こんばんは、紫栞です。
今回は京極夏彦さんの『狂骨の夢』を紹介したいと思います。
百鬼夜行シリーズの第三作目ですね。
あらすじ
「妾は人を殺したことがあるんでございますよ」
釣り堀屋の主人・伊佐間一成は逗子の海岸で朱美という女と出会う。風邪を引き、熱で朦朧としている伊佐間を介抱しつつ、朱美は自信の半生を語り出す。そして伊佐間に「妾は人を殺したことがある」と、告げるのだが――。
一方、元精神神経科の医師で、現在は逗子にあるキリスト教会に寄宿している降旗弘とその教会の牧師・白丘亮一もまた、朱美という女から、死んでいるはずの前夫・伸義が自分の前に何度も訪れ、その度に自分は伸義を絞め殺し、首を切っているという話を告白される。
彼女は大物作家・宇田川崇の妻だった。関口巽は宇田川から記憶喪失の妻の言動についての相談を受ける。「死人が何度も蘇る」といった妄想としか思えぬ内容だが、ただの妄想とは断言出来ぬ事柄が多々あった。宇田川は探偵の榎木津に調査を依頼したいので紹介してくれと関口に頼むのだが、後日、事態は思わぬ展開に。
さらに“海に漂う金色髑髏”“山中での集団自決”と、怪事件が続発して――。
夢と骨と首にまみれた怪事件の数々は、どのように繋がるのか。京極堂は関係者の「憑き物」を落とせるのか。
「今回は高いぞ」
(本の厚さが)薄い?
『狂骨の夢』はシリーズ二作目の『魍魎の匣』と、四作目の『鉄鼠の檻』の巨大長編に挟まれていて、本棚に並んでいるのを見てみると(本の厚さが)薄く思えて、京極作品経験者からすると「楽勝」とか錯覚してしまったりするかも知れませんが、それはあくまで“錯覚”であり、最初の講談社ノベルス版で600ページはあるのだから普通に考えれば十分超大作なのですよ。コレを見て薄いとか感じるなら、それはもう京極作品に毒されてきている証拠ですね、きっと。
実際、私も初読のときは『魍魎の匣』読み終わった直後に『狂骨の夢』の厚さを見て「魍魎読みきれたんだからこのこれぐらい楽勝だよね」とか変な自信を持って読み始めたものの、心理学や宗教のウンチクで(と、いうか降旗に)結構苦しめられた記憶が(^^;)
とはいえ、今回久しぶりに再読してみたところ、やっぱり短いというか、コンパクトに纏まっているお話だって気が(あくまで当社比なんでしょうけど)。ウンチク部分もさほど苦にならずに読めました。私も長年京極作品を読んできて鍛えられたのかしら(笑)
また、『狂骨の夢』は前作における重要人物の葬儀の場面が最初の方に入るので、『魍魎の匣』の後日談とも位置づけられます。
この葬儀の部分も一見無関係に思えますが、京極堂の長話の中に今作への“仄めかし”になるヒントが語られているので要注意。
ミステリイズ
『狂骨の夢』は、夢と現実の境界が曖昧になるような幻想小説的な印象が先に来ますが、シリーズ内ではミステリ色が強い作品でもあります。
金色髑髏事件、逗子湾生首事件、二子山集団自殺事件、兵役忌避者猟奇事件、朱美の家族が焼死した事件、各地を掘り歩く謎の神主事件、これら数々の事件は全部繋がったひとつの事件であり、終盤で一気に絵解きされる京極堂の「憑き物落とし」は圧巻です。こういった面白さはミステリの醍醐味ですね。前半、京極堂の出番は極端に少ないですが、後半での存在感の強さは圧倒的(いつものことかもですが^_^;)
登場人物達
榎木津も出番は少なめですが、『狂骨の夢』では秀逸な発言をいくつも残しております。
例を挙げると、
「ふん。僕が引っ込んだらつまらないと云うことが後で君たちに解っても、その時は知らないぞっ」
「信じるんだね。出番が少ないのだから間違いやしないさ。僕を疑うなど以ての外だ!」
「僕も神だ」
などなど。榎木津の「神だ」発言はシリーズ内で度々出て来るものですが、言い出したのは『狂骨の夢』が初です(たぶん)。
あと、榎木津と木場の幼馴染み・降旗の視点、幼少期の回想で「将来はなにになりたいか」話で
レイジロウはひと言、王様になると云った。
コレ、個人的に凄くウケるんですが(笑)
降旗の語りはどこか傲慢で、ウジウジしていて、常に深刻な感じなのですが(ホント、この作品を読みづらくしている元凶はコイツだと思う)、そんな文章の中にポンッとこんな発言が入るのが凄いセンス。
榎木津と木場とのやり取りもコミカルで面白い。妙な具合の仲良し感が伝わってきます。木場は『魍魎の匣』では複雑な心境を抱えていましたが、今作では本来のスッパリした性格が気持ちよく描かれていますね。
榎木津をパシリに使って「榎さんはあれでどうして役に立つ」発言をしたり、銃を突き付けられての恫喝もまったく通用しない京極堂には改めて“凄み”を感じる(笑)
関口も今回は事件に強く関わってない分、語りがいつもより(多少)イキイキしています。地の文に所々笑える箇所がありますね。
キャラクターの特徴は勿論、シリーズ独自のシリアスとコミカルの塩梅もこの『狂骨の夢』で完全に安定・明確になった印象を受けます。
そして前作『魍魎の匣』の最後でほんの少し登場したいさま屋(伊佐間一成)が、今作から立派にシリーズの仲間入りです。いさま屋の飄々とした、つかみ所の無い感じって読んいでて癖になるんですよね~(^^)
加筆部分
『狂骨の夢』は文庫化される際に大幅な加筆があります。その量、原稿用紙にして四百枚以上。京極さんの場合はいつも文章がページを跨がないように本の形態が変わる度に修正がされるのが常ですが、これほどの加筆は京極作品の中では異例です。
加筆された箇所は主に
●元精神神経科の医師・降旗の経歴
●降旗の記憶や夢について
●終盤、お話の鍵を握る“ある人物”の記憶の混同について
これらの加筆はノベルス版
が出た当初、医学博士の斎藤環さんが専門家の観点からムック本の中で指摘した部分に答える形のものらしいです。
降旗の経歴については、日本に精神分析が輸入された経緯に誤解があったための修正ですね。他、記憶や夢については「意味記憶」だの「エピソード記憶」などの点で、専門家から見ると指摘したくなる箇所を“説得”するように加筆されています。人間心理などは物理法則みたいに明確な答えがある訳ではないので、やっぱり難しいんだろうと思います。いずれも専門家じゃなければ気にならない箇所ではありますが、指摘に誠実に答え、かつ作品に反映されているといったところでしょうか。
なので、読むのなら文庫版がオススメですね。
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以下がっつりとネタバレ~
朱美
今作で何とも魅力的なのは、お話の冒頭部分でいさま屋が出会う“朱美”。
海岸での初登場部分の描写がとにかく怪しげで美しいです。
少し上気しているのかもしれぬ。
綺麗な顔だった。
女は伊佐間に気づくと、にんまりと笑った。
魔性の者だ。
伊佐間は直感的にそう感じた。
怪談話に登場する幽霊のような印象深さと、話し振りから解る気っ風の良さがいさま屋のみならず、読者を魅了します。
いさま屋が出会った“朱美”と、宇田川崇の妻である“朱美”とは別人だというのがこのお話の核心部分なのですが、この二人の“朱美”、中身は混同するように描かれている訳では無く、しっかり書き分けがされています。
“朱美”だと名乗っている人物の独白部分や、降旗視点で語られる“朱美”には、いさま屋が出会った“朱美”にあった魅力がまるで感じられず、最初から読者に「同じ人物では無いのでは?」と、漠然とした思いを抱かせる。しかし、いかんせん漠然としていて、どうして“そうなるのか”が解らない。このモヤモヤが最後、京極堂の絵解きで綺麗に明かされてスカッとします。
この『狂骨の夢』は最後、朱美の言動でお話が締められますが、この場面でまた心をわしづかみにされるんですよねぇ~。
この朱美ですが、『塗仏の宴』で再登場します。
再登場してくれたときは個人的に凄く嬉しかったなぁ。また登場させて欲しい(^^)
立川流
『狂骨の夢』を読んで何に一番驚くって、【真言立川流】の説明部分である。髑髏本尊の健立方法がとにかく凄まじい。作中で木場もドン引きしていましたね。
ひ――百二十回?
ですよ。
“性を中心とした忌まわしい密議と、この世のものとも思えない冒瀆的な本尊”で、「淫祠邪教」として糾弾されて江戸時代には絶えたと云われているらしいです。
作中ではこの立川流が実は絶えていなくって~・・・云々といった話で、儀式の為に女性が酷い目にあったりする。
しかし、この『狂骨の夢』では【真言立川流】に対して否定的な意見ばかりでは無く、肯定的な見解も述べています。
作中の京極堂のセリフ↓
「(略)いいですか、これ程確乎り女性を認めている宗教はない。男女揃わぬ限り悟りには至り得ないのですからね。それなのにあなた達はその悟りに至るための神聖な伴侶を単なる道具と考えましたね?誘拐したり軟禁したり、剰え麻薬を売って洗脳したり、それで悟りに至れる訳はない。世界一男女平等の教義に男性理論だけで臨むから失敗するのです。あなた達は愚か者だ。そのお陰で何人の人が死に、不幸になったと云うのです」
【真言立川流】は仏教に欠けている女性原理を大胆に導入したもの。邪教的な展開を遂げてしまったが、元は疾しいところは何もない教義。仏教に限らず、様々な宗教は大抵女性を蔑ろにしていますからね。
立派な教義の宗教活動のはずが、教義をまったく解っていない男性達のせいでただの卑しい犯罪行為に成り下がる。
女性としては読んでいて色々と考えさせられますね。
首を切った理由
が、解らないよね。って、話(笑)
自身のことを“朱美”だと思い込んでいた民江。先天的な脳疾患で顔の区別がつかず、家に訪れる人物を伸義の亡霊だと“ある人物”に思わされ、その度に毎回殺害してしまったのですが、何故殺害の度に首を切っていたのか、具体的な説明はありません。
関口がこの疑問について、京極堂にきいていますが
「関口君。それを尋くのは野暮天と云うものだ。まあフロイトにでも尋くんだね」
「でも君はとっくに答えを知っているさ」
と、返されて終わる・・・・・・わからーん!
いや、関口が云うようにね、解るような気もするんですけど、腑に落ちない気もするというのが正直なところ。うぅむ。フロイトに尋くしかないのか・・・。しかし、明確な答えを出すのも野暮天って気がするのでこのままで良いんですかね(^^;)
民江の犯行には他にも疑問があって、はたして普通体型の女が大の男を絞殺出来るかな?とか、遺体一人で運べるかな?とかあるんですが・・・・・・。これも野暮天ですかね。
間抜けな事件
『狂骨の夢』の真相は実は大変馬鹿馬鹿しいというか、間抜けなモノ。
京極堂も作中でそのように述べており、事件の概要を大まかに説明するなら、“皆でフットボールのように髑髏の取り合いをしていた”ってことなのですが。
“深刻さ”と“馬鹿馬鹿しさ”が混在して描かれているのは「狂骨」という妖怪の二面性からとられているらしいですが、この“深刻さ”と“馬鹿馬鹿しさ”は登場人物の降旗や白丘の抱え続けてきた悩みにもいえる事ですね。
降旗は幼少期にみた夢の〈解釈〉に半生を捧げて心理学を学んだり、フロイトにのめり込んでみたりと心血を注いできたが、実はその夢は実体験そのもの。〈解釈〉の必要などまったく無用でしたというオチ。なんか、お疲れ様でしたって感じ・・・(^^;)
牧師の白丘は長年、自身の〈信仰〉について小難しく苦悶していましたが・・・・・・
「信仰と云うのは――」
「信じる事です。解ることではない。彼らは信じていたのです」
闇に浮かび上がった牧師の顔は、以外にきっぱりとしていた。
「僕も信じれば良かった訳か。信じる者には約束される――それだけのことだった訳だ」
と、まぁこのように京極堂に憑き物落としされます。
悩んでいたのが馬鹿馬鹿しい程の単純な答えですね。〈信仰〉とは“理解”ではなく、“信じる事”。白丘もオツカレ!って感じですね(^^;)
二人ともこう云ってしまっては不憫ですが、深刻ぶっていたが、とんだお間抜けさんだでしたみたいな。しかし、人間は皆、単純な事で悩んでいる間抜けな生き物なのかもしれないですけどね。
映像化
『姑獲鳥の夏』
『魍魎の匣』
と続けて実写映画化されていますので、次は『狂骨の夢』も・・・と、思ってしまいますが。
『狂骨の夢』はお話の作り・メインの仕掛けが小説での表現ならではのものなので、百鬼夜行シリーズの中でもたぶん一番映像化が難しい作品です。なので、映画化は今後も望み薄かなと思われ。
が、しかし、志水アキさん作画による漫画はあります↓
ので、工夫次第でどうにかなる・・・かも(笑)
最後に
この『狂骨の夢』ですが、京極さんの別シリーズである『後巷説百物語』収録の短編「五位の光」との繋がりがあります。是非あわせて読む事をオススメします↓
※ 他、シリーズ同士の繋がりについてはこちら↓
ではではまた~