こんばんは、紫栞です。
江戸時代を舞台に、御行の又市率いる一味が公には出来ぬ厄介事の始末を金で請け負い、妖怪譚を利用した仕掛けで解決させていく妖怪小説のシリーズ【巷説百物語シリーズ】。『巷説百物語』はそのシリーズの第一作目。
※シリーズ全体の詳細はこちら↓
シリーズの一作目である『巷説百物語』では、戯作者志望で百物語を開版するべく怪異譚を蒐集している青年・山岡百介が又市ら一味と出会い、裏の世界に足を踏み入れてゆく様が描かれる。
主要登場人物は御行の又市、考物の百介の他に山猫廻しのおぎん、事触れの治平で、「塩の長司」で四玉の徳治郎が、「帷子辻」で靄船の林蔵と無動寺の玉泉坊が登場しています。
文体は仕掛けられている側の心象だったり、証言者の一人語りだったりと様々な視点で提示されることで事件の全体像がみえてくる構成になっていて、最後の章で百介が又市たちから種明かしを聞くのが“オキマリ”となっています。
各話、あらすじ・解説
一話完結型な連作短編で、七編収録。
【巷説百物語シリーズ】で題材として採られている妖怪たちは全て、天保12年(1841年)に刊行された竹原春泉の画、桃山人の文の『絵本百物語』から。
●小豆洗い
越後の難所・枝折峠で豪雨に遭い、川岸の山小屋で雨宿りすることにした僧・円海。山小屋には白い御行姿の男、垢抜けた傀儡師の女、初老の商人、得体の知れない若い男など、十人ほどの男女が集まっていた。退屈しのぎに江戸で流行りの百物語と洒落てみようとなったのだが、怪談が終わるたびに円海は何故か取り乱してゆく。
記念すべきシリーズ一作目で、百介と又市たちの出会いのお話。「百物語しようよ」という所から全てが始まるのが心憎いなぁといった感じですが、シリーズ三作目の『後巷説百物語』を読むと、このお話が心憎いどころじゃない更なる意味を持っているものなのだということが解って驚愕する。
仕掛けは比較的単純なのですが、怪談の語り口や、「小豆洗い」は川で小豆を洗う妖怪で音の怪異だとのことで、オノマトペが多用された文体が怪しい雰囲気を高めてくれます。出来れば雨が降っている夜、部屋で一人の時に読むのがオススメ。
【巷説百物語シリーズ】の第一話はこれっきゃないっ!ていうお話ですね。
●白蔵主
甲賀の国・夢山の麓にある社で、狐釣りである弥作はおぎんと名乗る女と出会う。おぎんは江戸からずっと弥作の後を尾けてきたと云う。弥作は火盗改めの密偵か、狐が化けたものかとおぎんを疑い、疑心暗鬼に陥る。弥作には火盗改めに追われ、狐に怨まれる覚えのある忌まわしい過去を持っていた。
“白蔵主”とは白狐が化けたもので、寺の住職を殺して成り代わり、何年も騙し続けたとかなんとか。能狂言の題材として芝居になったりもしていて有名(?)な伝承。
なんといっても狐の化身なのではないかと疑われるおぎんが良い。読者はおぎんの正体を知っているのに、「まさか本当に狐なんじゃ・・・」と思わせられてしまう程に妖艶でミステリアスな女性の描きっぷりは流石。
弥作の境遇はやるせなく、どちらに転んでも後味の悪い結末の仕掛けなので、百介が釈然とせずに又市に問いただしています。又市ら一味がどのような道理で仕事を請け負っているのかが示されるお話ですね。
●舞首
伊豆の国、巴が淵。荒くれ者である鬼虎の悪五郎。その悪五郎を斬ってくれと依頼された「首切りの又重」こと石川又重郎と、その二人を狙う田舎侠客・黒達磨の小三太。悪党どもの三つ巴の結末はいかに。
「舞首」は三人の博打打ちが諍いをしたあげくに揃って死罪となり、首を海に流したところ、三つの首が一箇所に集まっていつまでも罵り合いを続けたとかいう、恐ろしいような、どこか滑稽な伝承。
悪人だらけの三つ巴の合間合間に又市たちの影がちらつき、「どうなるの?どうなるの?」と、とにかく顛末が気になるお話。“首なし死体”が仕掛けに利用されているとあって、ミステリ要素が強いかも。
●芝右衛門狸
淡路の国の大百姓で評判の好々爺・芝右衛門。孫娘を辻斬りに殺される禍に見舞われ、傷心の芝右衛門は庭に訪れた人の言葉を解しているがごとき狸を可愛がり、話し相手とする。傷心故に気が触れたのではと村で噂されているのを知り、芝右衛門はこの狸に「明日は人の姿に化けてこい」と言い渡す。すると翌日の夜、狸は老人の姿で現われた。この老人は「自分の名も芝右衛門だ」と云い、「芝右衛門狸」として村で評判の人気者となるが・・・。
元の伝承は、狸が人に化けて芝居を見物しに来たところで犬に食われて死んでしまったのだが、その後三十三日間変身が解けずに人間の姿のまま、正体を見せなかったとかいうもの。
好々爺と狸のやり取りが微笑ましいですが、その一方でどこぞの若侍の様子が血生臭く不穏に描かれる。温度差があるぶん、どのように話が繋がるのかが見所。芝右衛門の爺さんは本当の善人で好々爺なので、最後誤解させたままなのがチト気の毒。
●塩の長司
加賀の国、小塩ヶ浦の馬飼長者・長次郎。慈悲深いと評判だった長次朗は、十二年前に三島の夜行一味に襲われ、先代と妻子を殺されてしまう。それ以来、長次朗は顔を隠し、滅多なことでは人前に出ないようになった。
一方、又市は小悪党仲間である四玉の徳次郎から死んだはずの長次朗の娘・おさんを見つけたと聞かされるのだが・・・。
「塩の長司」は家で飼っていた馬を食べて以来、馬の霊気が口内を出入りするようになったとかいう怪事。似たような言い伝えは他にも様々にあるのだとか。
“馬を食べる”という行為がキーになっているお話で、時代背景を色濃く感じる。現代人としてはピンときませんが、この時代は確かに肉を食べる習慣はさほどなかったし、まして飼っている馬を食べるなんて非道なことだったのだろうなぁと。
このお話もミステリ色が強いですかね。
●柳女
北品川の旅籠、柳家。柳の巨木を祀り、十代続いた老舗旅館であるが、今の主人である吉兵衛はこの巨木に信心を持たず、柳を祀った祠を破壊する。それ以降、吉兵衛は妻を娶り、子をなす度に不幸に見舞われ、四人の妻と三人の子を失った。
おぎんは幼馴染みである八重と再会するが、八重は吉兵衛のもとに五人目の妻として嫁入りすることになったという。八重の身を案じたおぎんは又市に相談を持ち掛けるが・・・。
風の激しい日に、子供を抱いた女が柳の下を通ったら首に柳の枝が巻き付いて事故死し、それからというもの、夜な夜な柳の下に恨み言をいってすすり泣く女が現われるようになった――と、いうのが『絵本百物語』での「柳女」の解説。
おぎんが又市に依頼するとあって、減らず口どうしの二人の会話がまず楽しい。気乗りしない又市ですが、おぎんに押し切られてしぶしぶ立ち上がるのですね。
同じ男のところに嫁いだ女が次々と――と、いう筋は【百鬼夜行シリーズ】の『陰摩羅鬼の瑕』と似ている。真相も。
どちらのお話も悲しいしやるせないのですが、こちらのお話はかなり恐ろしい真相ですね。
●帷子辻
京洛の西、帷子辻。与力・笹山玄蕃の病死した妻女の遺体が盗まれ、腐乱した状態で放置されたのを皮切りに、祇園の芸妓、料理屋の下女、花売りと、相次いで女の腐乱死体が辻にうち捨てられる事件が発生。まるで、腐りゆく美女の遺骸を描いた画図「九相図」を再現するかのような怪事の真相とは。
世の無常を示すため、檀林皇后の御尊骸がうち捨てられた逸話が地名の由来となっている「帷子辻」。
大阪ってことで、又市の大阪時代の朋輩でシリーズ五作目『西巷説百物語』の主役・靄船の林蔵が登場しています。美醜が絡んでくる話なので、『嗤う伊右衛門』とリンクしている話題や場面があり、仕掛けが終わった後、又市が珍しく塞ぎ込んでいる。この又市の心境は『嗤う伊右衛門』を読むと理解が深まります。
「弔い」について、このお話を読んで考え方が変えられたというか、気付かされたので、個人的にいつまでも忘れられない特別なお話。
ほんの序章
以上、七編。
どれも素晴らしい一話完結型連作妖怪仕掛け小説でありますが、実はこの本はほんの序章というか、シリーズ開幕の、概略を示す看板みたいなものです。
シリーズの一作目『巷説百物語』の段階では、又市たちの素性や何故このような仕掛け仕事をしているのかなどの背景は明かされていません。それらは「続」「後」「前」へと続いていくのですが、単純に続いている訳ではなく。シリーズ全体にも驚くべき仕掛けが施され、感嘆と感動を読者にもたらしてくれます。
時代小説であるものの、
「人に魂などない!」
「況んや冥界などというものはない!」
「生きた身体そのものが魂でございます。生き残った者の心中にこそ――冥府はあるのでございます。だから――死したるものは速やかに、あなたの心の中にお送りせねばならぬのです。そうでなくては生きている者の示しがつかぬ」
など、妖怪小説でありながら超現実主義的な京極夏彦作品の特徴は一貫されていて、「悲しいやねえ、人ってェのはさあ」という【巷説百物語シリーズ】のテーマも繰り返し示されています。
この徹底した、完成された物語構成。是非、シリーズ開幕の今作から順を追って愉しんでいって欲しいです。
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ではではまた~