こんばんは、紫栞です。
あらすじ
ついぞ笑ったことなぞない生真面目な浪人・伊右衛門に、御行の又市を通して縁組みが持ちかけられる。
その相手は老同心・民谷又左衛門の娘でお岩といった。重い疱瘡を患い、生来の美貌は見る影も無いほどに醜く崩れた顔になってしまったお岩を不憫に思うと共に、お家断絶を憂う又左衛門が又市に婿捜しを頼んだのだ。
お互いに相手のことをまったく知らぬままに縁組みはまとまり、ともに暮らし始めた伊右衛門と岩は互いに惹かれていくが、不器用な二人は相手を想いながらもすれ違ってしまう。
そんな二人に、かつて岩に執心していたこともある筆頭与力・伊藤喜兵衛の罠が仕掛けられ――。
京極版四谷怪談
『嗤う伊右衛門』は1997年に刊行された長編小説で【江戸怪談シリーズ】の第一作目。『東海道四谷怪談』『四谷雑談集』を原典とした“京極夏彦版「四谷怪談」”です。
【江戸怪談シリーズ】は前に三作品まとめて簡単に紹介したのですが、今回は『嗤う伊右衛門』について深く掘り下げて紹介したいと思います。シリーズ概要や他シリーズとの繋がりはこちらの記事で↓
1994年に『姑獲鳥の夏』でデビューして以降、【百鬼夜行シリーズ】を続けて発表し続けていた京極さんが、初めて発表した百鬼夜行シリーズ外の作品で、初の時代小説、初のハードカバー作品でした。『百鬼夜行シリーズ』はノベルスでの刊行ですからね・・・。
今でこそ京極さんの時代小説はお馴染みですが、当時は新境地に挑んだ作品として読者には目新しかったことでしょう。ページ数も350ページほどと、京極作品にしては驚異的な少なさでした。発売当初は本が薄いってだけで読者から文句をつけられたと京極さんが以前テレビ番組で愚痴っていましたね。
目出度く第25回泉鏡花賞受賞し、第118回直木賞候補作にもなり、京極さんの代表作の一つに。2004年には舞台演出の大御所・蜷川幸雄さん監督で映画化されているので、それで知っている人も多いと思います。
思えば、この映画は私が最初に触れた京極夏彦関連作でした。この時はまだ作者名も原作も知らなかったんですけど。耽美な雰囲気に惹かれてレンタルしただけ。そもそも読書自体この時は全然していませんでしたし。
まさか、映画を観てから数年後に京極夏彦作品にドハマりして読書三昧になるとはね・・・(^_^;)。
映画観て終わりにしている人には、絶対に、ぜっつたいに!原作を読んでもらいたいです。
反転
上記したように、今作は古典怪談の「四谷怪談」を元に著者が独自に再構成した物語。主な設定やストーリーは『四谷雑談集』を下敷きにして、直助・お袖・宅悦・世茂七など、『東海道四谷怪談』での登場人物を脇役として配置しています。
『四谷雑談集』というのは四谷で実際に起きたと噂された「夫に裏切られた妻による祟り事件」の詳細が書かれた文献(※あくまで“噂話”の詳細ですが)で、鶴屋南北による歌舞伎狂言『東海道四谷怪談』の“元ネタ”とされるものです。
実は、【巷説百物語シリーズ】のメインキャラクターである又市は『嗤う伊右衛門』が初登場作品。元々、『四谷雑談集』に登場する人物で、【巷説百物語シリーズ】はここからの派生的作品ともいえる。結果的に、【巷説百物語シリーズ】と密接な関わりがあります。詳しくはこちらの記事で↓
一般的に「四谷怪談」と聞けば『東海道四谷怪談』のストーリーを連想する人がほとんどでしょうから、『嗤う伊右衛門』のストーリーを疑問に思う人もいるでしょうが、『四谷雑談集』の内容を知ると今作が上手い具合に踏襲していることが分る。『四谷雑談集』のあらすじについてはこちら↓
しかし、日本一有名な怪談と言われた「四谷怪談」も、令和のこの世では知らない人が多いですかね。昔はドラマや映画でよくやっていましたけど、今は古典怪談もの自体テレビでやりませんもんね~。ま、それはそれで何の先入観もなしに今作を愉しめるということで。
「四谷怪談」のお岩は夫に尽くす貞女で、伊右衛門は祟り殺されるのが当然の酷すぎる男であり、二人の間にあるのは打算まみれの期待と利用ですが、『嗤う伊右衛門』ではお岩は凜とした高潔な女性で気性激しめ、伊右衛門は寡黙で誠実な男性で、互いに惹かれ遭っているものの、想い遣るばかりにすれ違ってしまう愛情深い不器用夫婦。
こんな具合に、人物像も夫婦の在り方も、途中岩が激昂する場面の意味も、丸々反転されたものとなっています。それだけでなく、「四谷怪談」という“怪談自体”も反転された物語なのだと結末で気がつかされる。
「四谷怪談」を上手い具合に下敷きにしながら、反転させてまったく違う印象を与える物語に仕上げているのが今作の特徴です。
描かれるのは怨霊・祟りといった超常現象ものではなく、周囲の思惑や謀によって壮絶な結末へと至る夫婦の姿。怨讐と情念、純愛と狂気の物語。
純愛と狂気
伊右衛門と岩の二人はそれぞれに好感が持てる人格設定となっていますが、この二人が仲むつまじく暮らすのは到底無理なのだなぁというのは読んでいてヒシヒシと伝わる。
伊右衛門は岩の崩れた顔を醜いなどとは思っていないし、岩を深く愛しているのですが、岩に対して気を遣いすぎるあまりに口ごもっては「すまぬ」と詫びてしまう。
岩にしてみれば、伊右衛門には“健やかに、思いのままに振る舞って欲しい”と願っているので、そんな姿を見てキツくあたってしまう。
結果的に、伊右衛門は憔悴していくばかりだし、岩はそんな弱っていく伊右衛門を見てますます鬱憤がたまっていくばかり。
互いに無関心ならこんなことにはなりませんが、想い合っているばかりにすれ違っているのですね。それにしたって、不器用すぎるだろうと歯がゆくなりますが。
そんな訳で、傍目には不仲な夫婦として見えてしまう二人。女房があの御面相、あの気性では当然だろうと噂されるのですが、伊右衛門はどんなに憔悴しても岩と離れようとはしない。
もちろん岩を愛しているからですが、憔悴し続けながら妻を庇い続ける伊右衛門の姿は傍目には異様なものとしてうつる。
読者は「伊右衛門は誠実だけど不器用だなぁ。投げやりになっているとはいえ温厚だなぁ」と思って読み進めていくのですが、終盤で伊右衛門は突如、温厚とはほど遠い凄絶な方法で決着をつける。
「だ、旦那、狂ったか」と驚く又市に、伊右衛門は「狂うておるなら初めから」と答えます。
伊右衛門は初めから、岩と出会った時から静かに狂っていた。恋に落ちたときからずっと。寡黙で実直、淡々としていて心情が分りにくかった伊右衛門だからこそ、終盤での“伊右衛門の真実”にとてつもない恐ろしさを感じる。
しかしそれと同時に、哀しさと美しさも感じる。本当の意味で人を愛するのは、狂っていなければ出来ないのだと知らしめされるのです。恐ろしく、哀しいですが、これぞ真の純愛小説なのではないでしょうか。
何を“嗤う”のか
笑わない男であった伊右衛門が“嗤う”時、狂気は放出される。この小説でもっとも怖い瞬間は伊右衛門が嗤うときで、もっとも怖い人物は本来の「四谷怪談」では祟られる立場であるはずの伊右衛門なのですね。
最後の最後、伊右衛門は自分なりの方法で幸せを獲得しています。どこか『魍魎の匣』に出て来た“あの人”を連想させられますね。彼岸に到達したと。
タイトルの「嗤う」は、嬉しい・楽しいときの意味合いでつかわれる「わらい」ではなく、「あざけりわらう」ときに使われるものです。
では伊右衛門は何を嘲っているのか?
「綺麗の醜いの、男だの女だの、侍だの町人だの――余り関係ねぇことなのかも知れやせん」
と、一連の騒動後に又市は言います。
伊右衛門と岩の周りでは、常に美醜、男女、身分、家名などによる問題や障害が纏わり付いていました。だからこそすれ違い、引き裂かれることとなった。
二人は煩わしい世間から解放される。最後に伊右衛門は自分たちを悩ませ、翻弄してきた“しがらみ”を嘲ってわらう。生きるの死ぬのすらも変りはないと言って。
深く想い合っている二人ですが、この方法でしか幸せにはなれなかったのかなと思いますね。
悲恋が主軸でありながら、伊右衛門と岩が二人でいる場面はこの物語ではほんの少ししか描かれていません。
真相を知らされて激昂し、隠坊堀へと向かった岩に何が起きたのか。
互いに真実を知った二人の間でどの様なやり取りがあったのか。
それは読者の想像に委ねられている。散りばめられた断片から夢想するというのはまさに“怪談”といえるのかも。
悲恋としての要素だけでなく、ミステリ的構成も巧みで、伊右衛門が凄惨な決着をつける場面は恐ろしいものの、エンタメ的な爽快感がある。
又市はじめ、脇役たちの事情や心情も読み応えがあります。伊右衛門だけでなく、又左衛門や直助の「狂気」も物語に深く関わっている。一貫して、人を想うことの狂気の物語が描かれているがまた素晴らしい。この完成されている感じが京極夏彦作品の醍醐味ですね。
個人的にもっとも好きな場面は、伊右衛門が「俺が貰ろうた」と言って嗤うところです。ゾッとするんですけども、たまらなく良いんですわ。何度も読み返してます。
まだまだ残暑がつづくようですので、夏を感じられるうちに是非。個人的に、京極作品の中でも特に好きな作品ですので、多くの方に読んで欲しいです。
ではではまた~