夜ふかし閑談

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『ピンクとグレー』小説 映画 あらすじ・解説 やばい?わからない?違いを考察

こんばんは、紫栞です。

今回は、加藤シゲアキさん原作の『ピンクとグレー』の小説と映画の違いについて紹介していきたいと思います。

ピンクとグレー (角川文庫)

 

先月、映画を観た後に小説を読みました。前に映画のPERFECT BLUEからストーリー着想を得ていると知り、映画の予告も面白そうで気になっていたのですが、やっと観て読んでと出来た次第。

 

原作小説と映画でかなり違いがあるのですが、その違いが何やら興味深い違いだと感じたので、少し考察してみたいなと。

 

ではとりあえず、小説と映画を順にご紹介。

 

以下、小説と映画についてネタバレしていますのでご注意~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小説

 

 

作者の加藤シゲアキさんはジャニーズ事務所所属のタレントで、アイドルグループ「NEWS」のメンバー。『ピンクとグレー』は2012年に刊行された作家デビュー作ですね。

 

ジャニーズアイドルが小説を出版するということで当時話題になりました。通常は賞を受賞してのデビューが多い文学の世界ですので、受賞なしでの刊行は読書家から否定的に言われることも。賞を取ったら取ったで「話題性で取れたんだろう」なんて意見も出たので、もはやこういった色眼鏡で見られることはこの先も避けられないことなのでしょうが。

 

吉川英治新人文学賞は伝統のある賞なので、話題性だけで取れるなんてことはないだろうし、芸能界は芸術的センスや想像力・創作能力が高い人達が集まる世界なので、お笑い芸人やアイドルの書いた小説が評価されることは不自然なことではないと個人的には思います。

ま、才能があってもなかなかデビュー出来ないとう人がごまんといる世界なので、不公平感は拭えないものでしょうけど。

しかし、1年に一冊ペースで出せているのは凄いですよ。(専業作家さんでも数年出さないって人いっぱいいますからね・・・)今年でもう小説家デビュー10周年なのに驚き。おめでとうございます。

 

 

ストーリーの着想を得たという『PERFECT BLUE』は今敏監督のアニメーション映画で、芸能界に身を投じる主人公が精神的に追い詰められていくサイコホラーの傑作ですが、

 

 

『ピンクとグレー』は芸能界が舞台の青春小説。

色眼鏡云々はさておき、現役アイドルが芸能界舞台の小説を書くというのは興味をそそられる。

 

幼馴染みである河田大貴(りばちゃん)と鈴木真吾(ごっち)の二人は、高校生の時に共に読者モデルとして声をかけられたことをきっかけに一緒に芸能活動をスタートさせるが、いつまでも業界でぱっとした仕事にありつけない大貴と猛烈にスターダムを駆け上がっていく真吾との間には徐々に距離広がっていき、やがて別れが訪れる――。

 

という、ありがちですが設定を聞いただけで苦しくなるような切ない青春物語ですね。

 

『ピンクとグレー』というタイトルは、曖昧な二人を中間色の二色で表しているということらしい。

文庫版は単行本から改稿されていまして、作者の加藤シゲアキさんのあとがきとインタビューが収録されています。

 

 

物語の語り手は終始大貴で、本の三分の二は大貴が真吾(ごっち)と過した日々を出会った小学生時代からトビトビに回想している様子が描かれていく。

学生時代の様々な出来事、一緒に芸能事務所に入っての同居生活、幼馴染みのサリーとの恋、「白木連吾」(芸名)としてどんどん売れていき変わっていく真吾、真吾への劣等感と売れない焦りから鬱憤をためていく大貴、二人の衝突と決別、数年後に再会して再び親友同士として笑い合う二人・・・・・・

 

と、青年二人の青春が描かれる訳ですが、ここで事件が起きる。再会した翌日に、真吾は首を吊って自殺してしまうのです。「最後の白木連吾はりばちゃんに決めて欲しい」と6通の遺書を大貴に託して。

 

相応しいと思う遺書を選び、“白木連吾”として綺麗に真吾の遺体を整えた後に警察に連絡した大貴は自殺幇助などの疑いで留置場に。出て来てみると、大貴は自殺した大スター白木連吾のイケメンの親友として話題になっており、白木連吾絡みの仕事が次々舞い込むようになった。

 

「白木連吾とのことを書いてみないか」という誘いに乗り、大貴はノンフィクション小説を執筆。本はたちまちベストセラーとなり、今度はこの本を原作とした映画化の話が持ち上がる。白木連吾――ごっちを大貴が演じるという提案で。

 

その提案を受け入れた大貴は、撮影でごっちを演じることで同化するように危うい精神状態となっていく。そして、首を吊る場面の撮影時に本当に首を吊ろうとして意識が遠のき――

と、物語は大貴の生死が確りと分からないままに終わっています。

 

 

つまり、三分の二までの内容は大貴が書いたノンフィクション小説で、残りの三分の一は本発売後の大貴が現在体験している出来事ですよという構成になっています。たぶん。(どこの章までがノンフィクション小説として出版した部分なのかが、読んでいてもよく分からないのですよねぇ・・・)

 

本を書くことで追想し、演じることで追体験をする。

 

簡単にいうと、“なぜ親友は死を選んだのか”という謎を知るために、アレやコレやと試行錯誤する様が描かれている物語ですね。

 

ここで終わっている小説に対して、映画では“その後”、追体験した後の結果が描かれています。

 

 

 

 

 

 

 

映画

 

2016年公開のこちらの実写映画、「幕開けから62分後の衝撃!!ピンクからグレーに世界が変わる“ある仕掛け”に、あなたは心奪われる――。」という謳い文句がついていました。

 

“62分後の衝撃!!”とはどういうことだ?

なんですけども、この映画、前半の62分まで原作に沿ったストーリーが描かれるのですが、首を吊るシーンのところでカットがかかり、撮影終了のクランクアップ風景が映し出される。

 

つまり、ここまでは映画の撮影でした~と。ごっち、スターの白木連吾だと思っていた人物(中島裕翔)が、実は売れない友だちの方のりばちゃん(菅田将暉さんが演じていた方)でしたよ~と。観ている者があっけにとられるどんでん返し的仕掛けとなっています。

 

かなり大胆で面白い構成ではありますが、捉え方によっては鑑賞者をこけにしたような仕掛けなので、この時点でかなり評価が分かれる映画なのですけども。(前半丸々ですからね・・・)

原作小説では終盤での出来事だった【大貴が白木連吾役を演じる映画の撮影】が、この映画では前半部分になっている訳です。

 

じゃあ、残った後半の1時間ほどは何をするのかというと、映画撮影を終えた後の大貴の様子、死んでしまったごっちに囚われていた大貴が苦しみながらも乗り越える様、“二人の本当の別れ”が描かれる。

 

 

 

 

 

「しょーもな」

小説と映画で構成もテーマも違いはしますが、“なぜ親友は死を選んだのか”という謎を知るべく、ごっちのことを理解しようとアレコレしている点は共通しています。

 

大貴としては、業界に翻弄され変わっていく自分に嫌気がさした、芸能界でスターとなったことで友人や恋人と決裂してしまったことなどが理由なのではないかと、自分が知っているかぎりのごっちとの出来事を回想していくのですが、そこには「自分の存在が良くも悪くも相手に影響を与えていて欲しい」という願望がある。

 

数年ぶりに再会して盛り上がった翌日に死なれて、「最後の白木連吾はりばちゃんに決めて欲しい」と遺書を託されたのですから、大貴がある意味“思い上がってしまう”のもしょうがないことですよね。

 

しかし、後になってごっちのお母さんから渡されたビデオテープを観て、ごっちの自殺には年の離れた姉の存在が強く関わっていたのだと知る。

ごっちは姉を行動の指針としていた人物で、幼少期にダンスのステージ上で転落し亡くなった(※原作では転落後、病院でチューブを切って自殺。映画では自ら転落してそのまま亡くなる)姉を知りたいとステージの世界に飛び込み、生前姉が言っていた「やらないなんてない」の言葉の通りにその世界で行動力を発揮していた。

 

そして、姉が死んだのと同じ年齢になったら死のうと、前々から決めていた。

 

小学校の時からの幼馴染みで、一時期同居生活もしていて、スターの「白木連吾」ではない本来のごっちのことならば自分が誰よりも知っていると思っていた大貴ですが、ごっちがここまで姉に影響を受けている人物だとはまるで知りませんでした。大貴はその事実に打ちのめされる。

他人を理解しようとする行為の徒労感・むなしさを叩きつけられるのですね。

 

このごっちのお姉さんですが、これがまた死んでしまった理由がわからない。こうすればステージで高く飛べる「やらないなんてない」と、決行してしまったということなのかなぁ~・・・と、ボンヤリと想像することしか出来ないのですね。

はっきりとわからないからこそ、ごっちもここまで囚われてしまったのでしょう。姉が生きた年齢までしか生きないと決めるほどに。

 

自殺してしまったごっちのことを理解しようとしていた大貴だったが、ごっちはごっちで自殺してしまった姉を理解しようとしていた。なんとも皮肉な、言ってしまえば「しょーもな」なお話。

 

 

小説では、大貴はこの事実を映画撮影中に知っています。知った上で首を吊るシーンの撮影に臨み、ごっちと同一化して“本当の共演”を果たせた感覚を得て終わる。

しかし、この同一化で表現されているごっちの思考も、結局は大貴の願望からくる妄想にすぎない。死者が最後に何を想っていたのかは、死者にしかわからないこと。残された者は想像することしか出来ないのですから。

 

 

映画ですと、撮影終了後にこの事実を知り、周りから「白木連吾」の話を聞いて、自分の行為のむなしさを実感し、「しょーもな」とごっちの幻影と決別し、先に進もうとするところで終わります。

 

 

 

 

違いを楽しむ

小説ですが、各章が年齢と飲み物で、最後の章が「27歳と139日 ピンクグレープフルーツ」となっているのは凝っているし洒落ていて良いなと思うのですが、回想部分と違う部分とでごちゃごちゃとしていて読みにくい。

上記したように、“どこまでが小説として出版した部分か”も、もっと分かりやすくしてハッキリと二部構成にした方が作品としてまとまったのではないかな~など、面白いのだけれど、もっと面白く出来たのではないかという気がする。

デビュー作だし、狙って分かりにくくしているのかも知れませんが。

 

小説は最後死んだかどうか気になるところかと思いますが、スタッフに引き下ろされる時に意識があるので大丈夫だったのではないかというのに私は一票。

 

 

大胆に構成を変えているものの、映画はその点分かりやすいです。タイトルに引っ掛けて画面の色を変えているのは表現として面白いし、原作で幼少の大貴が言っていた「しょーもな」というセリフで冒頭と最後を繋いでいるのも作品のまとまり方として良いと思う。

映画には原作者の加藤シゲアキさんがカメオ出演しているのですが、私は初見では気づけなかった・・・。横断歩道でのシーンのようです。気になる方は是非探してみて下さい。

 

行定勲監督は叙情的で綺麗な映像を撮るのが特徴ですが、ベッドシーンなど性的な部分は誤魔化さずに割と赤裸々に撮る監督でもあり、この映画も出演者のファンなどは衝撃を受けますかね。検索すると「やばい」と出て来るのはそのせいでしょうか。一応R指定はないのですけど。

 

“6通の遺書”は興味を惹く設定なのですが、原作小説も映画もこの設定を活かしきれていない印象。映画だと6通の遺書の内容が明かされないままですしね。なら6通出してくるなよと思う。

小説の方ですと6通全部の内容がちゃんと書かれていますよ。

 

 

 

 

ダラダラと書きましたが、このブログでとりあげているのはほんの一部。『ピンクとグレー』は他にも様々な要素が描かれた青春物語です。

「わからない」「理解できない」となる人もいるでしょうが、小説も映画も色々と考えさせられる考察しがいのあるものとなっていますので、気になった方はセットで是非。

 

 

 

 

 

ではではまた~