こんばんは、紫栞です。
今回は、京極夏彦さんの『死ねばいいのに』をご紹介。
タイトル
『死ねばいいのに』は2010年に刊行された長編小説。インパクト大のタイトルでして、作者の京極さんも「ひどいタイトル」と当時のインタビューで仰っております。このタイトルのせいで当時新聞広告を断られたというのがちょっとした有名エピソード。確かに、新聞にデカデカと「死ねばいいのに」と広告が出ていたら問題かもしれない。
しかしながら、これは暴言や悪態で発せられる意味合いとは異なります。読めばただ関心を惹くために付けられたタイトルではないことが解るし、この言葉を深く考えさせられることとなる。
あらすじは、若い無礼な男が、「死んだアサミという女のことを教えてくれ」と、生前にアサミと関係のあった人たちのところを尋ね回るといったもの。
分類が難しいところでして、強いていうなら哲学的内容ってなるのでしょうが、ミステリ要素もあってエンタメ的面白さも充分に兼ね備えています。京極さんは〈通俗娯楽小説家〉ですからね。
京極さんは主にボリュームのあるシリーズ作品で知られている作家ですが、
今作はノンシリーズものでページ数も400ページほど。京極さんがいつも仕掛ける他作との繋がりなども特にありません。(今のところですが・・・)
京極作品の中では少なくとも、400ページなら結構な長さじゃないかと思われるかもしれないですが、この小説は各章一対一の会話劇形式で構成されている物語でして、会話が主でウンチクなどもないし、話もシンプル、リズムの良い文章と展開でドンドン読ませてくれる、”読まされてしまう”、一気読必至の一冊となっております。
個人的に大好きな一冊なものの、今まで紹介できてなかったのですが、2024年1月に舞台化決定と知りまして、これを機会にちゃんと紹介したいなと。
対話で構成されている物語なので、非常に舞台向きの作品だと思います。役者さんの演技がつくとより言葉の応酬に魅力が増しそう。
文庫版は毎度お馴染みの荒井良さんの張り子人形の表紙ですが、
ハードカバーですとタイトルが際立つ高級感ある装丁(この画像だと分りにくいですが・・・)。凄く小さいんですけど、山本タカトさんのイラストも良い。前は公式サイトで大きい画を見られたのですがね。私はこのハードカバー版の装丁がとても好きです。
以下ネタバレ~
六人の困った人たち
物語は全六章。
目次が、
一人目。
二人目。
三人目。
四人目。
五人目。
六人目。
と、なっていまして、何やら目次だけで妙に興奮する。京極さん曰、「六道」を表しているとのこと。
目次の通りに、無礼な若者・ケンヤが対話していきます。アサミの派遣先の上司、隣人、彼氏、母親、刑事、弁護士と、それぞれ年齢も立場もバラバラの人たちと話をしていく。
皆、ケンヤに「アサミのこと教えてくれ」って尋ねられて答えようとするんですけど、無意識に自分のことばかりベラベラ話し出す。
「自分は正当な評価をされていない」「周りが悪い」「運がない」「何で自分ばっかりこんな目に」「辛い」「悲しい」「堪えられない」と、いった具合に。不満だ不満だと。
しかし皆、ケンヤと話すうちにものの見事に化けの皮がはがされていく。嘘を暴かれ、醜態をさらして、業の深さをさらけ出す。
痛いところをことごとく指摘されて「どうしようもないんだ!」と想いを爆発させる者達に、ケンヤは「死ねばいいのに」と言い放つ。
「(略)どうにも出来ねーどうにも出来ねーって。そんなことそうある訳ねーって。必ずどうにかなるのに、どうもしないだけだって」
しない?
「厭なら辞めりゃいいじゃん。辞めたくねーなら変えりゃいいじゃん。変わらねーなら妥協しろよ。妥協したくねーなら戦えよ。何だって出来るじゃん。何もしたくねーなら引き籠もったっていいじゃん」
確かに、世の中どうにも出来ないことなんて実はそうそうない。ただ「しない」だけ。
何でしないのかというと、見栄や欲や面倒だという想いが邪魔をするから。
そんなこと、誰でも本当は了解している。どうでも出来ることが解っているのに、それでも人間って不平不満を言っちゃうものなんですよね。だからケンヤの言葉は多くの読者にとってもグサグサと突き刺さるものです。
もちろん、本当に窮地に追いやられていてどうも出来ないという立場の人もいるでしょうが、今作に出て来る人々は皆“なんとでもなる”人たち。なのに、皆、自分が世界一不幸だみたいな物言いをする。アサミのことを尋ねているのに見当違いなことをグチグチ聞かされて、ケンヤは毎度キレる。
「本気でどうにも出来なくって、それで我慢も出来ねーってなら、本気死ぬしかねーって話じゃんか。死にたくねーなら我慢しろよ。どっちかだろうよ」
「死ねばいいのに」と、究極的に強い言葉を投げかけられて、六人の困った人たちは己の人生と行いを振り返り、ひた隠しにしていた本質や願望を思い知らされ、突き付けられる。
そして最終的に、アサミの死に対して本気で悔いて悲しむことが出来るようになる。
滅茶苦茶に言い負かされてボロボロにされたかと思いきや、最後には妙な具合に救済されている。「言葉」を操る京極マジックが今作でも炸裂しております。
私は特に「四人目。」の母親との対話が好き。こっちが思っていることをすべて言ってくれる感じが爽快。「子供らしくないのは親のアンタが子供扱いしないから」「不満がなくせると思っているうちは、不満は絶対なくならない」など、どのセリフもそうだよなぁと。「三人目。」の佐久間さんはあまりに不器用でやるせなくなりますね。
各章、「どうなのよ」って面々なのですが、どの人物も“完全な悪人”という訳ではないのもこの本の要となっています。
ケンヤ(渡来健也)
今作で最も特徴的な点は、相手を強い言葉で諭していく人物が無職で学もなく、無礼な若者であるケンヤであるところ。しゃべり方も上記のような有様ですしね。
時代小説の印象が強い京極さんですが、若者言葉の描き方も巧みで、まずはそこに驚く読者も多いのではないかと思う。
尋ねてくるのが社会的地位、肩書き、学歴、品行方正といった立派で模範的な人物であるならば、どの人物も引け目を感じてこんな風に自分語りをしたりはしないでしょう。後ろ暗いところがあるなら余計に。
ケンヤのような社会から落伍したような、態度が悪くて褒められたところがない、“自分の方がコイツより強気に出られる立場にある”と思わせる人物だからこそ、相手は自己正当化した身勝手な愚痴をペラペラ話す。
今作に登場する人物たちは皆、話すことに飢えているのですよね。それで見るからに“どうでもいい人物”であるケンヤに普段は言えない鬱憤をまき散らす。
そんな風に舐めてかかっていた人物に言い負かされ、醜い部分を暴かれてしまう。立場が逆転する様は各章とても読み応えがあって面白い。
ケンヤの言葉は間違いなく暴言ですが、ことごとく“ごもっとも”。何やら向かっ腹が立つ人物たちに対し、ケンヤの「おっしゃる通りな暴言」がとても痛快なんです。
しかし、その痛快さだけでこの物語は終わらない。お話が展開されていく中で、不可解な事実が明らかとなる。
アサミ(鹿島亜佐美)
ケンヤが「教えてくれ」と尋ね回る死人のアサミは、終始伝聞でしか語られない。
明らかになっていくのは、殺害されたこと、職場の中年男性にとって都合の良い浮気相手だったこと、隣人に嫉妬されて嫌がらせを受けていたこと、母親に借金の形としてヤクザに二十万で売られたこと等々・・・・・・。
作中の誰よりも不遇で理不尽な目に遭っているのですが、アサミは不平不満を一切口にしない女性だったという。それどころか、「とても幸せだ」とケンヤに言っていたと。
最終章の「六人目」は、弁護士のことと見せかけて実はアサミのこと。
辛くて、悲しくって、馬鹿で、ダメダメで――と、いった“人間らしい人間”が五章目まで描かれるぶん、アサミのこの態度と様子は「人」として、得体の知れない、実感の湧かないものとなっている。
不気味で、もはや「怖い」存在と思える。
生き物にとって、「死」は絶対的な恐怖です。生き物なんですから。「死ね」と言われれば嫌がるのが人として、生き物としてあるべき姿です。
もし、本気の本気で死ぬのを嫌がらないのだとしたら――それはもう、「人」ではないのではないか。
人間は時に自ら死を望んでしまうものですが、その状態というのは「人」として逸脱してしまっているのでは。
ケンヤは、アサミが「人」だったことを確認したくって尋ね回っていた。今作は「人でなし」に関わる一物語。
2015年に刊行された『ヒトでなし 金剛界の章』の前身的作品ともいえると思います。
今作が気に入った方は、『ヒトでなし』『ヒトごろし』と読み進めて、京極夏彦の“人でなしワールド”を堪能していただきたく。
私は立場がケンヤの方に近いので言い負かす部分はとにかく痛快だったし、この真相も感慨深かったですが、ケンヤのしゃべり口調が受け付けない、作中人物たち同様に「そう簡単じゃないんだよ!」と反感を抱く方もいるでしょうから、人によって好みがハッキリ分かれる本だとは思います。
でも、序盤で止めてしまわずに、是非、是非、最後まで読み切って欲しいなと、切に願います。シリーズものじゃないからと取りこぼしている京極ファンも是非。
ではではまた~