夜ふかし閑談

夜更けの無駄話。おもにミステリー中心に小説、漫画、ドラマ、映画などの紹介・感想をお届けします

去年の冬、きみと別れ 映画 ネタバレ感想

こんばんは、紫栞です。
映画『去年の冬、きみと別れを観てきました~。

去年の冬、きみと別れ (初回仕様) [DVD]

原作本の紹介はこちらの記事で書きましたが↓

 

www.yofukasikanndann.pink

 

今回は映画の感想や、実際に映画を観てわかった原作と映画との違いをまとめたいと思います。

 

 

映画の感想
率直な感想としましては、映画、良かったです。
“すべての人が罠にハマる。”
という触れ込みでの映画でしたが、原作を読んでいる人でも面白く観られるように上手くストーリーの作り替えがされていて「なるほど。そうきたか」って感じで唸り声。原作を未読の人よりかえって読んでいる人の方が、驚きやストーリー構成組み替えに感心するかも知れません。
もちろん未読の人は未読の人で、思い込みとか無しに純粋にストーリーを楽しめるから、真っさらな驚きがあって良いとも思いますけど。
役者さんの演技も皆さん印象深くって良かったです。良い役者と脚本が揃えば、良作は出来るのですよ。残念ながら揃っていない作品が多いですけどね・・・。

 

以下がっつりとネタバレ~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

原作との違い
映画のキャストは以下の通りでしたが↓
耶雲恭介(記者)―岩田剛典
木原坂雄大(殺人事件の容疑者)―斎藤工
松田百合子(耶雲の婚約者)―山本美月
小林良樹(編集者)―北村一輝
木原坂朱里(雄大の姉)―浅見れいな
吉岡亜希子(被害者)―土村芳

実は、この公式サイトなどで書かれているキャスト紹介自体に、原作を読んだ人間への罠が仕込まれています。


原作での真相は
「吉本亜希子」の元交際相手である「編集者」が、彼女を死に追いやった木原坂兄弟に復讐するべく、偽物を用意して「小林百合子」として「朱里」を殺害、「雄大」にその罪をなすりつける――と、いう計画と実行の記録を“「編集者」がつくる本が好きだった”と言っていた「吉本亜希子」に捧げるべく、そして死刑になる「雄大」に真相を知らせて復讐を完結させるため、ライターの「僕」を利用して『小説』をつくった。
つまり、読者が読まされていたこの本『去年の冬、きみと別れ』が「編集者」がつくったその本でしたというのがお話のオチ。

なのですが。


原作では百合子の旧姓は「栗原」。上記のような“死人入れ替わり工作をするために「編集者」と形だけの結婚をして(死体の身元確認を「編集者」が夫として確認すれば、天涯孤独の百合子の死の偽装が容易になるため)、「栗原百合子」から「小林百合子」になる。原作では解りやすく「編集者」が自身の名を名乗る場面がないのですが、この部分から「編集者」の名前・名字は“小林”なんだなとわかる訳です。


原作を読んだ人間はこの前知識があるので、映画で小林良樹(北村一輝)という役名の編集者が、原作で犯人にあたる「編集者」なのだろうと普通に考えてしまうのですが、これがミスリードでして(あくまで原作を読んだ人にはって話しですけど^^;)、実は原作での主人公「ライターの僕」にあたるのだと思わせていた記者の耶雲恭介(岩田剛典)の方が、原作での犯人「編集者」なんですね。
小林良樹は木原坂兄弟の強力者で、お話の後半では事件の謎を追求する役割となっています。


つまり、映画では原作の「ライターの僕」がしていた事件の追及を小林良樹がしており、犯人の「編集者」を記者の“ふり”をしていた耶雲恭介がしています。

このように小林良樹と耶雲恭介の二人の役割を入れ替え、さらに事件経過の時間軸を入れ替えることで観客を騙す仕掛けがされています。※時間軸の入れ替えを匂わせる伏線もちゃんとありまよ。

 

原作を読んだ人間はお話の中盤あたりでの小林良樹の部下のセリフ
彼のプロフィール、まったくのでたらめでした。本名は中園恭介。一年前まで金沢の小さな出版社で書籍の編集者をやっていました」
で、この映画に施された仕掛けに気が付くかと思います。賢い人はもっと早い段階で解るかもですが。

 

この映画の見事な点は、大幅に改変していると見せ掛けて、人物二人の役割と時間軸の入れ替えを変えただけで大まかなストーリー自体は原作のままだというところだと思います。

私も映画観ている最中は「やっぱり、だいぶ改変してるな~」と思っていたのですが、真相部分を観終わった後は「あ、こんなに原作のままなんだ」と妙に感心しました。
小説ならではのトリックを、少しの工夫で映像でも驚ける仕掛けに進化させているのは凄いなぁと。しっかりと原作を尊重しつつ、映画ならではの見せ方の面白さが出来ている優れた映像化作品だと思います。

 

 


イニシャルの変更
原作では若干わかりにくかった献辞のイニシャル箇所ですが、映画ではわかりやすく変更されていましたね。映画では
二人のYKへ
そしてAYに捧ぐ
になっていました。
YKは木原坂雄大(斎藤工)と小林良樹。AYは吉岡亜希子(土村芳)ですね。

 

 


純愛?
映画の触れ込みには“純愛サスペンス”ともあります。犯人「編集者」の吉岡亜希子への思いをさして“純愛”と言っているのでしょうが、はたしてこれは純愛なんだろうか・・・とチト疑問に思ってしまうのが正直なところ。


原作では木原坂朱里(映画では浅見れいな)に


あなたは心配するために彼女を好きになったの。


と、核心を突くことを「編集者」に言うシーンがあるのですが、映画ではこのセリフが省かれていました。映画では盲目の吉岡亜希子を心配するあまりに四六時中観察するようになってしまった恭介は亜希子に別れを切り出されてしまう訳ですが、原作では「編集者」の行動はもっと執拗でストーカーじみたものでした。映画では“純愛”を強調するためか、軽めの描写になっていたと思います。


純愛ウンヌンはどう感じるかは人それぞれですかね。原作で朱里が言うセリフはもっともな事だとも感じます。相手への執拗なまでの愛情は結局のところ自己愛に通じているというか。個人的には原作の「編集者」も、映画の恭介も、犯行自体はただの自己満足なんじゃないかなぁと思いますが。復讐するにしても「彼女に捧げる」とか違うだろって感じ。

 

なにはともあれ、原作の

去年の冬、きみと別れ、僕は化け物になることに決めた」

が映画でもしっかりと描かれていて良かった。

 

原作を読んだ人に是非観て欲しい映画でしたし、原作知らないで映画観た人は是非原作読んでみて欲しいです。映画観た後でも小説は小説でまた別の面白さや違いを楽しめると思います。「ほうほう、こうなってたのかい」って感じで(^^)
原作と映画、セットで味わって欲しい作品ですね。
ミステリやサスペンスが好きな人、気持ちよく騙されたい人にオススメです。

 

※原作のネタバレ記事はこちら↓

www.yofukasikanndann.pink

 

 

 

去年の冬、きみと別れ (幻冬舎文庫)

去年の冬、きみと別れ (幻冬舎文庫)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ではではまた~

『ヒトごろし』京極夏彦が描く 新選組・土方歳三の血塗られた生涯!

こんばんは、紫栞です。
今回は京極夏彦さんの『ヒトごろし』をご紹介。

ヒトごろし


今年に入ってからの新刊。京極さんは作品が長大なので有名ですが、単行本で1000ページ越えの新作は久し振り。『嘘実妖怪百物語』とか、3冊に分けての分冊でしたしね。長すぎたからなんですけど(^^;)

 

ハードカバーで1000ページ越えは迫力ありますね。その姿は完全に辞書。立ち読みや持ち歩きには当然適さないので、自宅で机に本を置いた状態で集中して読むのがオススメ・・・と、いうか必然的にそうするしかない(^^;)横になりながら読んだりするのも色々と危険ですので注意。
ファン以外には売る気ないだろってな装丁。この攻めの姿勢、良いと思います(笑)

 

※本を置いた状態なら、ページはめくりやすくって戻ったりもしないし、読みやすいですよ~。

 

 

 

 

※2020年に文庫版出ました。文庫だと全2巻です。

 

 

そして、只今「三社横断 京極夏彦新刊祭」開催中。この新潮社の『ヒトごろし』と、講談社鉄鼠の檻 愛蔵版』と、角川の『虚談』の各単行本の帯についているパスワードを全て集めると2018年11月30日までの期間限定サイトで【百鬼夜行シリーズ】の書き下ろし新作短編が読めます。しかもその短編作品の内容は『ヒトごろし』『虚談』の二作品ともリンクする内容。京極ファンは黙ってやり過ごせない祭りですねっ!

 

※このキャンペーンの短編は後に文庫化されました。詳しくはこちら↓

 

www.yofukasikanndann.pink

 

私はいまだに『鉄鼠の檻 愛蔵版』の実物を肉眼で拝めてないのですが(田舎なので本屋に置いてない)、こちらもハードカバーで1000ページ越え仕様なので、『ヒトごろし』と同じくド迫力なハズ。

 

 


あらすじ・概要
青い空に、真っ赤な血柱が上がった。
それは女の肩から噴き上がっていた。
こんな綺麗なものは見たことがない。

擦り剥けば血は滲む。
切れば、血は垂れる。
傷が深ければ流れる。
でも。
こんなに高く噴き上がる程、人の身体の中には血が流れているものなのだろうか。
飛沫が光って見えた。
淵に落ちる瀧の飛沫よりずっと綺麗だった。
そして。
そのきらめきの中、もっとずっと強く光る物を歳三は見た。

土方歳三は幼少の頃、姉に手を引かれて道を歩いている最中に武家の女が侍に斬り殺される場面に遭遇する。その時に目にした光景が頭から離れず、歳三は「人殺し」に囚われてく。
どうしたら人を殺せる身分になれるのか――。

肚に溜まった黒い想いに駆られ、人でなしの人殺しとして生きる歳三の行着く先とは。
激動の幕末で暗躍し、血に塗れた男の一生。
殺す。
殺す殺す。
殺してやる――。

 

 

 

 

 

 

新選組
この『ヒトごろし』は、新選組の副長・土方歳三が主役の歴史小説お話は終始、土方歳三視点で語られています。
新選組結成から芹沢鴨の粛清、池田屋事件山南敬助の脱走、油小路事件、新選組の解散から戊辰戦争・・・
などの、新選組内での有名(?)事件が描かれ、登場人物も
土方歳三以外に局長の近藤勇沖田総司斎藤一永倉新八藤堂平助、原田佐之助、伊東甲子太郎佐々木只三郎、山崎丞・・・
などなど。新選組ものではお馴染みの面々がしっかりと登場。
読めば新選組の歴史を一通り知ることが出来ます。

※ちなみに、この小説では山南敬助の「山南」は“さんなん”と読ませています。調べたところ、“やまなみ”とどちらの読みが正しいのか確かなことは不明なのだとか。一般的には“やまなみ”の読みの方がドラマや漫画では使われているので、人によっては違和感あるかもしれません。

 

幕末、特に“新選組もの”は絶大な人気のある題材で、度々ドラマ・漫画・小説などの各媒体で取り上げられていますよね。
私自身、新選組のことはドラマや漫画からの、トビトビで、ボンヤリとした知識はある程度ですがありました(ドラマや漫画も一から十までちゃんと観たことはないんですけどね^^;)、コレを読んで今は(一時的に)詳しくなっています。普段は歴史小説って全然読まないのですが、小説でストーリーを追いながらだと、教科書を読むより頭に入りやすくって良いですね。歴史の授業が苦手な学生は勉強法に取り入れると良いかも(私は学生じゃないのでアレですが・・・)。

京極さんは今まで、小説内に脇役で歴史上の人物を登場させることはありましたが

※『書楼弔堂』とか。『書楼弔堂』には勝海舟が登場しますが、この『ヒトごろし』にも出て来ます。京極さんの小説は世界観がすべて繋がっているので、同一の(?)勝海舟だと思って差し支えないかと↓

 

 

www.yofukasikanndann.pink

 

主役にして真っ向から歴史小説を書くのはこれが初。
戦闘能力が高くて行動力ある人物が主役なのも珍しいので(京極作品は口先でなんとかする主役ばっかですからね・・・^^;)かなり新鮮です。


ファンとしては「京極さんが歴史小説!しかも新選組なんて大人気コンテンツを書くだとぅ!?」と、一報を聞いたときには驚いた訳ですが。やはりそこは京極夏彦、通常の歴史小説で描かれる新選組の“ソレ”とはだいぶ趣が異なります。

 

 


人殺し集団
この『ヒトごろし』ですが、どんな小説か一言で説明するなら、
新選組の副長・土方歳三が、人殺し好きの、人が殺したい人でなしの人外(にんがい。今でいうサイコパスになるんですかね)だったとしたら。の、仮定で土方歳三の生涯、新選組の歴史を再構成した小説。

なので、新選組ものではおきまりの忠や義を熱く描く描写はありません。忠や義も愚か者の戯れ言だという風に描かれています。もう新選組ファンに喧嘩売ってるような内容で、登場人物達も通常の新選組もので描かれている姿とはまるで違います。特に沖田総司なんて、美少年設定は皆無の「溝鼠」で、殺し大好き人間として、それはそれは腹立つように描かれています(^^;)。


天下国家も、出世や金や名誉もどうでもいい。忠も義もない主人公の歳三が“人殺しのため”に新選組を作り、暗躍する姿を描いておりまして。
鬼畜の人外いっても、歳三は考え無しに滅多矢鱈に殺してまわる無法者ではなく、小説内の言葉を用いるなら「几帳面な人殺し」
“人殺し”をするために法の網を潜るのではなく、法を利用して、合法的に、誰にも咎められることなく人殺しをする。
ここら辺の算段の過程は読んでいると何だかミステリちっくでもあります。

 

元々、新選組は浪士組で血気盛んな不良が多く集まっていた集団。既存の作品ではその時代独自の思想、忠や義で覆われていて「そんなものだったのかな」と思ってしまいがちですが、内部抗争や粛正を繰り返して敵よりも味方を多く殺している集団なんて、いつの時代であってもまともな集団であるはずがない。普通に考えるなら。なにが「誠」だよ、ですよね。
この小説では「そういう時代だったから」の思想を省き、忠義や正義、武士道などの大義名分で平気で人を殺したり、自ら命を落す行為を批判的に描いています。なので新選組の活躍自体も、単に“殺人行為”として美化も誇張もなく示されています。

 

 

 

 


良すぎる
このような内容の小説なので、新選組ものとはいえ泣くようなことはないなと思っていたのですが、が、・・・・・・私、最終的にボロ泣きしてしまいました(T_T)


しかし、おかしな話ですが泣いている私自身、何故泣いているのかよくわからないんですよね。とにかく読んでいたら目から水が出てきたみたいな(笑)はたしてどういう感情から泣いているのか・・・。とりあえず、まぁ凄かった。
いつもは新刊読み終わったらすぐにこのブログに記事書くようにしているのですが、思い出すと泣けてくるし、記事を書くにも打ちのめされて考えをまとめる事も出来ないしで、落ち着くまで書けませんでした(^_^;)

 

終盤以外にも本全体が時間を忘れさせる面白さです。もうですね、時計見る度に「え?ワープした?」と何度バカみたいに真剣に思ったことか。
1000ページ越えの作品ですが、短く感じます。私は時間的都合で読み切るのに三日かかりました(ホントは一日で読み切りたかったんですけど・・・)。全10章ですが、私個人は1章に2時間ほど毎回かかっていましたね。体感的には1時間なんですけども。私は読むのがだいぶ遅い人間なので、普通の人なら20時間かからずに読破出来ると思います。(と、目安になるかどうかわかりませんが記しておく笑)
極上の読書体験でした。ともかく、メチャクチャ面白くって素晴らしいので本の厚にビビって躊躇せずに、手にとって読んで欲しいですっ!

 

 

 

 

 


『ヒトでなし』との繋がり
こちらの記事でも書きましたが↓

 

www.yofukasikanndann.pink

 

この『ヒトごろし』は【ヒトでなしシリーズ】の一編、前段という位置づけ。


『ヒトでなし 金剛界の章』に出て来る名なしの宗派のお坊さん・荻野了湛(おぎのりょうたん)が登場。諸国を巡って人でなしを捜す修行をしているとかで、人でなしの人殺しである歳三に接触してきます。


「(略)人は人を救えねえのさ。人を救えるなあ、人でねえものだからよ」


と、『ヒトでなし 金剛界の章』と共通のセリフが出て来ます。「ヒトでなし」という単語も作中で何度も繰り返されていますね。
『ヒトでなし 金剛界の章』では「仏の道は人の道にあらず」と語られていますが、本作では

「誠の道はの、天の道じゃ。そら、人の道じゃねえのだよ。人が歩くには難儀な道だ。苛烈な道だ。そこには情けも容赦もねえのだ。誠の道を歩くのは、人には無理なことなのだ。その道を歩くのは人ではなくて」
ヒトでなしだよ

と、新選組の「誠」の旗を見ながら言う場面があります。ここら辺の部分はなるほど【ヒトでなしシリーズ】の前段なんだって感じますね。

単体でも面白く読めますけど、やっぱりあわせて読むとより楽しめますよ~

 

 

 

 


創作部分
この荻野了湛と、歳三に和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)という刀をくれる女・(りょう)の二人は完全な京極さんの創作キャラクターですね。


この和泉守兼定は実際に土方歳三が使っていたという愛刀ですが、誰からどのような経緯で手に入れたのかは不明とのこと。小説ではこの不明部分に創作が施されて独自の味付けがされているのですね~。素敵だ~。ちなみに、この小説内でまともに登場人物の一人として挙げられる女性はこの涼のみです。


了湛と涼の二人は作中の所々で登場します。出番はそこまで多くないのですが、終盤はこの二人が大いに関係してきますね。
歴史的事実を解釈違いで書いている箇所の面白さはもちろんですが、やはりこの作者のオリジナル部分が凄く良いです。人によっては新選組ものに女性が強く関わってくるのは好きじゃないって方もいるでしょうけど、私はこの涼が絡んでくる部分が大好きです。了湛もいいキャラしてて好きですね~(^^)

 

 

 


「ヒトごろし」のこと
この『ヒトごろし』は、新選組の結成から解散までの歴史が中心の小説ですが、描こうとしているのは新選組ではなくって、あくまで「人殺し」のこと。
なので終盤、威信戦争に入ってからの新選組隊士たちの死などはさほど詳しく書かれていません。さらりと歳三の語りで済まされてしまっています。
隊士たちはいずれも個性豊かに印象深く描かれていたので(私は佐之助が好きでした)、死に様がサッサと語られて終わりというのは何だか寂しくて残念に感じてしまいますが、まぁ新選組がメインのお話ではないのでしょうがない。タイトルだって『ヒトごろし』ってだけで、新選組を匂わせるサブタイもなにもついてないですからね。
山崎の死に際は少しクローズアップされていますが、それだって山崎がヒトでなしのヒトごろしだから。

 

主人公の歳三以外にも、人でなしで人殺しの「人外」が多く登場します。

人を殺すのが愉しくってしょうがない沖田総司や、人を陥れるのが好きな山崎丞、金の為なら何でもする吉村貫一郎などなど。吉村貫一郎浅田次郎の『壬生義士伝』で有名ですよね↓

 

 

 

読んでいると新選組“人斬りが出来る仕事”だと思ってこういう輩が集まるのは必然かもなぁと読者に思わせるあたりが巧みなところ。「人外」ではないですが、この小説で描かれている藤堂みたいな、何かにつけてうるさく宣う目障りで役立たずの若造も「いそ~。いたんじゃない?」と、勝手にリアリティを感じてしまいますね。

 

沖田は歳三との対比で度々出て来ます。二人とも“人殺しがしたい”「人外」なんですけど、主役の歳三は確かに凶悪な男で恐ろしさは感じるんですけども、あまり「腹立つ」とか「ゆるせん」とか読んでいても思わないんですよね。むしろ魅力的に感じさせるとこもある。沖田に対してはすんごいムカムカするんですけども(笑)


これはおそらく、同じ“人殺し”でも、歳三は愉しんでいないんだけど、沖田は愉しんでいるからって違いかと・・・。
『塗仏の宴』思い出しますねぇ。

 

www.yofukasikanndann.pink

 

 

 

 

 

 

以下ネタバレ~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦争とヒトでなしと


歳三は人殺しだ。人を殺めるのを好み、人を害することが止められない人外だ。だが、これまで人殺しでいるために歳三が払ってきた代償は限りなく大きいのだ。
歳三は人殺しでいるために、何もかもをかなぐり捨て、持てる限りの知と能とを駆使し、命懸けで臨んで来た。人殺しは決して許され得ない大罪であるということを、十二分に知っているからである。
それが――どうだ。
次次と、簡単に死ぬ。四半刻で十五人が死ぬ。塵芥のように死ぬ。
命がそんなに軽いものなら、歳三の苦悩や苦労は何のためにある。

 

上記はお話の後半、戊辰戦争真っ只中での歳三の心中のぼやきです。
歳三は人殺し好きの「人外」ですが、戦争が大っ嫌い。戦争だと人は兵隊・ただの道具に成り下がり、命はゴミのように軽んじられる。あまつさえ自ら喜んで死ぬような輩まであらわれる。「人」ではなくなってしまう。
思い込みや過剰な理、情を持たないヒトでなしの歳三だからこそ、大義名分などのために簡単に人が死んでいくような状況はおかしいと、誰よりも解る訳です。
戦争の中では
“人外の歳三の方がずっとまともに思える”
のですね。

“理屈を付ける必要はない。理屈を優先するなら、人など殺さずとも良いことになる。殺し合いなどせずとも世の中は変えられる。”

 

“どうであれ、人を殺さぬ道を選ぶべきだったのだろう。”

 

“人の死は、遍く無駄死にだ。”

 

この小説では強い戦争批判と。そして何より、いつの世の、どんな状況下であろうとも「人殺しはしてはいけない」「思い込みで命を捨てるのは莫迦な行為だ」ということを訴えているのですね。

 

 


ラスト
最後、戦場に涼が来ていると了湛に知らされた歳三は、涼との約束「その気になったら斬り殺してやる」を果たすべく、馬に乗って駆けていきます。

涼が向かっていたのは激戦地。あんな処に行けば流れ弾に中たるか大砲で吹き飛ばされるかして死んでしまうが、それはよろしくないなと“その気”になって、女一人を殺すために銃弾が飛び交う中、危険を顧みずに激走します。
涼は歳三と同じものを見て、同じことを感じ、そして歳三に人を斬る刀をくれた特別な女。歳三は自分の大っ嫌いで穢らしい“戦争”に、どうしても涼を“とられたく”なかったのですね(-_-)

 

馬に乗って駆け、人をバッサバッサ殺しながら、歳三はこれまでの「ヒトごろし」を追想していき、その追想は最終的に歳三の「ヒトごろし」の始点、幼少期に姉に抱かれながら袖の隙間から見た場面へと終着します。

この終盤の“その気”になって駆け出してからラストまでの部分はもう、圧巻です。凄いっ(>_<)そして、ホントのラスト。なんって完成されたお話なんだ・・・!との感服もあり・・・。あああ~とにかく、いろいろと脱帽です。

「私は、やっぱり、京極作品が、好きだぁ~!」

と改めて再確認出来た小説でした(笑)

 

 


厚くても読んでよ
新選組を題材にした小説・ドラマ・漫画などに思い入れが強い方は、読むと戸惑いを感じるかも知れませんが、これは「人殺し小説」なんだと割り切って楽しんで欲しいです。新選組に詳しい人の方がより楽しめる部分はいっぱいあると思うので。
京極ファンはもちろんのこと、歴史小説が苦手な人にもオススメ。いろんな人に読んで欲しい作品です。

 

 

 

 

 

ではではまた~

 

 

www.yofukasikanndann.pink

 

「命売ります」 ドラマ 感想

こんばんは、紫栞です。
BSジャパンで放送されていた連続ドラマ『命売ります』、最終回を迎えましたね。

命売ります (ちくま文庫)

このドラマの原作本である三島由紀夫の小説『命売ります』については前に当ブログでまとめましたが↓

 

www.yofukasikanndann.pink

 

今回はドラマを最終回まで観終わっての感想を少し。

 

ドラマ全体の感想としては、「しっかりしたドラマだったなぁ」という印象です。万人受けとかは狙わずに、独自の雰囲気を貫いたまま最後までやりきったって感じですね。
毎回、羽仁男(中村蒼)の命を買いに依頼人が来てウンヌンという形式でのドラマでしたが、結局、原作のストーリーにそってのお話は一話二話までで、それ以降は完全にドラマオリジナルでした。最初の方にあったお色気路線も四話目ぐらいからはもう鳴りを潜めていましたね(笑)

 

 


現在設定として
原作は1968年(昭和43年)の作品でその当時の時代背景が描かれ、ストーリーにも影響していますが、ドラマ版は時代設定が現在に直されているので、依頼内容も現代社会ならではのものが多かったですね。第五話のブラック企業のお話などはまさに現代ならでは。全10話ということで、原作よりも依頼人の数もレパートリーも様々で、依頼人達の「命を売る人間をどう利用するか」の悪知恵の仕方をブラックユーモア的に、滑稽に、愚かに、面白く描いていました。
原作とは違い、ストーリー全体にネットやSNSが大いに関係してくるのも現在ならではですね。まぁ、現在設定のドラマではもはやネットやSNS抜きのストーリーは不自然なのかも知れないですが。

 

 

 


原作と違うところ
原作とドラマは違うところだらけですが、特に一番大きな違いとしては、原作はハードボイルドなドタバタ劇だったのに対し、ドラマは各依頼人達の事情や心情に強いスポットがあたっていたところですかね。思想的な部分などが強めでした。


原作はですね、終盤はもうハチャメチャな展開するんですよ。
秘密組織・ACA(アジア・コンフィデンシャル・サービス)という胡散臭い組織がお話に関わり、大使館の暗号解読をしたり、「お前警察のスパイだろ」と勘違いされて消されそうになり、太腿に小さな針の発信器仕込まれたり・・・・・・。


かなり荒唐無稽でユーモラスな展開をします。(几帳面に伏線張られているし、造りはだいぶ凝っている話なのですけど)こんなB級スパイ映画みたいな話の中で、主人公の羽仁男の心境の変化が真剣に描かれているのがチグハグで面白いところなんですが。

 

ドラマではネットなどに情報が出回ったせいで羽仁男の命が狙われるといった展開になっていましたね。同じ命を狙われるにしても、原作と比べるとかなり現実的で情報化社会の怖さみたいなものが漂っていました。
そして、羽仁男の命を利用しようとする依頼人達が皆、天罰をうけるかのように破滅したり死んでいってしまったりで、終盤はそのことに羽仁男が苦悩する展開。
“他人の命を利用しようとするような奴はどんな大義名分があろうと愚か者だ”
という思想が各話で示されていました。

最初の依頼人である老人(ドラマでは岸宗一郎という名前で田中泯さんが演じていました)が後半で再登場するのは原作と同じですね。この老人の立場はだいぶ異なるんですけども。

 

 

最後
原作は命を狙われ、死の恐怖におびえる羽仁男が警察に駆け込むも、冷たくあしらわれてしまう・・・という場面で終わります。
ドラマでは改心して真っ当に生き始めようとしているところに、老人が命がけのゲームを持ち掛けてきて・・・・・・でしたね。人間椅子の主題歌が流れて終わり。

 

命売ります?BSジャパン 連続ドラマJ「三島由紀夫 命売ります」主題歌ver

命売ります?BSジャパン 連続ドラマJ「三島由紀夫 命売ります」主題歌ver

 

 


原作同様、何とも言えない終わり方でしたが、「羽仁男が改心しました!めでたしめでたし」で終わるのもこのドラマには似合わないので、このような形になったのかなと。原作のラストを反映させた結果かなとも思います。

 

あと、ドラマはくん(前田旺志朗)や喫茶店の二人(YOU田口浩正)が最後まで羽仁男と一緒にいてくれて良かったなぁと。原作だと最後、羽仁男は孤独に戦っていたので・・・(^^;)

 

 


原作の持ち味や設定をいかしつつ、上手く現在設定に直して、原作とはまた別の独自の面白さのあるドラマに仕上がっていたと思います。原作を読んでいても十分楽しめるドラマでした。
ドラマ観て気になった人は是非原作も読んで比べてみて下さい。

 

命売ります (ちくま文庫)

命売ります (ちくま文庫)

 

 

 

www.yofukasikanndann.pink

 

ではではまた~

 

 

命売ります

命売ります

 

 

『ヒトでなし 金剛界の章』続編や『ヒトごろし』との繋がりなど 京極夏彦新シリーズ!

こんばんは、紫栞です。
今回は京極夏彦さんの『ヒトでなし 金剛界の章』をご紹介。

ヒトでなし 金剛界の章

 

あらすじ・概要
俺は、ヒトでなしなんだそうだ。
娘を亡くしたことをきっかけに職を失い、妻に捨てられた。帰る家もない。金もない。何もかも、本当に何もかも一度に失ってしまった。俺は何も持っていない。捨てるものは何もない。だから未練も執着もない。あるのは命だけで、これが中中なくならないから仕方なく生きている。


「俺はヒトでなしだからな」

 

そう呟く男のもとに、破綻者たちが吸い寄せられる。
金、暴力、死、罪。彼らが求めているものはいったい何なのか?

人を救えるのは、人でないものだけだ――

 

 

 


分類不要・予測不能のエンターテインメント小説
こちらの本、単行本の帯に
◎この書は、ヒトでなしの、ヒトでなしによる、ヒトでなしのための、犯罪小説であり宗教小説であり諧謔小説であり、そしてなにより。前代未聞のエンターテインメント小説である。
と、まぁこのように書いてある。
この、得体の知れない感じ。気になるでしょう?(笑)

当ブログでは、小説の紹介記事は必ずある程度のあらすじを書くようにしているのですが、今回はあえてぼかしまくり。それというのも、この小説は是非、前知識はなしの真っさらな状態で読んで欲しいからです。お話の大まかな筋を知ってしまうと、楽しさが減ってしまうと思います。非常に勿体ない。

 

この『ヒトでなし』は、京極さんの作品の中でもかなりジャンル分けが難しい小説ですね。ミステリじゃないし、ファンタジーじゃないし、ホラーや歴史ものでもない。読み進めていく中でも展開の予測はほぼ不可能です。十一話収録されていますが、一話毎のパターンなども皆無。しかし、読み終わってみると計算し尽くされた“かくあるべき”な展開をしている小説なのだとわかる。さすが京極夏彦。感服の至りですね。

 

※文庫はこちら↓

 

 

 


新シリーズ開幕
この『ヒトでなし』はシリーズものです。まだ一冊しか刊行されてないですけど。「金剛界の章」とついていますからね。別の章があるんだろうと予想出来る訳です。


金剛界”ってなんぞ?
と、思う人も少なからずいるでしょうが。
金剛界とは仏教用語で、密教における二つの世界の一つ。仏の強固な智慧の世界を示すもので、真言宗では“男性”を表す。これを図示したものが「金剛界曼荼羅」。一般的には曼荼羅で有名というか、聞き覚えがある人が多いと思います。
そして、「金剛界」とは対をなすものが胎蔵界で、二つの世界のうちのもう一つ。こちらは仏の理性の面をいい、仏の菩提心がすべてを包み育成するさまを母胎にたとえたもので、真言宗では“女性”を表す。これを図示したものが「胎蔵界曼荼羅」。よく蓮華が描かれているアレですね。
また、「金剛界」では真理を“精神”として捉え、「胎蔵界」では“現象”として捉えている・・・等々、ウンタラカンタラ・・・・・・
調べ出すと頭が痛くなってきますが(^^;)


まぁ出家している訳でも、研究している訳でもない人間には完全に理解することはかなり難しい。今、調べて書いている私も解らないですから(笑)
これら密教真言宗の説明は狂骨の夢でも出てきます。京極堂が説明してくれますよ↓

www.yofukasikanndann.pink

 

 

 

 

続編
とにかく、はっきりと言える事は『金剛界の章』があるなら、当然『胎蔵界の章』も書かれるのだろうという事です。なので、シリーズ次作は『ヒトでなし 胎蔵界の章』と、いうタイトルでしょう。作者の京極さんもインタビューで「胎蔵界あります」と仰ってましたし。
インタビューによると、この小説は当初の予定では尾田(今作の主人公)の視点と、尾田の奥さんの視点とで交互に描くつもりだったものを切り離してこのような形になったとのこと。
なので、次作『ヒトでなし 胎蔵界の章』(仮)では尾田の奥さんが主役のお話になるのかなぁ~と思われるのですが・・・しかし、今作の終わりからどのように奥さん視点の話に繋げていくのかはさっぱり予想がつかないです。今作では奥さんは尾田の回想部分で触れられているだけで、お話には直接登場していないのですが・・・。まぁ奥さん視点じゃないにしても、「胎蔵界」なら“女性”視点にはなると思われるのですけども・・・・・・う~ん。気になりますねぇ。
続編、待ち遠しいですっ(>_<)

 

 

 


『ヒトごろし』との繋がり
2018年に、『ヒトごろし』という本が刊行されました。

 

 

同じ新潮社からの刊行だし、タイトルからして『ヒトでなし 金剛界の章』の続編なのかと思ってしまいますが、こちらは新選組土方歳三が主役の歴史小説
『ヒトでなし』は現代が舞台だし、登場人物達もすべて架空のフィクションなので、概要をきくと全然接点のないものだと感じますよね。私も連載当初、概要をきいたときは「えぇ?どういうこと?何故このタイミングで歴史もの?」と困惑たものでした。
『ヒトごろし』は、『ヒトでなし 金剛界の章』の“続編”ではないです。
じゃあまったくの別物かというとそうではなく、『ヒトごろし』は【ヒトでなしシリーズ】の一編、前段といった位置づけになります。
具体的な繋がりとしては、『ヒトでなし 金剛界の章』のお話の後半に出て来る宗派のお坊さんが登場する点ですね。
そして読んでみると、お話の全体に『ヒトでなし』で語られ、描かれた思想が漂っていることがわかる。なるほど、【ヒトでなしシリーズ】の一編なのだと納得。
『ヒトでなし 金剛界の章』を読んでいた方がより楽しめると仕掛けではありますが、作品自体は独立したものなので、単体で読んでも何ら問題なく楽しめます。

この『ヒトごろし』なんですけどね、とにかく素晴らしいのですよ・・・!くわしくはこちら↓

 

www.yofukasikanndann.pink

 

 

 

 

 

 

 

「ヒトでなし」のこと

「人を救えるのは人でないものだけだ」

 

「仏様だって神様だって人じゃねえだろうが。人でなしだよ。大体な。人の言葉なんかじゃ人は救われた気にならねえよ」

 

「(略)人が人を救うなんて、とんだ傲りだ。救ってくれるのは人じゃあない。だから神だの仏だのが要るのじゃないか。仏に救われようと思ったら仏の道をてめえで歩くしかねえのさ」

 

いずれも作中に出て来るセリフです。


この『ヒトでなし 金剛界の章』は、内容を一言で説明するなら“人でなし”が人を救っていくお話。
しかし、主人公の「ヒトでなし」である尾田は、別に人を救おうなんてこれっぽちも考えちゃいない。どうでもいいと思っていて、そのように周りの人達にも接しているつもりなのに、尾田の意図しないところで皆勝手に救われていくという、尾田としては不本意でどちらかといえば迷惑な形で事が進んでいくのです。

 

人というのは、思い込みで成り立っている。“思い込めるかどうか”で大いに左右されるもので、それだけで天と地程の開きが相手との間で生じてしまう。

尾田の妻は、子供を亡くして本気で哀しむんですよ。哀しいと思い込んで、哀しげな態度を取って、周囲に、配偶者の尾田に対してヒステリックに振り撒いていた。自分の無茶苦茶な思いや行為をそのまま尾田に受け止めて欲しい。いや、もっと単純に、自分と一緒に身も世もなく哀しんでくれるのを望んでいたんでしょうが、尾田はそんな妻と接する中で“気が付いて”しまう。

 

――俺だって。
思い込もうと努力はしたさ。
でも、自分で自分を騙すことができなかっただけだ。本当は痛くも痒くもないんだと、俺は気が付いてしまった。知ってしまえば騙すのは難しい。

 

「人でなし」になった尾田と、「人」とは、別にそこまでの差異はありません。
尾田だって、亡くなった娘のことは可愛いとも大好きとも思っていたし、死んでしまって悲しくて辛くて哀しくて苦しかったけれども、それで死ぬようなことはない。どれだけ可哀想だと思っても、腹は空けば飯を食う、疲れれば寝る、他のことだって考えるんだ、平気で生きているんだと気が付いてしまった。
尾田はただ気が付き、受け入れて自覚しただけ。

 

あるものをあるがままに受け入れる、それだけである。

 

しかし、「人」は中々そんな境地に達せるものではない。それが出来ないからこそ「人」で、出来るとしたら、それはもう「人」でないものなんだ――と。
そして終盤、尾田は自身に訪れた最悪の不幸をも


風のようなものだ
風に、何故吹いたと訪ねても無駄だ


と、言い捨てる。


その姿を見て、混乱していた場が収まる。皆、尾田に人を超越した何か、まるで仏の姿をみたような気分になるのです。

こんな具合に、全てをなくした不遇の男の話から、いつの間にやら仏教の悟りじみた話になる。
そうです、『ヒトでなし』というタイトルからはあまり想像出来ませんが、この小説は帯の文句にもあるように、主に仏教がテーマの宗教小説なのですね。

 

 


“京極的”エンタメ
宗教小説などというと取っつきにくくって辛気くさいイメージを持つかも知れませんが、読んでみると全然そんなことは無く、いつもの京極作品で描かれる「通俗娯楽小説」としての面白さがこの小説でも通常運転(?)しています。

「ヒトでなし」の尾田ですけどね、作中での発言内容はこれ、もう暴言ですよ。かなり酷い事言っているんですけど、これが何だか「筋が通っている」「もっともだな」とか思ってしまって反論出来ない。ぐうの音も出ませんわといった心境になる(^^;)
口調も荒いし、過激で非道な事言っているんですけど、この暴言がまるでお坊さんの説法のように思えてくるんですね。

口先で相手をねじ伏せ、黙らせ、感服させる。
ここら辺の独特の、ある意味スカッとした爽快感は百鬼夜行シリーズ】

 

www.yofukasikanndann.pink

 

京極堂こと中禅寺秋彦『死ねばいいのに』

 

www.yofukasikanndann.pink

 

のケンヤなどの主人公にも共通している点ですね。

 

『ヒトでなし 金剛界の章』は“新鮮さ”“らしさ”を一緒に味わえる、京極夏彦ファン必見の、必ず読むべき作品だと思います。もちろん、今まで京極作品を読んだことが無いって人にもオススメ。


予測不能のエンターテインメント小説。是非読んでお確かめ下さい(^^)

 

 

 

 

ではではまた~

 

 

 

www.yofukasikanndann.pink

 

 

 

リピート 最終回 ドラマと原作との違いをネタバレ~

こんばんは、紫栞です。
ドラマ『リピート』、最終回を迎えましたね。

リピート (文春文庫)

 

このドラマの原作本についての記事は前にこのブログで書きましたが、

 

www.yofukasikanndann.pink

 

今回はドラマを最終回まで観て、改めてわかった原作とドラマとのラストの違いについて纏めたいと思います。

 

 

 

 

※以下、原作・ドラマ共に多大なネタバレがあるのでご注意下さい。特にドラマに感銘を受けた人はこの先の原作のラスト内容は知らない方が良いかも(^_^;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前の記事でも書きましたが、元々『リピート』の原作とドラマは【リピート】(時間旅行)の基本設定以外は主役や登場人物の設定、細かなストーリー展開もだいぶ異なるので、原作と同じところの方が少ないくらいです。

しかし、圭介(本郷奏多)の元カノ・由子(島崎遥香)が死んでからお話が大きく動き出すのは原作・ドラマとも共通の点ですかね。ですが、この由子、ドラマでは鮎美(貫地谷しほり)とのもみ合いの末にお腹に包丁が刺さって死ぬ。といった事故のような形でしたが、原作では【リピート】の事実に気付いた由子にたいし、発作的な怒りに駆られた圭介が首を絞めて殺害する――と、いう完全に恣意的なものです。


原作では圭介が主役なので、事件が起きるのも圭介の部屋ですね。由子が見付けた【リピート】について記録していたノートも、圭介が書いていたものです。
原作では、鮎美はこの由子殺害の事実は知らないままお話は進んでいきます。※天童さん(ゴリ)に屍体処理を頼むのは同じ。

 

で、由子殺害後、原作ではどのようにお話が進んでいくのか要約すると・・・・・・

 

 

鮎美は圭介の子を妊娠したことで、圭介にこのままこの世界にとどまって自分と結婚することを望むが、圭介は由子を殺害してしまったことにより、どうしても【リピート】して由子殺害をリセットしたいという思いが強くなる。元々結婚にたいして乗り気ではなかった圭介は、鮎美を騙してこの世界に置き去りにし、自分は天童らと共に【リピート】する道を決断する。
その後、風間(ドラマでは六角精児)と池田(原作のみの人物)から【リピート】のゲスト達は皆、“本来の世界では死んでいるはずの人達だった”との真相を告げられ、
“鮎美はこのまま放っておけば数分後に篠崎家(原作では鮎美は実家暮らし)にヘリが墜落して死ぬ運命だ。彼女を助けて一緒にこの世界に残るか、彼女を見殺しにしてひとり【リピート】するか”
の、二択を迫られる。
その場を飛び出し、篠崎家に電話をかける圭介だったが、電話口に出た鮎美の母親は、「鮎美は今家にいない」と言う。本来の歴史では自宅で過ごしているはずの鮎美だったが、この世界では妊娠した事によって体調不良で仕事を休んだぶん、休日出勤をしていたのだ。
そこで、圭介は愚かしい策を弄してしまう。
このままヘリが墜落し、鮎美の両親が死ねば、鮎美は妊娠した子を諦め、両親を助ける為に自分と一緒に【リピート】することを決断してくれるのではないか。そうなれば、すべては自分の当初の願いどおりになる――。
圭介は彼女の両親を見殺しにすることに決めた。
しかし、数時間後に報道番組を観てみると、死亡者として表示されたものの中に鮎美の名前も入っていた。
鮎美は休日出勤したものの、悪阻による体調不良で早めに帰宅、結局事故に巻き込まれて死んでしまったのだった。
運命の頑固さを思い知り、重い罪悪感に苛まれる圭介だったが、他に選択肢もなく、風間達の仲間となって改めて【リピート】する意思を固める。
だがその後、風間の事を怪しみ始めた大森(ドラマでは安達祐実)によって風間は殺され、混乱の中、池田は大森を殺害。これで【リピーター】は圭介、天童、池田の三人のみとなる。
圭介は天童に「池田を出し抜いて二人だけで【リピート】しよう」と持ち掛けられる。どうやら大森が風間を殺すように画策したのは天童らしい。池田のことも最終的に拳銃で撃つつもりなのだ。疑心暗鬼になるも、もはや天童を信じるしかない圭介はその話に乗ることに。
そして、運命の【リピート】当日。
天童の企みに気付いた池田は拳銃を持ち出し応戦。銃撃での騒動の中で天童と池田は死に、圭介だけが【リピート】に成功するも、戻った矢先に車道に踏み出し、車に轢かれて命を落してしまうのでした。(了)

 

 


どうです、なかなかのゲスい内容でしょう(笑)

 

 

 

原作ではこのように、人間の愚かしく、打算的で欲深い部分が全面に出されています。愛も希望も夢も無いみたいな。ダークサイドを描くのが狙いの小説なのかと。終盤はかなりドタバタしているので“収拾がつかなくなったのかな感”は漂ってしまっていますが。

 

ドラマの方ですと、主要人物三人は基本的に善良な人間として直されていましたね。
ドラマの圭介も天童さんも、原作のような行動はしないだろう思想の持ち主でした。原作とは違い、主役が鮎美なので、特に彼女はだいぶ掘り下げて描かれていましたね、善良に。(原作では圭介以外の人達はホント表面的にしか描かれていない)原作だと鮎美って「お前、絶対計画的に妊娠したろ」感がアリアリだったんですよ~。
原作での風間さんの仲間・池田さんは、ドラマでは大森さんに役割がふられていましたね。ちなみに、原作の池田さんにはドラマの大森さんのような深い人物背景は皆無です。


ドラマでは鮎美・圭介・天童の三人で「俺たちでリピートを終わらせよう」というのが最終的な目標になっていた訳で、鮎美だけが【リピート】に成功して(風間さんもしていましたが)二人の思いは彼女に引き継がれるのでした~・・・って、ところで終わっていましたね。あえて濁す感じにされてしました。

原作では風間、池田ら【リピート】の《常連》、ゲスト達も皆死んでしまうので、図らずも【リピート】は綺麗に終わっている状態ですね。原作の登場人物達は、誰も「リピートを終わらせよう」とは思っていなかったのですけども。

 


原作のとおりにやっていたら視聴者の同調は得られなかったでしょうし、人物設定・展開の変更は当然かなぁと思います。
原作とは別物として楽しむドラマでしたね。連ドラとして上手く作り替えられていたと思います。まぁ少なくとも、主要三人はドラマの方が私は好感が持てました(笑)
最後の終わり方は賛否がわかれるかな。どうなんだろう・・・(^^;)

 

 

原作とドラマで違う箇所はまだまだいっぱいあります。ドラマ観て気になった方は是非原作を読んで細かく確かめてみて下さい。

 

リピート (文春文庫)

リピート (文春文庫)

 

 

 


ではではまた~

 

www.yofukasikanndann.pink

 

 

去年の冬、きみと別れ 原作 ネタバレ・あらすじ感想

こんばんは、紫栞です。
今回は中村文則さんの去年の冬、きみと別れをご紹介。

去年の冬、きみと別れ (幻冬舎文庫)


只今公開中の映画の原作小説ですね。

 

 

あらすじ
ライターの「僕」は、本を書く為に殺人事件の被告に面会に行く。
被告の名前は木原坂雄大。35歳。アート写真専門のカメラマンで、主に母方の祖父の遺産で生活していた。二人の若い女性を焼き殺した罪で起訴され、一審で死刑判決。現在は高等裁判所への控訴前の被告であった。
“知る覚悟はあるのか”と問いかけてくる木原坂に不気味さを感じつつも、「僕」は木原坂の事を知る為に木原坂の姉、友人、人形師などに話しを聞いていく。しかし、関係者達は皆どこか異様で、調べれば調べるほどに事件の不可解さは増していった。
果たしてこの事件は本当に殺人なのか?彼は“芸術の為”に二人の女性を焼き殺したのか?それとも――。

 

 

 

純文学とミステリと
中村文則さんは近年注目を集めている作家さんですね。芸人さんなどのオススメでメディアに紹介されたりしたのが大きいと思いますが。映像化も今後ドンドンされていきそうな気配を感じます。
私は中村さんの本を読むのはコレが初です。映画のCMを観て気になり、本屋で原作本を発見。薄くてすぐ読めそうだと思い購入して読んでみました。
今まで気になりつつも中村さんの本を読んだことが無かったのは“純文学作家”のイメージが強かったのが理由に挙げられると思います。普段は大衆娯楽小説を中心に読んでいるので、純文学は少し避けてしまうところがあるんですね。たまには読むし、別に毛嫌いしている訳じゃないのですが。
映画のCMを観る限り、かなりミステリ色が強そうな内容だったので「ミステリも書かれているのなら読んでみよう」と手に取ってみた次第です。

お話の内容としては、純文学とミステリが混ざった感じですね。重きを置かれているのはミステリの方という印象が強いです。“狂気”を描こうとしている部分が純文学的・・・なのかな?あと、性描写が露骨に出て来るところも純文学っぽい(←偏見)

序盤はカポーティ『冷血』と、

 

 

 

芥川龍之介地獄変

 

 

 

の要素(?)が取り入れられた内容になっています。

 

 

 

 


原作と映画との設定の違い
映画は観られてないですが、公式サイトなどからわかる原作との違いを少し。

映画のキャストは以下の通り
耶雲恭介(記者)―岩田剛典
木原坂雄大(殺人事件の容疑者)―斎藤工
松田百合子(耶雲の婚約者)―山本美月
小林良樹(編集者)―北村一輝
木原坂朱里(雄大の姉)―浅見れいな
吉岡亜希子(被害者)―土村芳

 

原作には登場人物達の容姿の説明がほぼ無いので、役と合わないとかそういった文句は浮かびようが無い(少なくとも私は)


まずもって言いたいのは、殺人事件の被告の木原坂雄大と、その姉の朱里以外は上記の名前の登場人物は小説では登場しません。映画で主役とされている耶雲恭介は、原作の“ライターの「僕」”にあたるのでしょうが、如何せん原作では「僕」のままで、最後まで名前は明かされませんし、他の人達も明記されていなかったり、上の名前と下の名前が違ったりします。

 

名前だけではなく、人間関係や状況設定も原作とはだいぶ異なる点があります。


まず、原作では二件の殺人事件の被告・木原原雄大高等裁判所への控訴前で現在は拘置所にいる設定なのですが、映画だと執行猶予がついて釈放されたという設定みたいです。容疑がかかっている事件も二件ではなく一件。


耶雲の婚約者に「松田百合子」とありますが、原作にはそのような婚約者はいませんね。(雪絵という女が名前だけ出てきますが・・・)原作には「小林百合子」という女性が登場しますが、これは二番目の被害者の名前ですね。ライターの「僕」とはまったく何の関係も無い女性です。ちなみに一番目の被害者の名前は「吉本亜希子」。

 

映画だと「松田百合子」を巡って耶雲恭介と木原坂雄大がワチャワチャするみたいですが(それが中心?)、上記の通り設定が異なるので、原作ではもちろんそんな場面は無いです。

映画はかなり大胆にお話の構成が作り替えられているみたいですね。原作のトリックがトリックなので、映像化するにはこれくらい替える必要があるんだと思います。CMや公式サイトを観る限り、“観客を騙したい”という作りになっているみたいなので、映画もやっぱりサスペンス・ミステリを前面に出しているんだと思われます。

 

 

 

混ざった結果
この『去年の冬、きみと別れ』は200ページもない小説ですぐ読み切れちゃいますが、薄い割には読むと頭が疲れる。

それというのも、最初の段階からだいぶ思わせぶりな文章が続くので、私はかなり警戒しながら読んでしまいました。
まぁそこら辺は叙述ミステリでは一般的なことなので良いのですが、この作品の場合は各視点の文章雰囲気の書き分けが特にされていなかったり、登場人物達が意味深な変態発言をしたり、展開が急だったりで、読んでいて混乱するんですね。
再読してもこんがらがったままで、何だかモヤモヤが解消されないところも。私の読解力が乏しいせいなんでしょうけど(^^;)、叙述ミステリは“真相のわかりやすさ”が重要だと(私は)思うので・・・まぁバカでもわかるように書いてくれという愚痴です。

 

と、こんな風に感じてしまうのも私が大衆娯楽小説ばっかり読んでいる人間だからだと思いますが。

 

純文学では起承転結とか、明確なオチとか、お話を理路整然とさせる必要はないし、いわゆる“やりっ放し”もOKなんですが、ミステリで求められるのはこれら要素とは真逆で、全ての伏線が綺麗に回収されるわかりやすいオチなので。


ミステリ目当てで読んでいた人には、伏線回収の甘さや終盤の説明的すぎる独白は何だかしらけちゃうだろうし、反対に、純文学を期待していた人には登場人物達の内面描写はもっと深く書いて欲しいなど、物足りなく感じてしまうところがあると思います。

 

私は会話部分の雰囲気とか独特のザワザワ感があって何か良いなと思いました。特に『姉』とのやり取りが。「いやぁ、怖い女だなぁ」と。
木原坂雄大はミステリアスな雰囲気が終盤、真相が明かされるぐらいになると小者感が漂ってしまってチト残念に感じてしまいましたね。ライターの「僕」は色々人物背景がありそうな癖にほとんど描かれていないのはやっぱり不満。「K2」について詳しく説明しろ~!
個人的には、諸々、もっとページ数あったほうが良かったんじゃないかって意見です。

 

上手く混ざっていると感じるか、どっちつかずになってしまっていると感じるか、人によって意見が分かれるかと思いますね。

 

 

 

 

 

 

 

以下がっつりとネタバレ。未読の方は要注意。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


イニシャル・献辞
文庫版の『文庫解説にかえて』で作者の中村文則さんも書かれていますが、お話の最後の文

「・・・・・・全く同じ本を、片方には増悪の表れとして、そして片方には愛情の表れとして・・・・・・。M・Mへ、そしてJ・Iに捧ぐ」

これの意味がわからない。M・MとJ・Iは誰だと疑問をもつ読者が多いみたいです。

 

この『去年の冬、きみと別れ』は、お話の内容を簡単に要約すると・・・
「吉本亜希子」の元交際相手である「編集者」が、彼女を死に追いやった木原坂兄弟に復讐するべく、偽物を用意して「小林百合子」として「朱里」を殺害、「雄大」にその罪をなすりつける――と、いう計画と実行の記録を“「編集者」がつくる本が好きだった”と言っていた「吉本亜希子」に捧げるべく、そして死刑になる「雄大」に真相を知らせて復讐を完結させるため、ライターの「僕」を利用して『小説』をつくった。


つまり、読者が読まされていたこの本『去年の冬、きみと別れ』が「編集者」がつくったその本でしたというのがお話のオチなのです。
なので、本の最初にあった献辞


M・Mへ
そしてJ・Iに捧ぐ


の、M・Mは木原坂雄大、J・Iは吉本亜希子のことを示しています。


「オイオイ、それじゃあイニシャルと合わないじゃないか」と疑問に思うでしょうが、作中で「編集者」は

「・・・・・・だから、物語の最初のページには、彼らの名前を書くことになる。外国の小説のように。・・・・・・でも日本人には気恥ずかしいから、アルファベットにしよう。これは『小説』だから本文では仮名を用いたけど、そこには彼らの本名を。・・・・・・まずはあの死刑になるカメラマンへ、そして大切なきみに」

と、言っています。


「木原坂雄大」「吉本亜希子」は『小説』で用いている仮名で、「M・M」「J・I」は彼らの本名のイニシャル
なので、『小説』内の名前と献辞のイニシャルが合わないのは当然で、「M・M」「J・I」のイニシャルをもつ人物を探しても『小説』内にはいるはずがありません。

 

『文庫版解説にかえて』では、“献辞までこういうやり方で仕掛けに使ったものはこれまでになかったので読んだ人が混乱したのでは”と書かれています。しかし、混乱の原因はそれだけじゃなく、読者的には
“イニシャルを出されるとイニシャルに該当する人物を探したくなってしまう”
“最後にこれ見よがしに書くのだから、作中にイニシャルに該当する人物への伏線があったに違いない”
と、いう心理が働いてしまうのでは・・・と、個人的には思います。

 

まぁ単純に、本名が明かされないままでモヤモヤするってのもあると思いますが(^_^;)

 

 

 


このように、この本のストーリーやトリックは小説ならではのものなので、映画ではどのように映像化しているのか大変気になりますね。個人的には色々こねくり回すにしても『去年の冬、きみと別れ』のタイトルの意味は原作通りであって欲しいなぁ~と。このタイトル、なんか綺麗で良いですよね。

 

 

映画観に行けたらまた記事書こうと思います(行けるかどうかまだわからない・・・^^;)

 ※映画、観てきました~。記事はこちら↓

 

www.yofukasikanndann.pink

 

 

ではではまた~

 

鉄鼠の檻 ネタバレ あらすじ・感想

こんばんは、紫栞です。
今回は京極夏彦さんの鉄鼠の檻をご紹介。

文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)

百鬼夜行シリーズ】四作目です。

 

www.yofukasikanndann.pink

 

最近、愛蔵版が刊行されましたね~。

通常書籍には使用しない印刷技術を駆使した永久保存版!京極さんの謹製・厄除け札、中禅寺秋彦が神主を務める「武蔵晴明社」の厄除け札、小説の舞台「明慧寺」の鼠除け札の二枚が挟み込まれていますっ!↓

 

鉄鼠の檻

鉄鼠の檻

 

 

たけぇぇぇぇ(笑)
そして、只今「三社横断 京極夏彦新刊祭」開催中。この『鉄鼠の檻 愛蔵版』と、新潮社の『ヒトごろし』

 

www.yofukasikanndann.pink

 

 

角川の『虚談』

 

 

www.yofukasikanndann.pink

 

 

の各単行本の帯についているパスワードを全て集めると、2018年11月30日までの期間限定サイトで百鬼夜行シリーズ】の書き下ろし新作短編が読めます。しかもその短編作品の内容は『ヒトごろし』『虚談』の二作品ともリンクする内容なんだとか・・・何それ?読みたすぎ!
私は既に『ヒトごろし』と『虚談』の二作は購入済みなのですが・・・『鉄鼠の檻』は講談社ノベルス版と文庫版と持っているからなぁ・・・あ~・・・悩んでおります(>_<)おのれ出版社め・・・!

※2019年4月に書籍化されました!詳しくはこちら↓

 

www.yofukasikanndann.pink

 

 

 


あらすじ
「拙僧が殺めたのだ」
箱根の山道。盲目の按摩師・尾島佑平は獣道を慎重に歩いていたところ、行く手に何か遮るものがあるのに気がついた。どうも人が蹲っているようだと思った矢先、「それは、拙僧が殺した屍体だ――」と、告げる声が。尾島は盲目の己をからかっているのだと思うのだが、謎の僧侶はしつこく言いつのる。畏くなった尾島は慌ててその場から逃げ出し、駐在警官をともなって戻ってみたのだが、その場には何もなくなり、僧侶も姿を消していた。

その後、箱根・浅間山中の古旅館「仙石楼」の中庭に座禅を組んだ僧侶の屍体が突如出現する。密室状況ともいえる「仙石楼」の中庭。はたして屍体はどこからやって来たものか。古物商の今川雅澄、元医師の久遠寺嘉親、「明慧寺」の取材のため訪れていた中禅寺敦子と鳥口守彦らは容疑者として警察に拘束されてしまう。

同じ頃、京極堂店主の中禅寺秋彦と作家の関口巽は、細君らとともに、山中で土砂に埋もれて発見された土蔵の中の古書鑑定のために箱根湯本に訪れていた。
関口は湯本の旅館で、殺人を犯した僧侶と遭遇したという尾島の話を聞き、さらに“成長しない迷子”の怪異譚を耳にして――。

忽然と出現した僧侶の屍、山中駆ける振り袖の童女、埋没した経蔵、次々と殺害される僧侶達――これら箱根に起きる数々の怪異は、世俗と隔絶した古寺「明慧寺」へと繋がっていく。
京極堂は「明慧寺」に張られた“結界”を消失させることが出来るのか?

「勝ち負けで云えば僕は最初から負けている」

 

 

 


「クローズド・サークル」と「見立て殺人」
今作は箱根が舞台。箱根でのみのストーリー展開となります。
旅行だっ!ってことでテンションが上がる・・・のは私だけかも知れませんが(^^;)

百鬼夜行シリーズでは京極堂の座敷で話しが展開されていくパターンが主なので新鮮。「旅行に行かないかね」とか中禅寺に言われると「行く行く~」と、答えたくなる(笑)


箱根での事件なので木場が登場しないのが残念で寂しいところですが。


お話は箱根にある古旅館「仙石楼」と、謎の寺「明慧寺」での場面が主になります。登場人物達もこの2箇所を行ったり来たり。
“閉ざされた舞台”“見立て殺人”が起こるという内容なので、見方によってはミステリ的にオーソドックスな仕様。ですが、そこは百鬼夜行シリーズなので、やっぱり通常のクローズド・サークルものとは一味も二味も違います。京極さんの手に掛かるとド定番ミステリもこのようになるのだなぁと感心。

 

 


登場人物
今作で登場するシリーズお馴染みキャラクター達は以下の通り
中禅寺秋彦(京極堂)
榎木津礼二郎
関口巽
●中禅寺敦子
●鳥口守彦
●今川雅澄(待古庵)
●益田龍一

今川と益田が今作で初登場(益田は実は『魍魎の匣』のときに捜査員の中にいたようですが)。これで百鬼夜行シリーズの主要キャラクターはほぼ出揃った感があります。


今川は伊佐間と同様、戦時中は榎木津の部下だった男。台詞の語尾に「なのです」がつくのが特徴なのですが、この口調が読んでいると何だか面白いというかカワイイ。榎木津はいつも今川のことを「マチコ」と呼びます。これも何だかカワイイ(笑)


益田はこのときまだ刑事さんです。お調子者の気安い刑事って感じですね。益田はこの事件をきっかけに、ある意味大きく道を踏み外すことになるんですが(^^;)それはシリーズ読み進めてのお楽しみで。
この時点で鳥口とは大分気が合いそうですね。↓
「益田君。そう云うことを軽々しく民間人の前で口にするのは問題だよ。人権侵害だ。捜査上の秘密厳守は警官の原則でしょう」
京極堂はいつもの調子で云ったのだが、益田はきつく叱られたと思ったらしい。
「も、申し訳ない。ど、どうも口が軽い」
「解ります」
鳥口が大きく頷いた。

 

鉄鼠の檻』はシリーズ第一作目の姑獲鳥の夏の後日譚との位置づけも出来ます。

 

www.yofukasikanndann.pink

 

姑獲鳥の夏』は久遠寺医院が舞台のお話ですが、そこの院長だった老医師の久遠寺嘉親が『鉄鼠の檻』で再登場します。久遠寺家の人々は箱根での定宿を「仙石楼」としており(ここの部分の説明もちゃんと『姑獲鳥の夏』で書かれていますよ~)、姑獲鳥の事件で家族を全て失った久遠寺翁は家を引き払い、前の年の暮れから「仙石楼」に逗留中なのです。
この久遠寺翁、『姑獲鳥の夏』ではほんのチョイ役での登場だったのですが、今作ではガッツリと登場。良い味出している勇ましいお爺さんです。
久遠寺翁がいることで、姑獲鳥の事件を想起して関口が悶々としたりします。(四作目ともなると関口の苦悶にも慣れっこになってきますけど^^;)
実は久遠寺翁だけでなく、今作では姑獲鳥での重要人物がもう一人登場。ここら辺は是非読んでお確かめ頂きたい。
いずれにせよ、『姑獲鳥の夏』を先に読んだ方が『鉄鼠の檻』を楽しめるのは間違い無いです。まぁどんなシリーズものも刊行順に読むのが良いのは当然ですけどね。

 

 


以下がっつりとネタバレ~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


お坊さんだらけ
作中、榎木津が
「どうにも坊主が多過ぎるなあ。区別がつかない。坊主が坊主を上手に殺したなんて――僕の趣味じゃないんだがな」
と、云っているように、『鉄鼠の檻』はとにかくお坊さんだらけ。被害者がお坊さんなら犯人もお坊さん。

百鬼夜行シリーズは宗教を扱っているお話が多いシリーズですが、その中でも今作は宗教色がかなり強め。ミステリ小説というよりは“禅の思想”をモチーフにした小説という印象です。そのせいか、『鉄鼠の檻』は前作までの三作を凌駕する分厚さですが“憑き物落とし”にあたる真相部分は他作品よりページ数は少なめです。
いつものウンチクも「禅」と「悟り」についてが中心で、読むととにかく禅宗に詳しくなれますぞい。結構、仏教に対して思い違いしているなぁって気付かされるところが多くって、読んでいると「へ~」の連続ですね。

 

「禅」は他宗教と違い“言葉”を否定する宗教。言葉を操り蠱物を繰り出す陰陽師である京極堂には、“今度ばかりは勝てる訳がない”
しかし、僧侶殺害が相次ぐ中でも「明慧寺」の僧侶達は“檻”に囚われているかのように山から降りようとしない。いつも以上に腰が重かった京極堂も状況を見かねてやっとこさ、動きだす。
憑き物落としの黒装束に着替えて関口に云います。


「行くよ。結界に結界張るようなややこしいことはやはりいけないんだ」
「勝算はあるのか!」
「勝ち負けで云えば僕は最初から負けている」


と言い放ち、明慧寺の扉を開けて京極堂による“結界破り”が開始されます。


ここら辺のやり取りはまるでアクションものみたいで何だかワクワクしますね~。この後のやり取り、関口の「馬鹿云うな。君ひとりに行かせるか――」や、榎木津の「京極だけじゃあ荷が重かろうと思ってね。わざわざ待っていてやったのだ――有り難く思え」など、普段はあまり表立っては出て来ない友情が感じられて良い。


特に榎さんは他にも色々友達思いなところが。珍しく謎解き披露したり、説教したり、迷える人々に影響をあたえてたりだので、今作ではかなりの大活躍ですよ~(^o^)


あと、京極堂の妹・敦子の意外な悩みも少し触れられています。敦子って「ちょっと優等生過ぎる気が・・・」と、第一作から思っていたのですが、まさかそれが本人の悩みだとは・・・。思った以上にお兄さんの存在が大きいんだなぁ~と。ちょっと驚き。

しかし、ここでの一番の驚きは京極堂が旅先に憑き物落としの黒装束持ってきていたことだったりする(笑)

 

 


振り袖娘・鈴子
鉄鼠の檻』は上記のようにお坊さんだらけだし、犯行も滑稽さが漂って猟奇的なものではないしで、百鬼夜行シリーズ独特の耽美で妖しい雰囲気は薄めですが、“成長しない迷子”こと、振り袖の童女の存在は何とも百鬼夜行シリーズらしいです。
この山中で突如出現する謎の振り袖娘、「明慧寺」で面倒をみている少女・鈴らしいと解るんですけど、土地の人が云うには13年前にもまったく同じ姿で目撃されている。
で、話が進むにつれ、この鈴は13年前に火事で行方不明になった少女・“鈴子”が産んだ子ではないかといった流れになる。
しかし、実は「成長しない迷子」はその名の通り、成長していない鈴子そのもの。
ストレスなどで成長が止まってしまうというのは実際にある現象みたいですね。金田一少年でも金田一少年の決死行』でこの現象を扱っていますね↓

 

 

 

いやぁ、ここの真相が解る部分、怖いです!当事者の状況を考えるとかなり。「う、うわああああ」と叫び声を上げるのも納得・・・と、いうか私も一緒に悲鳴上げちゃうよって感じ(^^;)

 

 

 

慈行
美形の僧侶、「和田慈行」ですが、終盤に関口が

「そうだ。なあ京極堂、和田慈行は――何で嘘を吐いたんだろうな」
「嘘?」
「夜坐していたのが常信さんかどうか判らなかったとか云ったんだろう。本当は必ず判る筈なのに」
「ああ」
京極堂は連れない声を出した。
「あの人――慈行さんにはきっと本当に判らなかったんだよ。あの人は――」
そしてそこで黙った。

と、まぁこんな具合にぼかされている。


ううむ。榎木津の慈行に対する「あの坊主は何も中身がない」「お前みたいな空っぽ」「子供の癖に」などなどの発言と、京極堂「あんたは禅など学んでいない。修行などしていない。禅の言葉を学び禅の戒律を修しただけだ。伝えられた心がないんだ!誰からも心は伝わらなかったか!」との発言から考えるに、“カタチだけ”の慈行には判る・判らないとかそういったこと自体が“無かった”というか・・・う~ん。いずれにしろキチンとした説明は出来ないですねぇ。


終盤、慈行は自ら「拙僧は中身なき伽籃堂。ならば拙僧は結界自体なり!」と云っています。
結界自体だった慈行は、京極堂の“結界破り”によって崩れてしまい、とち狂って「明慧寺」に火を放ち全てを消そうとするのでした。

 

 


犯人
この長編小説は「拙僧が殺めたのだ」の一言から始まります。
「え?お坊さんが殺人?」と、思いますが、後に続く事件ではお坊さんばかりが殺されていく。お坊さん同士で何をやっているんだ?って感じですが、最後に解る真相もお坊さんだからこそといったものです。
京極堂は犯人が盲目の尾島に語った「所詮漸修で悟入するは難儀なことなのだ」の一言からだけで犯人を見抜きます。犯人はこれを聞いて「見事。見事な領解である!」と感心するんですが、この“見事な領解”も、犯人の犯行理由も、真相部分より前にある膨大な「禅」と「悟り」についてのウンチクがなければ読者は飲み込むことが出来ません。

もともと「禅」は言葉を否定する宗教。『鉄鼠の檻』が前の三作品を上回るページ数なのも、本来言葉では語れない「禅」を読者にわかりやすく提示する為。無駄に長い訳じゃないんだよと(←ここ重要)


と、いう訳で、大まかな部分は真相部分より前にほぼ説明されているので、犯人の告白もこれ以上無い程アッサリとしたものです。
「あんた犯人か!」と、聞かれて、
「はいはい。左様にございます」
と、すぐに認めちゃいます。ちょっと笑っちゃうぐらいのやり取りですね。

 

 


鉄鼠の檻』はシリーズの他作品に比べると一気読みするというよりは“連ドラ”的に楽しむって要素が強いと思います(一気読み出来るならそれに越したことは無いですけどね~)長いですが、キャラクター達のやり取りや「禅」について勉強しつつ、楽しみながら読んで欲しいです。繰り返し再読するのもオススメ。

 

※漫画や電子書籍もあります↓

 

 

 

 

 

ではではまた~