こんばんは、紫栞です。
手塚治虫さんの漫画作品『どろろ』が約50年ぶり(!)に再アニメ化で2019年1月に放送予定、さらに舞台化もされるとのことなので、今回はこの漫画について少し纏めようとかと思います。
あらすじ
室町時代。武士の醍醐影光は、ある夜「地獄堂」に出向き、彫ったのちに彫刻師が発狂して死んでしまったという曰く付きの四十八体の魔像に天下取りを祈願する。影光は願いを聞き入れてくれてくれるならば「あさって生まれる予定のわしの子どもをやろう。わしの子の目、耳、口、手、みんなおまえたちでわけるがいい。四十八ぴきで四十八か所、好きなところをとれ」と、我が子を生け贄に差し出すことを約束する。
予定日の通りに産まれてきた影光の子は、身体の四十八か所が欠けた異形の状態で誕生した。魔神達が願いを聞き入れてくれたのだと歓喜する影光は、「この子は育たん」と言って嫌がる妻に産まれたばかりの子供を捨てるように命じ、眼前で子供を川に流させる。
その後、赤ん坊は医者に拾われる。医者はこの子を育てることを決意し、長時間の手術をし、義手や義足を作り、見た目上は並みの人間と変わらぬ身体を与える。子供は生まれつき不思議な力をそなえているらしく、やがて自由に走り回れるようにまでなった。
医者の元で生活すること14年。子供の不思議な力に引き寄せられるものか、医者の住居は沢山の妖怪が連日集まる化け物小屋のようになってしまう。子供は医者の元を離れることを決断し、“百鬼丸”という名を医者に与えられて出奔する。出て来た矢先、「おまえは四十八ひきの魔物に出会うだろう」「四十八ひきの魔物と対決せよ。もし勝つことができれば、おまえのからだはふつうの人間に戻れるかもしれぬ」との謎の声に導かれ、百鬼丸は自分の身体を取り戻す旅に出る。
道中、百鬼丸は複数の大人から袋叩きにされていた“どろろ”という幼子と出会う。どろろは幼子ながらに人は騙す、物は盗む、嫌がらせはするといった厄介者だという。百鬼丸はどろろを助けるが、どろろは百鬼丸の義手に仕込まれた刀を欲しがり、絶対に盗んでやると言って百鬼丸にしつこくまとわりついてくる。脅かしても恐ろしい目に遭っても百鬼丸の元から離れないどろろ。百鬼丸の一人旅はいつしかどろろとの二人旅へとなり、旅の中で二人は次々と魔物と対峙していく――。
妖怪漫画
『どろろ』は1967年~1969年に発表された作品。スポ根意外は全てのジャンルの漫画を描いたなんていわれている手塚治虫大先生。妖怪漫画も描いていたのでした。
この時代は水木しげるさんの『墓場鬼太郎』など、妖怪漫画が台頭してきた時代だったらしく、創作意欲が刺激された・・・のかどうか定かではありませんが。『どろろ』の作中でもどろろが「水木しげるに聞かせたいな」なんてセリフを言っていたりしますので(笑)、大なり小なり意識していたのではと思います。作者本人もインタビューでそう語っているんだそうな。
出て来る妖怪はほぼ手塚治虫のオリジナルで、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』などを参考に考えられたとのこと。(まぁ、どんな“妖怪もの”も基本は『画図百鬼夜行』なのですが)
「四化入道」という妖怪が出て来ますが、コレほぼ鉄鼠ですね。息子さんのスケッチも参考にしたらしいですけども。
ユニークなデザインや特性のある妖怪ばかりで楽しませてくれます。百鬼丸の両腕が刀となって戦う姿が印象的なアクションシーンも、かなり凝った構図で映画を観ているようなダイナミックさがあって見物です。
打ち切り?未完?
実は『どろろ』は連載や刊行にあたり中々複雑なことになっています。1969年に【少年サンデー】で連載が始まったものの、1968年に「第一部・完」というかたちで一度連載終了、1969年にテレビアニメ化を受けて掲載雑誌を秋田書店の【冒険王】にうつし、設定の一部変更にともなってそれまでの原稿は描き直しされ、その後新作が発表されますがテレビアニメ終了と共に雑誌掲載も終了。どろろや百鬼丸の因縁の相手とは一応の決着がついた状態で終了していますが、四十八の魔物との対決が半端なため百鬼丸の身体も当然全部揃ってないので、なんとも中途半端な印象を受ける。
掲載雑誌がうつり、描き直しなどがされている関係で秋田書店サンデーコミックス版(全4巻)と
全集版の方が最終稿で正当な扱いになりますかね。現在手に入れやすい文庫サイズのものは秋田書店、講談社とも全集版と同様です。全集版文庫は全二巻。秋田文庫だと全3巻。
私は秋田書店の文庫サイズのもので読みましたが、
最終話を読んだ後はしばらく「ポカーン」(゚Д゚)でした。
だって最終話の直前まではなにも匂わせてなかったのに、最後の一話で怒濤の展開をしたあげく、無理矢理なモノローグで終了。それまで面白く読んでいただけに、この終わりかたはショックでした。
ショックのあまり調べたのですが、打ち切りのようになってしまった理由は、どうも乱世が舞台の陰惨で重く、救いのない内容が読者にウケなかったのと、作者自身が漫画の展開に迷いがでたりしていたのもあってこのような終わらせかたになったようです。「四十八の魔物」とかいうくらいだから長期連載のつもりで設定作ったんだと思うんですけどね。
まぁ、サンデー向きではないよなぁというのは判ります。50年前なら特に。もし今やるにしても内容は青年誌向きですね。しかし、当時もテレビアニメ化されたのだし、
単純な不人気とは違うんじゃないかと思いますね。派生作品もいまだにどんどん出て来る状態ですし、魅力的な作品なのは疑いようもない事実でしょう。
“あの”作品に繋がっている?
作者自身、ストーリーへの迷いがあったとのことですが、なんと当初は「どろろは百鬼丸から取られた四十八か所の身体の部分をこねくりまわして作られた人間で、どろろを殺せば百鬼丸の身体は元に戻る」という設定だったのだとか。
なんだその恐ろしい設定は。読み終わった後で知ってびっくりしました。良かった設定変更されて・・・。
それはともかく、設定が抜群に面白い漫画なので、こんな消化不良のような状態で終了してしまったのは勿体ないとどうしても思ってしまいます。作者もそう思ったものかどうか、『どろろ』は後の代表作の『ブラックジャック』の前進的作品だとも言われています。
確かに、百鬼丸が医者の技術でまともな姿形にしてもらう過程は『ブラックジャック』のピノコに関する設定とほぼ同じだし、ブラックジャックとピノコの人物造形や二人のやり取りの雰囲気も『どろろ』があったからこそ産まれたものだという風に感じます。
かくいう私も元々『ブラックジャック』のファンでして。だからこそ『どろろ』はドストライクだったのだなってな気が。なので『ブラックジャック』好きな人にはオススメですね。
映画・アニメ
私が『どろろ』を読んだきっかけは2007年の映画を観たからでした。
原作とは違い、成人男性と成人女性とのコンビでストーリーもかなり異なるので“原作”というよりは“原案”と言った方が良いくらいですが、コレはコレで別作品として楽しめて私は好きです。
原作とはかけ離れた容姿の柴咲コウさんがどろろ役をしていますが、キャラクターの中身は比較的原作通りで奔放で逞しいどろろが描かれています。妻夫木聡さん演じる百鬼丸は原作よりクールな部分が強調されていました。二人の対比をハッキリさせる為ですかね。
友達はこの映画観て「面白いけど映像が気持ち悪い、グロい」と言っていました。通常はグロいの苦手な私は平気だったんですがね。
監督は三部作にする予定だったらしいのですが、予算など、大人の事情で頓挫してしまったのだとか。当時は主演二人に交際・破局報道などもありましたからねぇ・・・。
続編、是非観たかったので残念です。原作漫画だけでなく映画も不遇な結果になってしまった訳ですね。
2019年1月から放送予定のアニメですが、公式サイトを見てみたところ絵柄は近代風になっていますね。髪型がふつうだ・・・。この絵も良いですけど、原作のどろろ可愛いから原作も読んで・・・(^^;)
百鬼丸がかなり無表情ですね。目が死んでる・・・(まぁ入れ目だからなんでしょうけど)映画版の雰囲気のほうに寄せてクールな感じなのでしょうか。
サイトのあらすじだと「十二体の鬼神像」になっています。かなり減ってる・・・!この数からして、今回のアニメでは百鬼丸が身体を全て取り戻すところまでやってくれるのではないかって気がしますね。結果的に原作とはストーリーがかなり違うものになりそうな予感。どうであれ、ハッピーエンドが良いなぁ・・・(^_^)
以下若干のネタバレ~
女の子
どろろですが、男の子のように描かれているし、どろろ自身も男だと言って振る舞っていますが、実は女の子です。
作中何度も匂わせぶりなシーンがあるものの、直接的な言及などは無いままにお話が進み、最終話でやっとハッキリとしたかたちで明かされます。乱世に根無し草で生きていくには男だと周りに思わせておいた良いという判断なのか、両親はどろろを男の子として育てたということのようです。
原作ではどろろは五才ぐらいという設定ですので、どろろ自身、女だと気が付いていたかどうかもハッキリとしません。個人的には意地で「男だ」と言い張っているだけで本能的なところでは自分の性別のことはわかっていたんじゃないかと思うんですけどね。
人によっては「何のための設定なのかわからない」「男の子で別にいいじゃないか」といった意見があったりします。
私はこの設定が凄く好きなんですけどねぇ。どろどが嫉妬したり頬染めたりするのが可愛いんですよ~(^_^)
ストーリー上は無意味な設定に感じるかもですが、二人の関係性にアクセントが加わって面白味が増していると思います。ひょっとしたら、作者としてはちゃんとどろろが女の子だということが大いに関係してくる展開を用意していたのかもしれないですね。
ゲーム版だとラブロマンスぽくなっているんだそうな。
ラブロマンスはまぁいいですが(^^;)、今度のアニメでもこの“実は女の子”設定は変更せずに作って欲しいです。
結末
悲惨な結末が多い手塚治虫作品ですが、『どろろ』では“未完ですよ臭”漂う無理矢理な結末への消化不良と、百鬼丸とどろろが別れてしまうラストシーンは悲しいものの、メイン二人が死んでしまうような手塚作品お馴染みの「絶対に続けようもない結末」にはなっていません。
前にインタビューで「僕はキャラクター主体の漫画は描けなくって、いつもストーリーが大前提の漫画しか描けない」と手塚先生が語っているの映像をテレビで観ました。(だいぶうろ覚えですけど・・・)
だからこそ、いつも「キャラクターに容赦ないけども絶対的な結末」というのが迷いなく描けたのだと想像するんですが、『どろろ』には手塚先生も未練や迷いがあったんじゃないかなぁと思います。この作品にもキャラクターにも愛着が湧いていたからこそ、非情でスッパリとした結末には出来なかったのでは・・・・・・と、思いたいところですがどうでしょう(^_^;)
未完だというのが通説になっている作品ですが、この終わりかただったからこそ派生作品が産まれ続けていることもまた事実だと思います。今度のアニメや舞台ではどのような結末にもっていくのか気になりますね。出来れば二人が離れない結末にして欲しいもんですが。
メディアミックスで気になった方は是非是非原作を。
ではではまた~