こんばんは、紫栞です。
今回は手塚治虫さんの『WM(ムウ)』をご紹介。
あらすじ
エリート銀行員である結城美知夫には、凶悪な連続殺人犯という裏の顔があった。犯行を重ねて追い詰められるたび、神父・賀来巌のいる教会に訪れて懺悔し、逃がしてもらうといった行動を繰り返している。
結城と賀来の二人は15年前に沖ノ真船島で起こった軍の化学兵器「MW(ムウ)」の漏出事故の生き残りであり、それ以来肉体関係を伴う奇妙な関係が続いていた。
「MW」の漏出によりおびただしい数の変死体が転がる地獄絵図を目の当たりにした二人だが、この漏出事故は軍と政治家たちの手によって隠蔽され、跡形もなく処分されてしまう。
結城はこの時に「MW」による後遺症で身体を蝕まれ、良心とモラルが欠如し反社会的人格に。賀来は島で見た光景に苦しみ、神に救いを求めて神父となった。
悪行の限りを尽くす結城を救済しようとする賀来だが、結城は聞く耳を持たずに改心する兆しはまったくない。それでいて、結城は賀来を雁字搦めにするように関係を持ち、犯罪に協力させ続ける。
やがて、結城のターゲットは15年前の「MW」漏出事故に関わった人物たちに絞られていく。結城の目的は復讐か?それとも――。
前衛的な作品
『MW(ムウ)』は「ビックコミック」で1976年から1978年の間に連載されていた作品。2009年に実写映画化されたことで知っている人も多いと思います。
狂気の殺人者を主役とした所謂ピカレスクもので、残酷な殺人描写と同性愛が描かれるとあって、手塚作品の中では異色作とか問題作と謳われている物語りです。
とはいえ、この時期に「ビックコミック」で連載していた手塚作品はどれもこれも問題作だったんでは・・・と、いう気がしないでもないですが・・・(^_^;)
他、手塚治虫のピカレスクもので有名なのは『人間昆虫記』ですかね。
物語りの主役である結城美知夫は今なら“サイコパス”と世間から認知される人物。
生まれながらの悪党だとか、虐待によって精神崩壊した主役のピカレスクものは遙か昔からありますが、この作品の結城は化学兵器の毒ガスによる中毒症状で大脳がおかされ、良心やモラルをなくしてしまったという“後天的な脳疾患によるもの”だという設定が現代的。
今でこそ多く見かけるようになったものの、1970年代に「同性愛」を題材にしているというのも当時はかなり珍しいことだったのではないかと思います。「やおい」や「BL」という言葉もまだちゃんとなかった頃ですからね。(ま、この物語りの結城と賀来の関係はやおいとかBLとはちょっと違うのですけども)
現在では特別目新しい題材ではない「サイコパスの殺人者」と「同性愛」ですが、1970年代にこれらが描かれているのは作者の先見の明を感じるというか、前衛的な作品だなぁと。
私は映画化された2009年に小学館文庫(全2巻)で読みました。
他、今手に入りやすいのだと、「手塚治虫文庫全集」の全2巻と、
お高いですが、《オリジナル版》だと雑誌掲載時そのままのカラーや未収録ページ、単行本とは異なるエンディングなど完全収録されているそうです。
手塚治虫は単行本刊行時に書き直すことが多い漫画家なのですが、この『MW(ムウ)』もご多分に漏れずという訳ですね。単行本だと改訂されている手塚治虫自身が登場する番外編まで収録されているらしく、大いに気になるところですが・・・入手するのはちょっと躊躇するお値段ですな(^^;)。
エンディングは内容が大きく異なるということではなく、ページ構成やセリフが単行本版と雑誌掲載時では違いがあるらしい。
モデル
作中での「MW」ガス漏出事件はお話の主軸であり、詳細やそれによる政治的判断、国民の動きなどもかなり具体的に描かれているのですが、この事件やそれに伴う騒動には下敷きになっている実際の事件があります。それが、1969年に起こった沖縄県美里村の知花弾薬庫でのVXガス漏出事故。
被害にあったのは基地にいたアメリカ軍人二十数名とされていますが、これにより極秘裏に毒ガスが貯蔵されていた事実が明るみとなりました。
島民や国民が知らぬ間に化学兵器である大量の毒ガスが持ち込まれていたこと、「機密」だらけで詳細が分からず不審点が多いことなどで、住民を始め日本国内で恐怖や怒りの声が上がり、アメリカ軍で毒ガスの移送作戦がされることとなった事件です。
作中では漏出事故で流れ出た「MW」ガスが風によって島をよこぎり、島民八百人以上が死亡。某国と日本政府は双方の利益のために島で起こった出来事を丸々“なかったこと”として大規模な隠蔽工作をする・・・。という、よりダイナミックなお話になっていますが、致死性の高い大量の毒ガスが、民間人が多くいる場所に秘密裏に貯蔵されていたのが事実としてあったからには、この作中のような世にも恐ろしい事態も十分に起こり得るのですよね。決して荒唐無稽なことではないのです。
結城が狂気の殺人者になってしまったのは、人間が戦争のために作った化学兵器のせい。犯行を加速させた原因は国の隠蔽体質。
手塚治虫はこの作品でも痛烈な戦争批判をしている訳ですね。
男と女
ピカレスクものである今作。主人公の結城美知夫は良心というものが一切ない極悪非道の殺人者なのですが、特徴的なのが男として女性を誑かす一方で、女装・男娼などの行為を巧みに使って犯行を重ねていく点です。
結城には歌舞伎役者の血が流れていて、女性に化けるのが得意だという設定。顔も声も自分が殺した女性そっくりになりすますことが出来て、親にまで見破られないというのはさすがに無理があるだろとは思いますが、男性性と女性性を両方使えるというのは見方によっては究極の万能感であり、その万能性を持つ人物が冷酷な殺人者だというのが恐ろしくて巧妙なところ。
女と寝てた数時間後には男と寝ているという忙しさには若干呆れてしまいましたけどね・・・(^_^;)。
タイトルの「MW」は作中では毒ガスの名称として出てきますが、作品内容が暗示されているものなのではないかとされていて色々な説がある。中でも有力だとされているのがMan(男)とWoman(女)を合わせているのではないかという説ですね。結城の性別の変幻自在さを指しているのではないかと。(他に「反転」を意味しているのではないかとかいう説も)
結城は賀来と肉体関係を持っていますが、結城にとって男と関係を持つときは同性としてではなくて“女性になっている”という感覚なのではないかと思われる。本来の性別は男性だけれども、女性になることも出来る。二つの性を行き来することを、結城は戸惑いなく自身の最大の武器としてフル活用して満喫しているというか。どっちの性も当たり前に使いこなす、一つの身体の中に男と女“二つの性”が両立している人物。
なので、賀来との関係も厳密には「“同性”愛」じゃないのかも。そもそもこの二人は恋愛関係って感じともちょっと違う気が。沖ノ真船島での強烈な体験を共有したが故に、双方相手に執着している印象ですね。
結城は賀来に対しても酷いことばっかりするし、社会的に陥れようとかもするのだけど、賀来が自分から離れることを許さないし、賀来は結城さえいなくなれば自分の悩みが全て解消させる状態で、人類の為にもこんな男は自分が殺すべきなのでは・・・とか思うのだけど、いざ結城が死ぬかもという状況になると「結城!死ぬな!」と必死の行動をする。
なんにせよ、相手に対し何やかんやで愛情は強く持っているお二人。ここら辺のやり取りはこの作品の大きな見所の一つです。
映画
映画は2009年に【手塚治虫生誕80周年企画】で制作されました。
映画との連動企画で単発ドラマ『MW-ムウ-第0章~悪魔のゲーム』も放送されました。主演は佐藤健さんで、映画の数ヶ月前を描いた内容になっています。
どちらも設定も細かなストーリー展開もかなり変更されているので、原作というより“原案”レベルですね。
原作の特徴である、上記した結城の女装や男娼的行為はまったくないですし、戦争批判・単純な二元論の否定といった原作のメッセージ性も薄いので、「ただ美形が人殺ししまくる映画」といった代物。ま、クライムサスペンスとして観るならそれだけでも良いのかも。
「同性愛」の描写については、双方の役者さん事務所からはOKが出ていたものの、スポンサーからのお許しが出なかったために非常にびっみょ~な“匂わせ”をするに留められたらしい。いやぁ、時代ですねぇ。今だったら「同性愛」描写も普通にやるだろうな~。
裏設定としては映画の結城と賀来も肉体関係があるということになってはいるのだとか。いや、そんな伝わらない裏設定を出されてもだな・・・(^_^;)。
「同性愛」描写がNG なら、原作通りに実写化しろといってもどだい無理な話ですね。おかげで映画の結城と賀来の関係性はかなりボヤボヤで、観ている側は何も掴めないものになっている。
原作に比べて結城が賀来に対して「おもちゃ扱い」でドライなのがなんだか悲しかった。原作だと賀来の為に涙流したりしていたのにねぇ・・・。
他、賀来がやたら女々しくなっているのと、バンコクでの大規模ロケで張り切っているにしても、冒頭30分あまりを誘拐事件での追いかけっこに費やしているのは、いくらなんでも時間を割きすぎだろうと思いました。
しかし、玉木宏さんの悪役っぷりなどは見応えがあるので、役者さん目当てに観るなら楽しめる映画です。
以下ネタバレ~
善と悪
「MW」ガスの行方を追って残虐非道な犯罪を重ねていく結城。15年前の漏出事件の隠蔽工作に加担した人物たちを次々と殺していく姿を見て、賀来は結城が「MW」についての真相を告発し、自分たちの人生をめちゃくちゃにした連中に復讐しようとしているのだと思っていましたが、結城の目的は復讐ではなく「MW」を手に入れること。「MW」を分析して大量生産し、それを使って人類を滅亡させることでした。
結城には「MW」ガスの後遺症がまだ残っており、時折発作を起したり人事不省になったりで余命幾ばくもない。
「僕の命も長くは持たないだろう 僕が死んでしまえばもうこの地球なんざ用がないよ だから全人類に僕につきあって死んでもらうんだ」
と、この最終目的の為に手段を選ばずに色々する様が描かれているのがこの作品なのですね。
「そんな そんなバカな」「こいつはもしかしたら完全な狂人なんだろうか?」
賀来が言うように、結城は完全な狂人。この圧倒的理不尽な希望による行いは、悪魔というよりむしろ神の所業に近い。
結城に惚れこんでしまった女性・澄子が作中で言う「悪魔も神さまも結局 同じものなんじゃないのかしら?」というセリフが印象的。
結城のような狂人が出来上がってしまったのは、人間が作りだした兵器のせい。人間は、人間が作り出した物によって自滅の道を進む馬鹿な生き物ということなのか。では、「悪」とは一体何なのか。
この作品は「男と女」「善と悪」といった“境界の曖昧さ”を結城と賀来の関係を通して描くのが目的の作品なのだと思います。単純な二元論思考の否定がテーマ。
ラスト、結城は自分にそっくりな兄と入れ替わることで死を偽装。(ぶっちゃけ、“そっくりな兄”が終盤で登場する時点でこのラストはお察しなところがありますが・・・^_^;)警察や世間をまんまと騙し、ニヤリと笑うところで終わっています。
これからまた新たな悪巧みを企てるのですね~と、匂わせての終わり。
個人的に、こういった本当の結末をぼかす終わり方は好きではないのですが、このラストもまた“綺麗で分かりやすい結末”の否定で、「現実の物事は物語りみたいに綺麗に決着がつくものではなく、曖昧なものなんだよ」って示しているのかな?と、後々になって思った次第。(最初読み終わった時は、ひたすらモヤモヤして「終わってないじゃん!」って感想ばかりだった)
手塚治虫の描く「同性愛」と「悪」、気になった方は是非。
ではではまた~