつかし、切り捨てて考えるようになった。啓一郎は雅和の最初の嫁が早死にすると幼い祐介を引き取り、「今度こそ完璧に育ててみせる」と、失敗した子育てのやり直しを孫の祐介で果たそうとする。啓一郎は祐介に自分と藤子のことを「おとうさん」「おかあさん」と呼ばせ、本当の父親である雅和を祐介から引き離し、「お前は絶対にあんな大人になっちゃダメだ」と祐介に言い聞かせ続けた。
折り合いが悪かった啓一郎が亡くなったことで実家に戻ってきた雅和は、これでやっと啓一郎の邪魔が入らずに息子と接することが出来るはずだと意気揚々としていたものの、啓一郎が悪し様に言うのをずっと聞かされて育ってきた祐介君は雅和にはまったく懐かず、嫌悪感を露にする。そんな祐介の態度に苛立ち、暴力を振るうようになったというのが実情でした。
そして、この白い家は元々横浜に建っていたもの。今現在「私」と沙也加の二人が探索している長野の山中にあるこの家は、内部まで当時を再現したレプリカ。死人が住むための、墓として建てられた家でした。
二十三年前、雅和に対して憎しみを募らせた祐介は失火に見せかけ雅和を殺害しようとした。しかし、火のまわりが思ったよりも早かったのか、家は全焼してしまう。焼け跡からは雅和と祐介、そして女の子の三人の遺体が発見される。
この火事で死んだとされた女の子の名は久美。雅和の二番目の妻が産んだ子で、チャーミーという愛称で呼ばれていた、雅和が白い家に移り住む際に一緒に連れてきた娘でした。
何をやっても思うようにいかず、皆に蔑まれていた雅和は鬱屈した気持ちのはけ口に幼い娘の久美に性的虐待をしていたのです。自分だけでなく、妹にまで酷い仕打ちをしていることを知り、祐介は雅和の殺害を計画したという訳です。
しかし、実際に火事に巻き込まれて死んだのは使用人夫婦の娘だった沙也加の方でした。家族が皆死に、残された藤子は久美の将来のことを思ったのか、一人娘を巻き添えで死なせてしまったことに負い目を感じての罪滅ぼしなのか、沙也加ではなく久美を死んだことにし、記憶喪失の久美を使用人夫婦に預けることにする。こうして二人は入れ替えられ、久美は沙也加として生きることになったのでした。
そんな訳で、色々と記述による読者への引っ掛けが施されている今作ですが、孫に「おとうさん」と呼ばせる啓一郎には何だか背筋がゾッとするような怖さや気持ち悪さがある。
猫であるかのように描いていたチャーミーが実は娘でしたというのが最大の引っ掛けになっているんですけど、チャーミーって渾名も、「みゃあみゃあないていた」という祐介君の日記の記述も無理矢理感が強く、まるで妹の久美のことを祐介君が猫扱いしていたみたいな感じになってしまっていて、これもまた気持ち悪い。
死んでしまった沙也加のかわりに久美を預け、菩提を弔うために酔狂にもレプリカの家を建て、テーブルの上のティーカップや本棚に並んでいた本やら時計やらまで火事が起こる直前を再現した藤子も狂気じみて気持ちが悪い。
全体的に怖く、気味が悪い真相となっていますね。
死んだ家
語り手の「私」はエピローグで、御厨藤子はいずれ沙也加(久美)にすべて教えるつもりだったのではないか、気づかせる装置という意味合いも込めてレプリカの家を建てたのではないかと推理しています。少年の日記や真実を暗示させる材料が大切に保管されていたのもそのせいではないかと。
私には、彼女が遠い昔に、あの家で死んでいたように思えるのだった。彼女と名前を交換した、『沙也加』という名の少女が実際に死んでいたのとはまた別の意味で。あの奇妙な二日間だけの旅は、彼女が彼女自身の死体を見つけるためのものだった。そういう意味でも、あの家はやはり墓以外の何物でもなかったのだ。
(略)誰もがそういう、むかし自分が死んだ家を持っているのではないか。ただそこに横たわっているに違いない、自分自身の死体に出会いたくなくて、気づかないふりをしているだけで。
ここら辺の描写がタイトルに繋がっているのは明白ですが、タイトルの「僕」が誰の事を指しているのかはよく解らないままです。一見すると祐介君か「私」のことなのかな?と、なりますが・・・どうも釈然としない。解釈は読者に委ねるってことですかね。
忌まわしい記憶を「白い家」に置き去りにしていた沙也加(久美)。彼女にとって、果たしてこの記憶を取り戻したことが良いことなのかどうかは分りません。子供への虐待衝動をどうにかしたいとあの家に行った訳ですが、結局、彼女は離婚し、子供は別れた夫が引き取ることとなりました。
最後、彼女は『いろいろとお世話になりました。私はやはり、私以外の誰でもないのだと信じて、これからも生きていこうと思います。』と記した葉書を「私」に送ります。差出人の名は「沙也加」となっていました。
「私」
今作では最後まで名前が明かされずじまいに終わる語り手の「私」。この「私」、実は【ガリレオシリーズ】の探偵役・湯川学だということが2021年に刊行された『透明な螺旋』を読むと解るように仕掛けられています。
【ガリレオシリーズ】は湯川が三十代の頃から始まっているのですが、
この『むかし僕が死んだ家』は湯川が29歳の時の出来事だということですね。四半世紀以上の時を経ての正体判明。
「なんて壮大な仕掛けなんだ!」ですけど、確かに理学部物理学科の研究助手だという設定ではありますが、【ガリレオシリーズ】の湯川が当初から『むかし僕が死んだ家』の「私」として書かれていたのかは疑問です。正直、『透明な螺旋』でいきなり湯川の生い立ちについて辻褄合わせるように色々出してきた印象。湯川は最初、俳優の佐野史郎さんをモデルに書いていたと作者談であるのですが(実写化されて以降は作者も福山雅治さんのイメージになったらしい)、この「私」が佐野史郎さんのイメージで書かれているとは思えないんですよね。「私」の容姿については作中でほとんどふれられていないので言い切ることは出来ないのですけども。
しかし、『むかし僕が死んだ家』での29歳の段階では両親に対してわだかまりがあった様子の湯川も、『透明な螺旋』で50代となり、両親と確り向き合えるようになっている様子は感慨深い。『むかし僕が死んだ家』でのアンサーが『透明な螺旋』で示されているので、この二冊はセットで、出来れば【ガリレオシリーズ】もすべて読んで湯川の成長を実感して欲しいなぁと。
単体でも愉しめる作品で、元々のシリーズファンも必見の小説ですので是非。
ではではまた~