夜ふかし閑談

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『望み』映画の原作小説をネタバレ紹介! 息子は被害者か、加害者か?

こんばんは、紫栞です。

今回は雫井脩介さんの『望みをご紹介。 

 

望み (角川文庫)

あらすじ

石川家は建築デザイナーの一登と、在宅で校閲の仕事をしている貴代美夫妻に、高校一年生の息子・規士、中学三年生の娘・雅の四人家族。

とくに大きな問題もなく、平穏に暮らしていた一家だったが、9月のある週末、息子の規士が夜に家を出て行ったきり連絡がとれなくなってしまう。 

最初、友達と夜遊びをして長引いているだけだろうと思っていた一登場と貴代美だったが、丸一日過ぎても帰宅せず連絡もとれない状態に胸騒ぎを覚えていた矢先、道路に乗り上げた車から少年二人が逃げ出し、残された車の中から他殺体が発見される事件が近所で発生。 

発見された遺体は規士の友人だった。  

行方不明の少年は規士を含め三人。逃走した少年は二人。そして、首謀者とみられる少年は知人への電話に「二人殺した」と言ったらしい…。

果たして規士はもう一人の犯人か、被害者か。

父として息子の無実を望む一登と、母として生存を望む貴代美。夫婦は揺れ動き、反発する。それぞれの“望み”の行く先は――。    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

加害者か、被害者か

『望み』は2016年に刊行された雫井脩介さんの長編小説。

上記のあらすじの通り、自分たちの息子が「加害者か、被害者」という状況に立たされた夫妻の苦悩と葛藤の物語りで、一登の視点と貴代美の視点が交互に描かれる構成となっています。 

「家族が何らかの事件の加害者に、被害者になる」というのは、現実にどんな家庭でも起こり得ることであり、家族の一員ならば誰もが少しは想像したことがある地獄なのではないでしょうか。自らが預かり知らぬことで今までの生活が一変してしまう恐怖と、家族への愛情と社会的立場との板挟みの末に生じる残酷な「望み」。夫妻の目を通して容赦なく、執拗に描かれて、誰もが「考えさせられる」、痛烈な作品となっています。 

 

本の紹介文に“サスペンスミステリー”とあるのですが、この物語りは「息子が犯人として生きているか、被害者として死んでいるか」の最悪な二択で揺れ動く家族の様子をひたすら追うもので、ミステリーのような仕掛けやどんでん返しを期待して読むと肩透かしを受けると思いますね。

 

しかしながら、「どっちなの?」という事柄だけで読者にぐいぐい先まで読ませる筆力は流石。他の雫井脩介作品同様に、一気読み間違い無し!な物語りです。

 

 

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映画

『望み』は2020年10月9日に映画公開予定。監督は堤幸彦さん。堤幸彦監督はコンビもののドラマシリーズや小ネタをふんだんに取り入れたコミカルでマニアックな作品が有名ですが、近年では人魚の眠る家『十二人の死にたい子供たち』

 

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などドシリアスな作品が多いですね。この『望み』も非常に重々しい原作ですので、映画もそうなることと思います。

 

キャスト

石川一登堤真一

石川貴代美石田ゆり子

石川規士岡田健史

石川雅清原果耶

寺沼俊嗣(刑事)-加藤雅也

織田扶美子(貴代美の母)-市毛良枝

内藤重彦(記者)-松田翔太

高山毅(建設会社社長)-竜雷太

 


『望み』特報予告

 

原作では息子の規士は16歳設定なのですが、映画ではもうちょっと上の設定になっていそうですね。・・・と、思ったのですが、公式サイトのストーリー紹介ですとやっぱり高校一年生となっていますね。この間のドラマで刑事さん役やっていたから驚くなぁ・・・(^_^;)。

 あと、この写真、映画『パラサイト』のポスターとちょっと似ていますね。

 

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 しかしまぁ、偶然でしょう。多分。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、ネタバレ~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父親、母親

今作は息子の無実であることを望む父親の一登と、息子の生存を望む母親の貴代美との想いのすれ違いがお話の主になっています。

 

規士の友人は激しい暴行を受けて死亡していました。「少年同士でのリンチ殺人」という非道極まりない殺人事件と世間では見做され、一登はそんな凶悪事件に息子が加害者として関わっているとは考えられず、“被害者として巻き込まれた”という方が、自分が今まで見てきた規士の人となり的に納得が出来ると、「息子は無実で、被害者だ」という考えに至る。

 

「息子を信じている」と言えば聞こえは良いですが、一登がそう望むのは息子を信じるという純粋な想いからだけではありません。今後の自分の仕事・社会的立場などを考えると、規士が被害者では“困る”という想いがそこにはあります。

仕事仲間やお客、マスコミなどから批判的な態度を取られることで一登は「息子は被害者に違いないのに・・・」とますます望みを強硬なものにさせていき、ついには根拠もないのに皆の前で「息子は被害者だ!」と声高に主張するように。

このような描写があると、一登の「信じる」という言葉はひどく薄っぺらいものに感じられます。

 

こんな夫の態度と意見に反発するのが妻の貴代美。

夫の「規士は被害者だ」という主張は、貴代美にとっては「規士が死んでいた方が良い」と言っているのと同じであり、規士の生存をただただ望む貴代美としては受け入れられるものではなく、「親なのにそんな事を望むなんて・・・」と夫を非難する訳です。

で、貴代美はというと、生きていて欲しいという想いが強いあまり「息子は加害者」という望みを妄信するようになり、息子の無実を訴えてくる規士の友達まで感情的に非難したり、息子が逮捕された後の生活のことを考えて仕事にのめり込んだり、引っ越しのことを早々に考えたり、娘の雅の受験を諦めさせようとしたりと、だいぶ暴走して先走った行動をとるようになる。

 

「生きていて欲しい」というのは分かりますが、だからといって「息子は人殺し!絶対にそうなの!」というのは、それはそれで何か可笑しい。

 

男はこうだ、女はこうだという決めつけは個人的には好きではないですが、この二人の書き分けは社会的立場を重んじる男親と、無償の愛情を注ぐ女親を典型的に表しているように感じられます。

 

 

 

 

良い子、悪い子

作中、一登が

 「もし規士がやってるんだとしたら、あいつはもう、俺らの知っているあいつじゃないってことだぞ。俺はあいつがそんなことをする子だとは思っていないし、思おうとしても、とても思えない。それでもやってるとするなら、それは俺の知らない規士だとしか言いようがない。それをしでかしたのを境にして、ここを出ていったときのあいつとは別人になっているってことだ。それくらいのことなんだ。そんなもう、俺たちの知らない人間を、簡単にやり直せるとか更生させるとか言えるもんじゃないぞ」

 と、いう台詞を貴代美との言い争いのなかで吐く。

 

殺人はもっとも犯してはいけない大罪ですが、殺人事件の大半は衝動的な、もののはずみによるものです。人は案外簡単に死んでしまうし、簡単に人殺しになってしまう。

リンチ殺人は殺人行為のなかでも特に非道で残虐なものと世間でも受け取られるし、被害者家族はとても許せないでしょうが、集団の仲間内での暴力は軽はずみなことがきっかけで発生しやすいことではあるでしょう。思春期の少年たちというならなおさらです。 

貴代美も規士が加害者だと願うばかりに「あの子は実は悪い子なんだ」と無理に思い込もうとしたり、「もともと良い子じゃなかったらこんなに苦しまなかったのに」などと矛盾したことを考えたりするのですが、そもそも良い子だとか悪い子だとか、そういうことじゃない。

 

「規士は規士よ」の言葉通り、罪を犯した瞬間に人の中身が丸々変わる訳ではないし、急に恐ろしい、まったく知らない人になる訳じゃないはずです。 

良い子だとか悪い子だとか、結局その判断は何に基づくものなのか。親の期待にどれだけ応えているかということなら、それは単に自分にとって都合の良い子ということなのではないのか。 

 

私は独身で子持ちではありませんが、子供の立場としては「そんなことするような子じゃない。信じている」という言葉より、間違いを犯した自分でも、期待に応えられる良い子になれなくっても、見捨てずに寄り添ってくれる親を求めるだろうと思う。

 

 

この物語りの最後で判明するのは、規士は被害者で、一登や貴代美があれこれ言い合っていた時にはすでに死んでいたという事実でした。 

 

お金のことで揉めている最中、もう一人の被害者の子が護身用でナイフを取り出したため、相手の二人が恐慌状態に陥って暴行の末に殺してしまったという顛末で、規士には殆んど非がなく、友人を思いやって巻き込まれただけ。

規士の死体を前に、石川家の面々は自身の身勝手な望みを恥じて罪悪感にさいなまれ、「規士に救われた」といって物語りは終わるのですが、規士は聖人のようにひたすら良い子でしたという結末は読んでいて「なんだかなぁ」と思いました。

 

酷なことですが、被害者は被害者でバッシングを受けるもので、加害者じゃなかったからといって全部が全部すんなり解決!救われた!なんて簡単なことじゃないですよね。

規士ももう一人の被害者の子も、大金を巡るトラブルが起きた時点で然るべき大人に相談するべきだったろうし、親たちは子供に相談されなかった事実を悔やむべきなのではと思う。

 

このお話は、事件が発生してから四日間ほどの、事件の詳細が何も分かってない状態での親の右往左往が描かれているものなのですが、個人的には事件発生二三日で何も分かっていない状態なら、諸々の面倒事については思考停止して、ただ安否を心配して探し回ったりしてれば良いのではと。16歳の子がいけるところなんてたかが知れてるだろうし、被害者だとしても瀕死の状態で生きているかもしれないし。

 

少なくとも息子の無実を確信して被害者の子の葬儀に乱入して「あいつもこの子と同じ被害者なんだ!」と喚いたり、「息子は加害者だ。これから世を忍んで懺悔の日々をおくるための準備をしなくては」と意気込んで仕事に没頭するのは的外れに感じる。

 

もっと言うなら、「加害者だの被害者だの、そんな話は後にしろ!息子が見つかってからにしてよ!」ですかね。

読んでいて何度もそう言いたくなった。 

個人的に妹の雅には一番感情移入出来ましたかね。あれぐらいの戸惑いやヤケクソ感が一番自然だと思う。  

 

 

 

そんな色々と思うところも含めて、とにかく家族というものを考えさせられる作品です。気になった方は是非。

 

 

 

望み (角川文庫)

望み (角川文庫)

 

 

 

 

 

ではではまた~