こんばんは、紫栞です。
今回は京極夏彦さんの『書楼弔堂 破曉』をご紹介。
〈探書〉朝
『書楼弔堂 破曉』は明治二十年代半ばが舞台の〈探書〉物語シリーズの第一弾。「書楼弔堂」という、とんでもなく品揃えが良い本屋に、史実の著名人たちが本を探しに訪れて“その人の人生にふさわしい一冊”に出合っていくという連作短編もの。
京極さんの代表的シリーズである【巷説百物語シリーズ】
と【百鬼夜行シリーズ】
との間を埋めるような時代設定になっていて、話も繋がっています。『後巷説百物語』収録の「風の神」からおよそ十五年後という設定。単体でも十分愉しめるよう書かれている作品ですが、他シリーズも知っているとより愉しめるというか、興奮する作品になっていますので、京極作品ファンは必見。
簡単に言うと、本屋に客が来て本を買っていくというだけのストーリーで、ドラマチックな出来事やミステリ要素などもないのですが、史実の著名人たちが登場人物として出て来て、何に悩み、何に迷って、何に気付いて、“こと”を成したのかが、「書楼弔堂」を通し、虚実入り乱れて描かれています。
史実を踏まえて虚構を愉しむ物語で、読みながら「これは史実の誰かな?」と予想する面白さもあり、歴史好きや明治時代の著名人に詳しい人はより愉しめるものになっていると思います。残念ながら、私は歴史やらに疎い方なので、最後に著名人の名が明かされても「名前は聞いたことある気がするけど、何した人だっけ?」と、なってしまい、後から検索してやっと納得するみたいな事が大半だったりしますが(^_^;)。
集英社からの刊行なのですが、コレの前に京極さんが集英社で出していた作品は『どすこい』『南極(人)』『虚言少年』
など、ギャグ本というかコミカルなものばかりだったので、集英社では“そういう本”しか書かないのだろうとか勝手に思いこんでいました。なので、『書楼弔堂』が刊行された時は「集英社でもマジメなもの書くんだ」と、妙なところで驚いたものです。しかも他シリーズともガッツリとリンクしているものを書くとは。私は京極さんの笑いのセンスもツボなので、『どすこい』みたいな笑いに特化した作品も大歓迎なんですけどね。
シリーズ第一作目である今作は、コネで煙草の製造販売業に就くも、単なる風邪を癆痎かと怪しんでさっさと休職。感染しちゃ悪いと思い、妻子を屋敷に残して閑居に移り住んだら、父親の遺産で食い繋ぐ勝手気ままな独り暮らしが気に入ってしまい、風邪が治った後もダラダラと同じ生活を続けてしまっている元幕臣の嫡男・高遠が、その閑居の近所を散策しているときに「書楼弔堂」を発見するところから始まる。
『書楼弔堂 破曉』では、この高遠が語り手を務めていて、終始高遠からの視点で物語が描かれています。
高遠の他にレギュラー出演する登場人物は元僧侶である弔堂主人と、美童で憎まれ口が達者な書楼弔堂の丁稚・撓(しほる)。
「書楼弔堂」は三階建ての燈台のような建物で、軒には簾が下がっており、その簾には「弔」と記された半紙が一枚貼られている。※文庫の表紙を見ると分かりやすい↓
店内は薄暗く、上等の和蝋燭が一定の間隔で灯されていて、夥しい数の本が積まれているという、まるで異界に迷い込んだかのような空間。この異界の建物、主人がいうには「書物の墓場」に、迷える者たちは〈探書〉に訪れ、弔堂主人と会話するなかで“ただ一冊の大切な本”と出合っていく。
タイトルにある「破曉」というのは“明け方”のこと。作者インタビューによると、このシリーズは朝、昼、夕、夜という構成で書いていくのだそうな。京極さんは「それって四冊かよ」と後悔しているらしいですが(^_^;)。ま、京極さんのことだからキッチリ四冊出すのだと思う。
ともかく、今作は始まったばかりの明け方、開幕の一作目だということですね。既にシリーズ二作目である『書楼弔堂 炎昼』が刊行されているのですが、
※2023年1月に第三弾『書楼弔堂 待宵』も出ました
読む順番を間違えないように要注意です。
各話・解説
『書楼弔堂 破曉』は六編収録。
以下、各編に登場する史実の著名人たちについて紹介しますが、上記したように「史実の誰か?」を予想するのもこの物語の楽しみの一つとなっていますので、ネタバレをくらいたくない人はご注意下さい。他シリーズとの繋がりも解説していきます。
探書壱 臨終(りんじゅう)
〈探書〉の客は月岡芳年。“最後の浮世絵師といわれる人物で、主に残虐怪奇な無残絵が有名ですが、他にも様々な絵を描き、旧来の画法に拘泥せず、次々と新たな技法を編み出した国芳門下一の出世頭。しかし、名を成すなかで強度の神経衰弱となり、度々身体を壊していた。
月岡芳年が亡くなったのは明治二十五年六月。このお話では、死期を悟った芳年が「臨終のその前に、読む本を売って呉れ」と弔堂を訪ねてくる。単行本の表紙に使われている絵は芳年筆の肉筆画。単行本ですと、作中にもこの絵が挿入されています(文庫には挿入されていない)。「幽霊之図」という題ですが、赤い腰巻きに赤ん坊を抱いている姿から、おそらく産女を描いたものだと思われる。シリーズの第一話にウブメを出してくるところがニクイですね。
探書弐 発心(ほっしん)
このお話では、泉鏡花はまだ文壇デビュー前の若造。金沢から上京して尾崎紅葉の内弟子となり、原稿の整理や雑用をしていた時で、ひょんなことから知り合いとなった高遠は、お化けに惹かれてしまうことに悩んでいる様子の青年を見かねて弔堂へと連れてくる。
泉鏡花が京都の日出新聞で処女作である『冠彌左衛門』の連載を開始するのは明治二十五年十月。作中ではこの初連載を開始する三ヶ月前に弔堂を訪れたという設定になっています。
探書参 方便(ほうべん)
〈探書〉の客は井上圓了。妖怪博士として有名な、妖怪研究の第一人者。
このお話では、圓了はまだ妖怪学だのをやりだす前で、哲学者として近代国家を目指して「哲学館」を設立して講師をしていた時。
江戸無血開城の立役者で枢密顧問官・勝海舟は「面白い奴」と圓了に目を掛けており、金を稼ぐことに無知な圓了に知恵を授けてやってくれと弔堂主人に頼みにくる。弔堂主人と勝海舟は懇意な間柄という設定なんですね。高遠は弔堂主人のビッグな人脈にあらためて驚きます。そりゃそうだ(^_^;)。
京極さんの作品ですと『ヒトごろし』にも勝海舟が登場していますね。
京極作品はいずれも同一の世界観で描かれているので、『書楼弔堂』に登場する勝海舟と『ヒトごろし』に登場する勝海舟は同一のもの。伝法で気持ちの良い人物として描かれています。
このお話では他にもゲストで『後巷説百物語』の矢作剣之進が登場。
不思議巡査として名を馳せた矢作ですが、『後巷説百物語』収録の最終話「風の神」での百物語怪談会から十五年経ち、警察を辞めて圓了を師と仰ぐ「哲学館」の熱心な学生となっています。矢作以外の朋輩たちも十五年経って何しているのか気になるところですね。
探書肆 贖罪(しょくざい)
〈探書〉の客は岡田以蔵。「人斬り以蔵」の異名で知られる、幕末四大人斬りのうちの一人。
何やら黒い男を連れた老人と鰻屋で思いがけず相席となった高遠。話をしたところ、老人は弔堂を訪ねてきたのだということを知り、高遠が案内をすることに。
この老人は幕末から明治にかけてアメリカと日本で活動し、日米和親条約の締結に尽力した中濱萬次郎(ジョン万次郎)。連れていた黒い男が岡田以蔵で、万次郎は生きながら死んでいるような以蔵をどうにかしてやりたいと、勝海舟に勧められた弔堂を訪れ、「この者を救う本はないか」と尋ねる。
いやいやまて、岡田以蔵は明治になるよりも前に打ち首獄門となって死んだはずでしょ?ってなるところですが、このお話では万次郎が生前語っていた“史実とは矛盾した証言”から着想を得た「もしも岡田以蔵の打ち首獄門が偽装だったら?」というifストーリーとなっています。
岡田以蔵に関しては『ヒトごろし』でも勝海舟が言及している箇所があって、ちゃんとこのお話とリンクするようになっているので是非双方読み合わせて欲しいところ。
探書伍 闕如(けつじょ)
〈探書〉の客は巌谷小波。少年少女向けに書いた『こがね丸』を発表し、児童文学の先駆者となった人物。
このお話での巌谷小波は処女作である『こがね丸』を発表して少し経った頃で年齢は二十三歳。人からの又聞きの又聞きで「見事な品揃えの、揃わぬ本のない書舗」の噂を聞きつけ、本当なら是非行ってみたいと巌谷小波は高遠の元を訪れる。
インタビューで作者の京極さんも仰っていますが、このお話の巌谷小波は今でいうオタク気質な人物として描かれています。噂を頼りに高遠の元に来る熱量や、品揃えをみて興奮する様、読むのとは別で保管用として所持したいなど、まさにオタクの“それ”。弔堂主人に語る悩みや迷いも、簡単に言うと「自分、このままオタクのままで良いのだろうか」というもの。それに対しての弔堂主人の返答はというと、これも簡単に言うと「良いじゃないですか、オタクで」というもの。そう、良いんですよ。オタク万歳さね。
探書陸 未完(みかん)
相変わらず暇な日々を過していた高遠。ある日、撓に頼まれて弔堂の本の買い取りの手伝いをすることとなり、中野にある神社を訪れる。本の買い取りを希望しているのは宮司の中禅寺輔だった――。
中野、神社、中禅寺、キタコレ!と、京極作品ファンなら大興奮してしまうところ。この本の最終話で登場する人物は史実の著名人ではなく、【百鬼夜行シリーズ】の主要人物である中禅寺秋彦の祖父・中禅寺輔。父である洲斎が亡くなり、神社を嗣ぐために妻と生まれたばかりの息子を残して一人実家に戻り、神職の勉強やら修行やらをしている時で、買い取って欲しいという大量の本は父・洲斎が懇意にしていた戯作者・菅丘李山の遺族から譲り受けたものだという。
洲斎は今のところ小説には登場していないのですが、2000年にWOWOWで放送された【巷説百物語シリーズ】の実写ドラマ『京極夏彦・怪』の第四話、作者の京極さん自身の手による完全オリジナル脚本「福神流し」に凄腕の陰陽師として登場しています。※詳しくはこちら↓
そして、菅丘李山という名は『巷説百物語』の主要登場人物・山岡百介の筆名。サービス心溢れる、ファンにとっては色々と必見なお話となっています。
神職を嗣ぐ決意をしたものの、輔は父の仕事、陰陽師の在り方には否定的な立場でした。所詮ペテン師の類いなのではないかと。家を出ていたのもそういったわだかまりがあったからで、宮司となったこの時も「迷信、まやかしは不要で滑稽なもの」と思っています。(この、お化けや幽霊なんて・・・!真に受けてたら今の世じゃ馬鹿だろう」という意見は、各話に登場するゲストが皆いいだすことですね。時代の移り変わりによって、迷信は打破しなくてはという考えが世間一般で強くなってしまっているということなのでしょうが)
そんな輔に、弔堂主人は「心は、現世にはない。ないからと云って、心がない訳ではない。心はございます。“ない”けれど、“ある”のです」「“ない”ものを“ある”としなければ、私共は立ち行きません」と語り、はっとさせる。
【百鬼夜行シリーズ】で、中禅寺秋彦は祖父と袂を分けた父にかわり、神社を嗣ぐことになったと説明しています。このお話の最後でも、「武蔵野晴明社の宮司中禅寺輔の一人息子はそれから二十年の後に父と袂を分かち、洗礼を受けて耶蘇教の神父になったのだと風の便りに聞いた。自ら辺境に赴き、熱意を似て布教活動を続けていると云う。父である中禅寺輔の心中は、知れない。」と、書かれています。
なかなか一筋縄ではいかない家系のようで(^_^;)。いったい何でそうなってしまったものか、気になるところですね。
弔堂主人の名が「龍典(りょうてん)」だということもここで初めて明らかになります。
以下、さらなるネタバレ~
高遠
『書楼弔堂 破曉』の語り手であり視点は一貫して高遠です。この高遠、三十五歳の妻子持ちの男ですが、風邪をこじらせて独り暮らしを始め、その生活が気に入ってしまってダラダラと実家も妻子もほっぽっていつまでも仕事もせずに家にも帰らずにいる。直参旗本の家に生まれて父親の残した財産もあり、独り暮らしといっても掃除や食事は隣家の者に頼んでやってもらっているという「そいつはいいご身分だ」ってな野郎なのですよ。
偉そうにしている訳でも、偏見を持っている訳でもなくって、人並みに謙虚も気遣いも出来るので、読んでいて不快になるような語り手ではないのですが、「ちょっとどうなのよ」とは思ってしまうところ。身内にこんな人がいたら、やっぱり説教の一つもかましたくなりますよね(^^;)。
この本の舞台は明治二十年代半ば。長かった江戸時代が終わり、明治へ。『後巷説百物語』では文明開化のころが舞台で、急激な変化による葛藤やら戸惑い、もの悲しさなどが描かれていましたが、
その『後巷説百物語』で描かれた文明開化から十五年が経ち、人々は変化を受け入れ、環境に慣れてきています。
が、世間が順応していっても取り残されてしまう人物はいるもので、移ろいゆく時代の中で迷える者達が「書楼弔堂」を訪れる。高遠はその“迷える者達”、時代の変化に追いつけない、乗ろうとしない人物の筆頭として、「書楼弔堂」の常連客となり、〈探書〉にくる人々を目撃していく。
弔堂主人は「読まれぬ本を弔い、読んでくれる者の手許に届けて成仏させるが我が宿縁」といい、〈探書〉に訪れる者達の話を聞き、その人の“大切な一冊”となる本を提案して売っていきますが、その人の人生が激変するような、考えを丸々改めさせるような本は提案しない。弔堂主人が提案するのは、その人の考えを裏付けてくれる本。その人に寄り添う本なんですね。だから、基本弔堂主人はどの迷い人にも「それでいいじゃないですか」というスタンス。
どこからどうみても社会に適合できていない、無職の妻子ほったらかし男の常連客・高遠も、この本の最後で弔堂主人から薦められた一冊の本を買います。
話を順に追っていくなかで、このどうしようもない高遠は最後どうなるのだというのは読んでいてずっと気がかりなところなのですが、これがどうもしない。と、いうか、分からないままに終わっています。
これからのことについて、何も決心をすることが出来ない高遠に対しても、弔堂主人は「それで良いではありませんか」といってのけるのですね。「未完のままでいい」と。
本を買った日を最後に、高遠は弔堂に足を向けるのをやめ、空き家は引き払ったが、家にも帰らなかった。高遠彬(最後の最後で高遠の下の名前が明らかになっています。この書き方、京極さんがよくやるやつですね)がその後どうなったのかは誰も知らない。と、書かれて終わっています。
う~ん。ホント、「未完」で終わっているってな感じで、なるほどなって締め方なのですが、そうはいわれても高遠がどうなったのかどうしても気になってしまうところ。
シリーズ二作目の『書楼弔堂 炎昼』では語り手が変わるので、高遠のその後は今現在、やっぱり知れないままですね。
ここで完全退場なのか、今後どっかで登場したりするのか・・・どうなのでしょう。
本
明治二十年代半ばは出版法が成立したりと、「本」の在り方が大きく変わった時期でした。今現在のこの世の中も、電子書籍化がドンドンと進んで、「本」の在り方が大きく変わる時期となっています。
作中で、弔堂主人は、
「言葉は普く呪文。文字が記された紙は呪符。凡ての本は、移ろい行く過去を封じ込めた、呪物でございます」
「書き記してあるいんふぉるめーしょんにだけ価値があると思うなら、本など要りはしないのです。何方か詳しくご存じの方に話を聞けば、それで済んでしまう話でございましょう。墓は石塊、その下にあるのは骨片。そんなものに意味も価値もございますまい。石塊や骨片に価値を見出すのは、墓に参る人なのでございます。本も同じです。本は内容に価値があるのではなく、読むと云う行いに因って、読む人の中に何かが立ち上がる――そちらの方に価値があるのでございます」
と、いう。
本を読んでいると時偶、「本を読んでて偉いね」なんて言われるなんてこと、読書家の人には一度や二度あることかと思います。私自身も実際に何回も言われたことあるのですが、これって、本を好きで読んでいる身としてはまったくお門違いな意見ですよね。こっちはただ娯楽として本を読んでいるのであって、「偉いね」なんて褒められても戸惑うばかりです。
本好きにとって、本を読むというのは知識を蓄えたいとか勉強したいとかってことじゃないですよ。結果的に読んだことで知見が広がることはあるけども、第一にあるのは「好きだから」「楽しみたいから」っていう、気晴らしであり遊び。
“ためになる”から読むのではなく、好きだから読む。中身の情報を得るためではなく、「本」を読むことによって沸き上がる思い、虚の世界を愉しむことが「本」を持つ目的。だから、中身だけが大事なのではなく、読んでもらうための見出し、装丁、文章のレイアウト、デザイン、すべてが「本」にとっては欠かせない要素。それは現在の電子書籍という紙媒体じゃないものでも変わらない。
様々な人が携わってやっと出来上がる「本」も、読まれなければ只の塵。だからとにかく読んで欲しい!
と、こういった作者の「本」への熱い思いが、「本の弔い」というかたちで描かれているのが【書楼弔堂シリーズ】なんだなぁと。本への愛がこれでもかと伝わってくる物語ですので、本好きは是非、読んで弔って下さい。
※シリーズ二作目はこちら↓
ではではまた~