夜ふかし閑談

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『少女を埋める』桜庭一樹の自伝的小説集!なぜか文学界での論争に?

こんばんは、紫栞です。

今回は桜庭一樹さんの単行本『少女を埋める』を読んだので、紹介と感想を少し。

少女を埋める (文春e-book)

 

こちら、2022年1月の刊行された桜庭一樹さん初の自伝的小説集。「少女を埋める」「キメラ」「夏の終わり」の三編が収録されています。

 

桜庭一樹さんの小説作品が発売されればすぐ買っている私ですが、基本的にエッセイなどのノンフィクションものは読まない主義で、作家であれ、俳優であれ、アーティストであれ、出してくれる作品を愉しめればそれでよく、制作者の生い立ちや内面を積極的に知りたいとはさほど思わないタイプなんですよね。実際、小説は読んでいても桜庭さんが多数出されているエッセイはいずれも未読。

 

なので、最初桜庭さんの新刊小説がでるという一報に心躍ったものの、自伝的小説だと聞いて買おうかどうしようか悩んだのですが、自伝とはいえ“小説”ならやっぱり読んでおこうとなって買った次第。

 

 

表題作の「少女を埋める」は、数年前から闘病をしていた父親がいよいよ危ないと母親から連絡を受け、故郷の鳥取に帰郷する2021年2月~3月の出来事、「キメラ」は2021年5月~6月の出来事で、「少女を埋める」を発表したことで生じたトラブルの顛末、「夏の終わり」は締めくくりの書き下ろしで、騒動が落ち着いての2021年9月の日々が描かれています。

 

語り手は「冬子」となっていますが、著者の桜庭さん自身が2021年2月~9月までに直接経験したことが素材となっている小説ですね。

この時期は火の鳥 大地編』の刊行時期だったということで、作中で繰り返しこの本についての事柄が出て来ます。

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コロナ禍での病院、葬儀の様子も知ることが出来る本となっていますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

少女を埋める

表題作の「少女を埋める」は父親が亡くなり、葬儀を終えるまでが1日ずつ日を追って描かれる。

語り手の「冬子」は7年前に母親と衝突したことから、実家のある鳥取にはずっと帰らず仕舞いになっていたらしく、好きだった父親へ罪悪感を抱きつつ帰郷し、ぎこちなく母親と共に事に当たってゆく。

盛んに不満をぶつける母親と、それを静かに耐える父親という図式が強く記憶に刻まれていた冬子ですが、臨終と葬儀を経て、今まで知らなかった“夫婦”の世界、「愛」を知り、距離ができてしまった家族と故郷に思いを馳せる。

 

前半は本当にその日あった出来事をただ日記的に書く、エッセイ風味の文章なのですが、後半から追憶などが混じっての小説作品に。話に惹き付けられるのは後半に入ってからなので、作者のファンじゃないと序盤で脱落してしまう人もいるかもしれません。最初、「うーん」と思っても、なんとか最後まで読んで欲しいと思います。

 

父親を見送るなかでの出来事ではあるものの、母娘の物語が主で、そこに共同体(故郷)との戸惑いや対立が入っている印象。

母娘、田舎の共同体、といったテーマは桜庭さんの作品では度々取り上げられているもので

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特色ともいえるのですが、自身のこういった生い立ちが作品の糧になっていたのかなぁ~と知れて興味深い。

過去の記憶に関しては風評被害を避けるためかずいぶんと慎重な前置きがあってから書かれているのですが、そのぶんさほど突っ込んだ描写がないので、小説として読ませるならもっとさらけ出すような部分が欲しかったかなという気もする。

 

「家族」というのは理不尽でおかしなモノ。「どうして私の家はこうなんだ」という不満は誰でも思うことですが、でも、「家族」を「家族」たらしめているのはそういった“おかしな”部分だったりする。

語り手の冬子は論理的思考を愛する女性であり、「正論」を命綱に旧弊的な価値観や男性社会から生き延びてきた訳で、その在り方は至極正しいのだけども、論理の持ち込みは「家族」の解体に繋がってしまう。

それで冬子は危篤の父に思わず「わたしが全部悪かった」と口にするのですが、じゃあどうしていれば良かったのか。「家族」であるために我慢していれば良かったのか?己の考えを押し殺し、幸福を諦めて?

誰にもわからない、答えの出ない問題ですよね。最後に書かれている「共同体は個人の幸福のために!」という叫びがなんとも悲痛です。

 

 

 

 

キメラ

次に収録されている「キメラ」は「少女を埋める」を発表した後、新聞の書評で作品の内容とは異なるあらすじが書かれたことで、冬子が訂正を求めて奔走する物語。

訂正を求めた結果、「作品は一度発表されてしまえば読者のもの」「どのように読もうと読者の自由」「作者が書評に口を出すのはナンセンス」と、書評・文学界との論争へと大きく発展していく。

 

書評を書いたC氏の文章は、「ヤングケアラー」「弱弱介護」というテーマのために小説の内容を無理やり曲解させているのが明らかで、実際にあった出来事をもとに書いている自伝小説だからモデルに迷惑がかかるとか、書評の在り方がどうこう云々にかかわらず、著者が「主観は主観としてあらすじと分けて書いて欲しい」と訂正を求めるのは当然のことだと思う。

あらすじは小説にとっての商品説明。食品や生活用品の表示間違いと同じように、商品の説明が間違っているのなら速やかに正すべきでしょう。書評がなんだの高尚な(?)議論よりももっと前段階の話で、そんな論争になってしまうこと自体がおかしな事ではないかと思います。

 

当たり前の訂正を求めているだけなのに、なんでこんなにままならないのか、難しいのか・・・。著者の意見が蔑ろにされ、論点がどんどんズレていってしまうのが読んでいると歯がゆい。

ここにもまた、「出ていけ。もしくは、従え」という世界があるのだけども、「出ていかないし、従わない」という著者の決意と行動が勇気を与えてくれる。

最後に収録されている書き下ろしの「夏の終わり」では、複雑な心境のなかでも日々の寄り添いと安定が描かれていて、せつなくも穏やかな気持ちにしてくれます。

 

 

良くまとまった1冊になっているとは思いますが、気になってしまうのは著者とお母さんとの今後。「キメラ」での騒動の只中、怖くって自分から母親には連絡できないとあって、ま、怖いという気持ちはわかるが、「母を守るため」とSNSで奔走するよりも先に、お母さんに直接説明するべきなんじゃないかとは思ってしまう。そもそも、「少女を埋める」を発表するにあたり、お母さんとどの程度コミュニケーションをとったのだろうか。作品を発表することで、今後ギクシャクするのは避けられないよなぁとちょっと心配してしまうのですが。

 

 

この本は、著者が自身の気持ちを整理するために書いているのが第一なのかなと。この本を出したことで、桜庭さんは作家としてさらなる飛躍をしてくれるのではないかと期待もでき、悩んだけれども、やはり読んで良かったと思いました。

 

個人的には、YouTube「小嶋だよ!」チャンネルを桜庭一樹さんも好きで観ているというのがファン的に嬉しかった(^^)。私は「ストレスがないとこが良いな~」とただぼんやり思いながら観ていたのですが、作中で「時代にあわせて価値観が更新されており、パワハラモラハラもなく、お互いをケアし合う穏やかな空間だと思えた。」と、あって、「なるほど、そういうところに好感を抱いて私も観ていたのだなぁ」と、勝手に、私の想いが正しく言語化されたかのような気持ちになって嬉しかった。「大島さんの凄さがよくわかった。」というのにはいきなりで笑いましたけどね。

この本だけでなく、「小嶋だよ!」チャンネルも、オススメです(^_^)。

 

ともかく、作中でも言及されていた今後刊行されるはずの新作『紅だ!』をまた楽しみに待ちたいと思います!

※出ました!詳しくはこちら↓

 

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ではではまた~