夜ふかし閑談

夜更けの無駄話。おもにミステリー中心に小説、漫画、ドラマ、映画などの紹介・感想をお届けします

『岸辺露伴は動かない』ドラマ 8話まとめて紹介 原作とは違う、でも好評の訳とは?

こんばんは、紫栞です。

今回は、岸辺露伴は動かないのドラマについてまとめたいと思います。

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荒木飛呂彦先生の超大作漫画シリーズ【ジョジョの奇妙な冒険】の4部に登場する漫画家・岸辺露伴が遭遇する様々な奇妙な出来事が描かれるスピンオフ作品『岸辺露伴は動かない』がNHKでドラマ化されて早三年。

すっかり毎年の恒例となり、話数も8話とたまりました。2023年5月に映画公開も発表されましたので、今回はドラマに集点を絞ってまとめようかと思います。

 

※原作漫画のまとめについてはこちら↓

 

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順番と原作エピソード

 

第一期 2020年12月

第一話「富豪村」

 

岸辺露伴は動かない』コミックス第1巻に収録されているエピソード。OVAで2話目にアニメ化(原作に沿って、サブタイトルでは#05となっています。ややこしい・・・)もされています。

何でも最初が肝心ですが、このドラマがどういったものかをドーンと示してくれている良作。決着のつけ方が原作以上に完成度が高くなっていて、感服する脚本。原作にはない「だが断る」を言わせているのも良いですね。やっぱり露伴先生なら“それ”を言っているのを聞いときたいのよ。

 

 

第二話「くしゃがら」

 

ジョジョの奇妙な冒険』のスピンオフ小説集岸辺露伴は叫ばない』に収録されているエピソードで、作者は北國ばらっどさん。今のところ小説作品から映像化しているのはこの「くしゃがら」のみ。

 

森山未來さん演じる漫画家・志士十五が強烈。最後のカットの「おことわり」が怖いけれども気が利いている。世にも奇妙な物語的ですね。

 

 

第三話「D・N・A」

 

岸辺露伴は動かない』コミックス第2巻に収録されているエピソード。

原作ですと露伴先生は相談として話を聞かされるだけで直接関与しない(アドバイス?はするけど)お話なので、オリジナル要素が強め。美術が凝っていて、「ヘブンズ・ドアー」の表現が面白い。

 

 

第二期 2021年12月

第四話「ザ・ラン」

 

岸辺露伴は動かない』コミックス第2巻に収録されているエピソード。OVAで3話目にアニメ化。(原作に沿って、サブタイトルでは#09になっている)

原作だと露伴先生が珍しく参った様子で「反省している」と読者に話し始めるところから始まっていますが、ドラマでは妖怪話の一つとして露伴先生が泉くんに話をする構成になっています。筋肉バカの髪型が原作通りに再現されているのが「フフッ」となる。

 

 

第五話「背中の正面」

 

こちらはスピンオフ作品ではなく、本編である『ジョジョの奇妙な冒険 第4部 ダイアモンドは砕けない』でのエピソードで、コミックスでは44巻収録。4部アニメだと31~34話。

 

原作だと「チープ・トリック」という名のスタンドに露伴先生が憑依される話で、吉良吉影が差し向けてきた(と、思われる)もの。

最初にこの話をドラマ化という一報を聞いたときは驚きましたね。本編の4部漫画では鈴美さんがいる“決して振り向いてはいけない小道”ありきでの解決策だったのでドラマではどうするのかと思っていましたが、「坂」というワードを使って見事に解決させていました。

 

 

第六話「六壁坂」

 

岸辺露伴は動かない』コミックス1巻に収録されているエピソード。OVAで1話目にアニメ化。(サブタイトルは原作に沿って#02になっている)

血がドバドバ出て来る話なのですが、ドラマだとそこの部分はモノクロ映像になっていました。やはり色々と問題があるのですかねぇ。原作でもドラマでも同様ですが、絶対あの掃除間に合わんだろと思う。

 

 

第三期 2022年12月

第七話「ホットサマー・マーサ」

 

集英社ムックJOJO magazine 2022 SPRING」に収録されている描き下ろし作品。詳しくはこちら↓

 

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他の短編よりボリュームがある原作なので、ドラマは付け足し要素も変更も他エピソードより少なく、原作にかなり忠実なストーリー展開になっています。円三つのところどうするのかと思っていましたが、そのままやっていましたね。しかも「三が素晴らしい」って話で次に繋げていてなるほどと。狂信的なファンというのでも次に繋げていますね。

 

 

第八話「ジャンケン小僧」

 

本編漫画『ジョジョの奇妙な冒険 第4部 ダイアモンドは砕けない』の「ジャンケン小僧がやって来る!」というタイトルのエピソードで、コミックスだと40巻収録。4部アニメでは36話。

原作は本当にひたすらジャンケンするだけのお話なので、ドラマではどうするのかと思っていましたが、セリフなどはほぼそのままの忠実なものとなっている終始ジャンケンしているのも同じ。原作もドラマも、ジャンケンをこんな風に描けるの凄いなぁ~と。原作だと透明な赤ちゃんを使って勝っていたのでどうするのか気がかりでしたが、素晴らしい変更の仕方で感服。

 

 

 

 

 

 

 

 

原作との違い

原作は繋がりのない短編漫画、本編漫画からの切り取りなどですので、ドラマ化するにあたって変更点は多々あるのですが、特に大きな違いは「スタンド能力」という言葉を出さないところと、相棒がいるコンビものにして、サスペンス・ホラーミステリドラマとして描いているところですね。

この変更のおかげで、『ジョジョの奇妙な冒険』を知らない視聴者でも十分に愉しめて、受け入れられやすい作品となっている。

 

ジョジョの奇妙な物語』4部でのストーリーである「背中の正面」と「ジャンケン小僧」はスタンド能力バトルが前提のものなのでその部分なしでどうやるのかと思いましたが、日本的な怪異を絡めることで上手くまとめられていましたね。

一期では泉くんの記憶喪失ふんわり彼氏、二期では「六壁坂の妖怪」、三期で「四つ辻の辻神」と、一話完結物でありながら繋がりを持たせているのもシリーズドラマとして観やすい。

 

相棒役に原作の「富豪村」に登場する編集者・泉京香をチョイスするのは順当だといった感じですが、良く計算された露伴先生の「相棒」に最適なキャラクターに設定されています。ウザくってずうずうしいながらも、奉仕精神が強くて善良。演じている飯豊まりえさんの絶妙な塩梅でのかわいらしい演技によるところも大きいかと思いますが。

岸辺露伴を演じる高橋一生さんに関しては言わずもがなですね。コンビとしての二人のバランスが良く、掛け合いも面白い。ドラマ版だからこそのお楽しみポイントですね。

 

このように原作からはかなりの変更があるのですが、ドラマ単品での面白さが確りしているのと、付け焼き刃的ではない、作品を良く理解した上での脚色が抜群に良い。通常は原作からの変更はファンにとっては嫌なものですが、このドラマでは「次はどんな脚色でくるかな~」と逆にワクワク感がある。

脚色しているものの、セリフや見せ場のシチュエーションなどはほぼ原作通りで、衣装や美術含め、別物なのに世界観や作品雰囲気はジョジョの“それ”。ホント、変えちゃダメなところが分っていらっしゃる。

忠実でありながら斬新。これがこのドラマがヒットした要因なのかなと思います。

 

個人的に、禁足地や妖怪といった日本的な怪異を絡めて纏め上げているところが京極夏彦ファンの私としては非常に好み。コンビものも好きなのでドンピシャですね。

 

 

 

 

 

映画館に行くッ!

三期の「ジャンケン小僧」で最後に「パリ、ルーヴル美術館」と泉くんが毎度の匂わせ発言をしていたので、これは『岸辺露伴ルーヴルに行く』をやってくれるのだなとは思いましたが、映画でやってくれるとは嬉しいかぎり。三期は二話だと聞いたときは何で三話じゃないんだと思ったものですが、映画を控えていたからだったんだなと。

 

確かに映画でやるならルーヴルのエピソードしかないので納得。前々から「ルーヴルやってくれないかな~でもルーヴル美術館での撮影ってなるとドラマでは厳しいよね~」と思っていたので。

 

この『岸辺露伴ルーヴルへ行く』は『岸辺露伴は動かない』とはまた別物となります。※『岸辺露伴ルーヴルへ行く』について、詳しくはこちら↓

 

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題名の通りの物語ですが、これは露伴先生自身にまつわる物語で“動く”のですよ。海外パートはもちろんですが、日本での回想パートも気になりますね。

「ジャンケン小僧」で「くしゃがら」に登場した志士十五に少し触れていましたが、映画に登場する前フリなのでしょうか?確かに一話のみの登場では勿体ないキャラクターですよね。

 

とにかく楽しみ。絶対映画館に観に行きたいと思いますッ!

※行ってきました!映画について、詳しくはこちら↓

 

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ではではまた~

 

 

 

『シーソーモンスター』「スピンモンスター」あらすじ・ラストと〈螺旋プロジェクト〉と

こんばんは、紫栞です。

今回は、伊坂幸太郎さんの『シーソーモンスター』をご紹介。

シーソーモンスター (中公文庫)

 

あらすじ

昭和後期。バブルに沸く日本で、北山家の嫁・宮子と姑・セツは日々衝突を繰り返し、宮子の夫でセツの息子である直人は熾烈な嫁姑問題に悩まされていた。

実は宮子は元やり手の情報員。情報員時代に培ってきたコミュニケーション能力を駆使すれば、姑と上手くやることなど簡単なはず。そう思っていたのに、何故姑相手には冷静になれないのか。そんな中、宮子は北山家の周りで不審な死が多い事を知り、独自に調査を開始する。

 

近未来。デジタル化か進んだ結果、紙媒体が秘密保持の方法として重宝されるようになっている日本。フリーの配達人である水戸は新幹線内で移動中、見知らぬ男に一通の手紙を届けて欲しいと仕事を依頼されたことで人工知能にまつわる事件に巻き込まれ、因縁の相手である檜山に追われることに。

 

時空を超えて繋がり繰り広げられる、二つの種族の対立と二つの物語。争い合うのは変えられない「運命」なのか――?

 

 

 

 

 

 

螺旋プロジェクト

『シーソーモンスター』は2019年に刊行された長編小説。2022年10月に文庫が発売になりました。

Netflixアン・ハサウェイサルマ・ハエック主演で映画化が決定したとのことで読んでみた次第。ちょうど文庫も発売されたタイミングだったので。

 

アメリカでの映画化は『マリアビートル』(※映画のタイトルは「ブレット・トレイン」)に続いてですね。

 

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買ったときは知らなかったのですが、この作品は雑誌『小説BOC』の〈螺旋プロジェクト〉たる企画で書かれたものらしく、本には最初に「〈螺旋プロジェクト〉とは」と、プロジェクトの説明や年表が掲載されています。

 

簡単に言うと八人の作家による競作企画で、「共通ルールを決めて、原始から未来までの歴史物語をみんなでいっせいに書く」といったもの。言い出しっぺは伊坂さんだとなっていますが、あとがきによると元々編集者から持ち込まれた競作企画に「こうしたらもっと楽しいかもしれない」と提案して皆で打ち合わせしていったという感じのようです。

 

共通ルールは主に三つ。

 

  • 「海族」と「山族」との対立を描く(※「海族」は目が青い、「山族」は耳が大きいという特徴がある)

 

  • 「海族」と「山族」との対立を見守る、行司や審判のような役割をする「超越的な存在」を登場させる(※作品によって年齢・性別・姿形は異なる)

 

  • 共通シーンや象徴モチーフを出す(※「主要人物二人が“対立”について語り合う」「夕暮れの情景が描かれる」「物が割れる、飲み物がこぼれる」「螺旋の形状のイメージが入る」など)

 

といったもの。

 

 

伊坂さんが描いている時代は1980年代の昭和後期と、2050年の近未来。どういうことかというと、今作は二つの200ページほどの中編、昭和後期が舞台の「シーソーモンスター」と、近未来が舞台の「スピンモンスター」が収録されている本になっていまして、それぞれ主人公も物語の雰囲気もまったく異なる“まるで別作品”なのですが、読んでいくと繋がりが分る構成になっています。二つで一つの長編小説ですね。

 

〈螺旋プロジェクト〉は各作家が各時代を描いて年表のように繋がっていくという企画ですが、今作はプロジェクトの〈螺旋〉を象徴するかのような時空を越えた物語となっています。

 

 

 

 

 

シーソーモンスター

表面上はごくごく平凡な家庭の北山家。「嫁と姑の争い」が描かれる訳ですが、作者本人があとがきで“戯画化されたドラマのような”と書いているように、掃除の仕方に文句を付けられ、「子供はまだか」とイヤミを言われるといった、テンプレというか嫁姑問題と聞いて皆が想像するようなやり取りが展開される。

伊坂さんは「自分の発想力、想像力のなさに恥ずかしい気持ちにもなりました」と書いていますが、このド定番な一般家庭風景が描かれることで、水面下ではスパイ活劇しているっていうチグハグ感が際立って良いんじゃないかと思います。

一般住宅で専業主婦と工作員が戦闘をするシーンなど、最大限にこの絶妙なヘンテコ設定が活かされていて楽しい。

 

タイトルの“シーソー”は双方の力関係、パワーの均衡を表してのもの。各段落の合間には天秤のイラストが挿入されていて、力の傾き加減をわかりやすく示してくれています。

 

宮子が「海族」でセツが「山族」。当人たちは知らずとも、種族の本能(?)でどうしても対立する訳ですが、間に直人がいるし、一応専業主婦同士一つ屋根の下ということで、戯画化された争いにとどまっています。

嫁姑問題といっても、宮子が強くって一方的に姑に虐められるような構図にはなっていないので、読んでいてイライラすることもない。

 

何にも知らずに嫁姑問題と仕事で直面した不正に苦悩している直人は、読んでいて凄く好感が持てる人物。さすが、凄腕の女スパイに惚れられるだけある。

姑を疑って調査をしていたはずが、終盤は直人に思わぬ一大事が。愛する夫を救うため大男をバタバタ倒す宮子の活躍は爽快感があります。

 

最後の“思わぬ真相”ですが、大体の人は読んでいて予想がつくのではないかと思う。しかし、分っていてもこの展開は楽しい。「キター!」ってなります。これぞエンタメ・・・!!

“高齢者なめんな”っていうこの感じは、『マリアビートル』思い出しますね。

 

 

 

 

 

スピンモンスター

「シーソーモンスター」から60年ほど時は移ろいまして、2050年。こちらの主人公は配達人の水戸という男で、頼まれた手紙を元研究者の中尊寺敦に届けたことで無関係なのにあれよあれよと面白いくらいに事件に巻き込まれていく。

 

近未来ものらしく人工知能にまつわる事件で、伊坂幸太郎作品らしく仙台が舞台。水戸は幼少期に交通事故で家族を失っていて、その時からの因縁の相手である檜山に偶然にも再会。檜山は刑事になっていて、事件関係者として水戸は檜山に追われることとなる。

 

水戸が「海族」で、檜山が「山族」。タイトルの“スピン”は“誰かに特定のイメージを持たせるために、情報を操作する”行為を指す言葉。

相手は最強の人工知能ということで、スケールの大きい事件となっています。

 

「シーソーモンスター」はスパイ活劇ですが、「スピンモンスター」は近未来SF。

簡単にいうと人工知能の暴走を描いている物語で、近未来SFではありふれた題材ですね。

 

時代も事件内容もあまりにも接点がないので繋がりようもなく思えますが、途中から「シーソーモンスター」にまつわる人物が助っ人的に現われる。これもまた“高齢者なめんな”っていうものなのですが・・・年齢が年齢なのでこれはさすがに・・・義体かよ。

 

色々な乗り物を乗り継いでの逃走劇で、男二人で自転車に乗ったりスワンに乗ったりと緊迫しながらも「シーソーモンスター」のように軽快にコミカルに進んでいく。

これまたエンタメ一直線の娯楽作品かと思いきや、中盤で水戸の過去の記憶が明らかになっていくらへんから不穏な空気が漂い始めてくる。そして最後は序盤の雰囲気からは予想も出来ない結末に。

中盤までと終盤で大分温度差を感じますね。コメディからシリアスに様変わりといいますか。

 

伊坂さんの軽妙な語り口って登場人物に愛着を持ってしまうので、こういう展開されると辛い・・・。

ただ、水戸と終始行動を共にしている中尊寺さんが途中悪役に変貌するとかがなくて良かった(昔の研究はともかく)。割とそこの部分ドキドキしながら読んでいましたね。中尊寺さんは水戸が状況的にずっとすがっている人物で、これまた魅力的に描かれていたので・・・。

 

一縷の希望はあるものの、読後感はモヤモヤしたものになっていてスッキリはしない。「シーソーモンスター」がひたすら痛快コメディだったぶん、より温度差と落差を感じますね。

 

 

 

 

 

 

以下、若干のネタバレ~

 

 

 

 

 

 

 

 

「対立」と「争い」

「シーソーモンスター」の宮子とセツがたどり着いた結論は「争いたくなる気持ちは分る。だけど、争わないほうが好ましい」というものでした。

双方の対立心を了解しつつ、適度な距離を模索して争わぬよう努める。

 

それに対して、「スピンモンスター」の水戸と檜山は「定められていることだ」といった具合に双方自ら対立して、争いを真っ向から受け入れることとなっている。

 

嫁姑と因縁のある若い男二人では関係性が異なるので、同じ「海族」と「山族」の対立でも違ってしまうのかなとは思いますが、それにしても水戸と檜山は何故進んで“そっち”に行ってしまうのかとやるせない気持ちになる。

 

「争いはすべての基礎」「ぶつかり合わなければ何も起きない」「現状維持と縮小こそ悪」「争いはなくならない。争い続けること自体が、目的なんだから」と、「スピンモンスター」では作中で語られています。

 

進化するためには争いが必要だということを説いている訳で、たしかにそれはそうなんでしょう。争いがなければ文明の発展はなかった。現状維持のために誰も行動を起さず、口を噤むのであれば、出来上がるのはそう良い世界ではない。

 

しかし、人間も進化しているからには「対立」するにしても血を流すことを避ける遣り方を考えることが出来るはず。たとえ人工知能が、大きな何らかの力が、人と人との対立を煽ったとしても。

 

「スピンモンスター」では作中で一旦「シーソーモンスター」で示された“平和的解決”を否定しますが、最終的には同じ結論に帰結します。無理かもしれないけど、平和のために努力することは自由だし、大事。

 

対立する者同士でも相手を知ろうとすることで敵じゃなくなるかもしれないし、対立することで争いだけじゃないもっと別の何かが生み出されるかも。予測不能な人間の感情は完全無欠な人工知能の計算を崩すことも出来のではないか--。

 

 

しかしながら、「スピンモンスター」ではあくまでこのような希望が示されるところで終わっているので、人工知能が作っていく未来がどうなるのかは分らずじまいです。これは次の時代を描いている吉田篤弘さんの『天使も怪物も眠る夜』に持ち越しなんですかね。

 

 

 

〈螺旋プロジェクト〉は面白い企画だとは思いますが、約束事が多くって読んでいて「無理やり“入れているな”感」はどうしても否めないかなと。共通シーンや象徴モチーフはもっと少なくて良いのでは。「審判役」も、この本ではあまりいる必要性を感じなかった。

 

八作品読んだ方がより愉しめるようになっているとはいえ、雑誌に一挙掲載されているならともかく、各作家の本を買って読んでというのは正直大変ですよねぇ。個人的には『シーソーモンスター』だけで単体の作品として十分愉しめますし、補足するために読むにしても「シーソーモンスター」と「スピンモンスター」の間の時代にあたる朝井リョウさんの『死にがいを求めて生きているの』

 

 

 

と最終時間軸となる吉田篤弘さんの『天使も怪物も眠る夜』だけで良いのではと・・・。いや、出来たらやっぱり全部読んだ方が良いのでしょうけど。

 

 

Netflixでの映画はコメディアクションなんだそうです。アメリカでの映画化は意外ではありますが、「シーソーモンスター」は実写にはすごく向いていそうだなと思うので楽しみですね。

時代設定、舞台はどうするのですかねぇ。「スピンモンスター」の要素を入れるのかどうかも気になる。たぶん主でやるのは「シーソーモンスター」のストーリーのみじゃないかな~?ですけど。その方がコメディアクションとしてはまとまりますよね。

 

〈螺旋プロジェクト〉や映画化で気になった方は是非。

 

 

 

 

ではではまた~

「ホットサマー・マーサ」あらすじ・感想 “岸辺露伴は動かない”らしからぬ、仰天エピソード!

こんばんは、紫栞です。

今回は荒木飛呂彦さんの岸辺露伴は動かない エピソード#10 ホットサマー・マーサ』の感想を少し。

 

JOJO magazine 2022 SPRING (集英社ムック)

 

あらすじ

7月7日水曜日。漫画家の岸辺露伴は、担当編集者の泉京香とのリモート打ち合わせで新キャラクターのデザインに問題があるので止めた方が良いと指摘されていた。コロナ禍でろくに取材も行けずにイライラしていた露伴は指摘を突っぱね、愛犬のバキンを連れて散歩に出かける。

いつのまにか近所にある神社の境内に迷い込んだ露伴は、御神木の幹に石垣で隠された空洞があるのを見つけ、石垣をどかして覗く。内部は拝殿になっており、鏡が置いてあった。

 

好奇心が湧いてきつつも仕事のため家に戻ると、机の上にはキャラクターのデザインが変更された完成原稿が。他にも様々な異変を感じ、スマホの画面を見てみると10月7日と表示されていた。

三ヶ月時間が飛んだというのか?原因は御神木の拝殿に違いないと思った露伴は再び神社に。すると、宮司からそれは「藪箱法師」の仕業だと説明されるが――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちら、2022年3月に発売された集英社ムックJOJO magazine 2022 SPRING」という、

 

 

一冊丸々『ジョジョの奇妙な冒険』に関するものが掲載されているジョジョ専門雑誌”のために描き下ろされた読み切り漫画。ジョジョのスピンオフ漫画シリーズ『岸辺露伴は動かない』の新作です。※『岸辺露伴は動かない』がどんな作品か、詳しくはこちら↓

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ムック本に限らず、作者自身の書き下ろし漫画で“釣る”商品ってのは巷に溢れておりまして、釣っておいてほんの数ページしかなくってガッカリなんてことが多々ある訳ですが(それでもファンは“描き下ろし”と言われると買ってしまうものさ・・・)、この読み切りは71ページで大ボリューム。

カラーもありで、こんな言い方をするとアレですが、“釣り”にありがちなお茶を濁すような内容ではなく、ちゃんと、確り、面白いので、この漫画だけを目当てに購入しても満足できると思います。

 

この「ホットサマー・マーサ」のエピソードを2022年12月26日に放送の実写ドラマでやるということで、ドラマの前に原作読みたいなと思って買った次第です。

 

1650円はちょっとお高いですが、コミックス収録いつになるかわからんし・・・収録されるかもわからんし・・・。このムック本に収録されているのを知らないで、乙一さんの『野良犬イギ-』の単行本を買うという苦い経験もしているんですがね・・・。

 

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「ホットサマー・マーサ」というタイトルで「何のことだろう?スタンド名?」とか思ったのですが、「ホットサマー・マーサ」は露伴先生が漫画に登場させようとしているキャラクターの名前。

このキャラクターについて、泉くんに「著作権が色々面倒くさいことになるだろうからデザインを変えた方が良い」と言われる。

 

円三つのデザインがまずいって最初ピンとこなかったのですが、ミッ〇ーのことですね。ディ〇ニー関連はヤバイっていう都市伝説、確かに聞いたことあるなぁ。

 

上記したあらすじの通り、知らない間に原稿が完成していて、見てみたらホットサマー・マーサが円三つのデザインから円四つのデザインに変更されていたもんだから、どうにかしようと露伴先生が躍起になると。「そーゆーのは許せないんだよッ!」ってことです。ま、確かに作家としては許せないってなるのかな。まして露伴先生だし。

 

初っ端から子犬を飼っていたり、コロナ禍で参っていたり、マスク姿だったり、半泣きになったりと、岸辺露伴らしからぬ”事柄が目白押しでファンとしては「え?」の連続。ストーカーじみた女性ファンも絡んで、読み進めると岸辺露伴の行動としてはもっと信じがたい事も起こる。

これで岸辺露伴はこんなんじゃないッ!」とならずに「私の露伴先生への理解はまだまだ足りなかったッ!」ってなるのが荒木飛呂彦漫画の凄味だなと思う。そこにシビれるあこがれるぅ。

 

 

荒木先生が「キャラとしては大好きで傑作の出来」とまで言っていたものの、漫画では「富豪村」でしか登場していなかった編集者の泉京香が再登場。ドラマ同様の露伴先生とのやり取りが楽しめるので、ドラマから知った人も馴染みやすい物語になっているかと。

泉くんはドラマで更に魅力が向上したキャラクターですよねぇ。ドラマ版はもう泉くんがいないと嫌ですもん。

ドラマでは一貫して「泉くん」って露伴先生呼んでいますけど、この漫画では最初「泉くん」って言って、その後のシーンではずっと「京香くん」って言ってる。その時の気分で呼び方変えているのですかね。細かいことではありますが、気になってしまう・・・。

 

 

今作は荒木先生自身もドラマ版をだいぶ意識して描いたのではないかと思いますね。今年の3月に発表された新作を12月に放送という最速での映像化も読むと納得です。

 

 

初登場の愛犬・バキンが凄くかわいい。途中「ギャー!」ってことになりますけど。さすが犬に容赦ない荒木先生だなといった感じ。バキンという名前は曲亭馬琴からとっているのですかね。泉鏡花→泉京香もですが、小説家から名前をとるのをオキマリにしているのでしょうか。岸辺露伴幸田露伴からとってのものだと最近やっと気が付いた私・・・(^_^;)。

 

 

コロナ禍や過激なファンといった現実世界と地続きな事柄が描かれているのが今作の特色。

色々な奇譚が描かれてきたこのシリーズですが、今までは「私達のいる世界とは少し違う別の世界での出来事」って感じだったので、何やら新鮮。露伴先生も私達と同じようにコロナ禍に参ったりするのだなぁと感慨深い。思うように取材出来ないのが堪えるのですね。露伴先生はリアリティ第一主義ですから。

 

「イライラして失言しそうだ」という発言にはちょっと笑ってしまった。露伴先生的にはどっからが失言になるのだろうか。暴言はいつも言ってるけど。

 

 

しかしながら、いつもの独特な雰囲気と奇妙で先が予想出来ないストーリー展開は変わらずで、ちゃんと「岸辺露伴は動かない」を愉しませてくれる。ヘブンズ・ドアを使っての解決もお見事。

最後ですが、あくまで「戻す」のではなく「正す」なのですね。半年分ぶっ飛んでしまったのと、結局“アレ”がそのままだったのが気の毒だなぁと。半泣きするほど悔しがっていたのに・・・。

 

ミッ〇ー諸々、どのようにドラマ化してくれるのか楽しみです。私はもう、『岸辺露伴は動かない』のドラマに関しては全幅の信頼を寄せていますので。不安はまったくありませんね~。

 

JOJO magazine 2022 SPRING」には他にもアニメ制作についての特集、声優、役者のインタビュー、小説作品も収録されていますので、気になった方はドラマ鑑賞と一緒に是非。

 

 

 

ではではまた~

 

 

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『ライ麦畑の反逆児』あらすじ・感想 サリンジャー 隠遁生活の理由とは?

こんばんは、紫栞です。

今回は映画ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャーを観たので、感想を少し。

ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー(吹替版)

サリンジャーの伝記映画

原題が『Rebel in the Rye』のこちら、2017年に公開されたアメリカ映画。ライ麦畑でつかまえて』『バナナフィッシュにうってつけの日などで知られる小説家ジェローム・デイヴィット・サリンジャーの伝記映画です。

 

1950年に発表した『ライ麦畑でつかまえて』が爆発的にヒットし、世界的な有名作家となったサリンジャーですが、作品で知られる一方で、サリンジャーは人気絶頂期に表舞台から姿を消し、塀で囲まれた屋敷の中で隠遁生活をしたことでも有名。この映画は、サリンジャーが何故そのような生活を選ぶに至ったのかが描かれている物語。

2012年に刊行された評伝サリンジャー 生涯91年の真実』という本が元になっているらしいです。

 

 

作家を志して大学の創作講座に参加している青年期から、太平洋戦争で軍に入隊しての戦闘体験、除隊後に『ライ麦畑でつかまえて』を書き上げ一躍ベストセラー作家になるが、次第に世間の喧噪に背を向けるようになる――・・・と、いったサリンジャーの動向が順を追って描かれていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

ライ麦

戦争後遺症に苦しみ、それが作品に強い影響を与えているといわれるサリンジャー。この映画は神経衰弱で陸軍病院に居るサリンジャーが、大学の講師・バーネット先生、友人、恋人との日々を思い返すところから始まる。

この始まり方は完全に『ライ麦畑でつかまえて』での始まり方を意識したものですね。

 

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初っ端から“サリンジャーホールデン(『ライ麦畑でつかまえて』の主人公)”を印象づけてくる作り。

 

戦争体験や有名作家になってからの苦悩が大半を占める物語なのかと各サイトのあらすじを読んだ時は思っていたのですが、いざ観てみると軍に入隊する前の創作講座や青春部分が前半を占めているので思っていたほど息苦しい内容のものではなく、観やすかったです。

 

しかし、原題の『Rebel in the Rye』も、ほぼ直訳である邦題の『ライ麦畑の反逆児』もちょっとタイトルとしてはでかさないような。

映画の内容ともマッチしているとはいえないし、「どうしても“ライ麦畑”入れたいのかな~」感漂う。誰の伝記映画か分りやすくするためか、邦題だと更に“ひとりぼっちのサリンジャー”と付いていますが、これが更にいまいち感を醸し出している。

 

ライ麦畑でつかまえて』の原題は『The Catcher in the Rye』で直訳とは意味が異なるのですが、映画では吹き替えも字幕も『ライ麦畑でつかまえて』になっていましたね。日本では野崎孝さんの訳が有名なので、全体的に訳はそれに倣っているのかと。やはり『ライ麦畑でつかまえて』って邦題タイトルは素敵だなぁとしみじみ思う・・・。

 

 

サリンジャーの作品を読んでいなくとも映画としては愉しめる作りになっていますが、読んでいた方がやっぱり理解は深まるし、話ものみ込みやすいと思います。特に『ライ麦畑でつかまえて』についての言及は多いので、読んだ方が良いかと。映画を観た後で読んでも「ああ、そういうことだったのか」と納得出来て面白いのではないかと思う。

どっちが先でも後でも良いので、小説と映画、セットで愉しんで欲しいですね。

 

 

「創作とは、作家とは」を教えてくれた恩師のバーネット先生と、出版に関してずっと面倒を見てくれた女性編集者のドロシーとのやり取りが良かったです。ドロシーは短編集のナイン・ストーリーズの献辞で名前が書かれている人物ですね。

 

 

映画のサリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンよろしく、欺瞞を毛嫌いし、世間に対して常に批判的な感情を抱く人物ですが、この映画ではサリンジャーの周りの人物たち、バーネット先生、ドロシー、親友、母親、父親、妻、皆善良でちゃんとサリンジャーのことを思いやっているのが伝わってくるので、観ていて嫌な気持ちにならない。

だからこそ、サリンジャーが周りに背を向けるのがもどかしくなるのですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

自分のためだけの「創作」

苦しんだ末にやっと完成した長編小説『ライ麦畑でつかまえて』を出版しようと雑誌社に持ち込むのですが、持ち込んだ先々で自己を投影した主人公であるホールデンについて「まともじゃない」「おかしい」と言われてしまう。

なんとか出版したら驚くほどの大ヒット。しかし、すると今度は「ホールデンは僕なんです」と主張する厄介なファンが群がってくるように。

 

サリンジャーにとって、ホールデンは自分自身と等しい。サリンジャーにしてみれば、「貴方はイカレテる」「貴方は私です」と言われているようなもので、批評や解釈をされる度に戸惑い、世間と乖離していく。

最終的に、創作に邪魔なものはすべて取り除こうと環境を変え、人を遠ざけ、作品の発表もやめて、一人で引きこもって創作活動をするに至る訳です。

 

ここで思うのが、“発表しない創作の意義”ですね。小説だけでなく、通常文章を書くという行為は普く人に読ませる為、伝える為にされるもの。作者以外誰も読まない「作品」は「作品」だと言えるのか。発表しない「作家」は「作家」だと言えるのか。

 

私は、小説はやはり発表されて人に読まれてこそのものだと思っています。発表する以上、批評や解釈をされるのは当たり前のことだし、作者はそれを承知で作品を世に出している。そういったこと諸々を含めて「創作」なんだと。

 

しかしこの映画を観て、誰かの為とか何かのためではなく、「自分の為だけの、自分にだけ向けた創作」があっても良いではないかという気になりました。意義とか、「こうあるべき」といったものに縛られず、したいように、自分本位に生きてもいい。もちろん、そうできうる環境が整っていて、誰にも迷惑をかけないならって話ではありますが・・・。

執筆にとことん真摯に向きあった結果、孤独を選んで「自分だけが読む小説」の執筆に専念する。

表面的には世捨て人の落第した作家と捉えられるのでしょうが、純粋な“本当の作家”であるとも言えるのかも知れません。

 

 

なので、ずっと「出版がすべてよ」と言い続けてきたドロシーが、サリンジャーの意向を聞いてすんなりと「出版がすべてじゃないわ」と了承するシーンは一気に気持ちが軽くなるというか、救われたようでジーンときました。

序盤、終盤とバーネット先生とのやり取りでまとめられているのも良いですね。数年前の問いかけに「僕は喜んで書くよ」と答えて締めなのもまた良き。

 

 

淋しくはありますが、救いや許しも与えてくれる映画だと思いますので、気になった方は是非。

 

 

観る前、観た後でも良いので、『ライ麦畑でつかまえて』や『ナイン・ストーリーズ』も是非。

 

 

ではではまた~

『すべてがFになる』ネタバレ・考察 これを読まなきゃすべてが始まらない!傑作理系ミステリィ!

こんばんは、紫栞です。

今回は森博嗣さんのすべてがFになるをご紹介。

すべてがFになる THE PERFECT INSIDER S&Mシリーズ (講談社文庫)

 

あらすじ

コンピュータサイエンスの頂点に立つ天才プログラマ真賀田四季。彼女は十四歳のときに両親を殺害し、以降は孤島の研究施設の一室から一歩も出ない生活を十五年続けていた。

 

ゼミ旅行で教え子たちと共に孤島を訪れたN大学助教授・犀川創平は、教え子の一人である西之園萌絵に誘われて真賀田博四季士に会うべく研究施設を訪問する。

施設内の研究員によると、真賀田博士とは一週間いっさい連絡が取れておらず、博士が居るはずの部屋のドアもソフトの問題で開けられなくなっているという。

ソフトが復旧し、心配した研究員と犀川たちが博士の部屋に入ろうとしていた矢先、部屋からウエディングドレスを着た真賀田四季だと思われる死体がワゴンに乗せられて進み出て来た。

死体は両手両足が切断されており、明らかに他殺。博士の部屋の中を確認したが誰もおらず、室内の異常はコンピュータのディスプレイに「すべてがFになる」という謎の言葉が残されていたことのみ。

 

あまりに不可解な状況に困惑する犀川たちだったが、さらに研究所内で事件が発生して――。

 

 

 

 

 

 

 

理系ミステリの傑作

すべてがFになる』は1996年に刊行された長編小説。森博嗣さんのデビュー作であり、工学部建築学助教授の犀川創平と、その教え子である西之園萌絵が活躍する【S&Mシリーズ】の第一作。

 

今まで【S&Mシリーズ】について、

 

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森博嗣作品全体について、

 

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当ブログでまとめる度に森博嗣作品はこれを読まないと、とにかくすべてが始まらない!」と書いてきた訳ですが、いずれもサラッとふれる程度だったので、今回は『すべてがFになる』一作に絞って深堀していきたいなと。この間新作の『オメガ城の惨劇』

 

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を読んで『すべてがFになる』読み返したくなったからってことなのですけど。広大な森博嗣ワールドも終盤に差し掛かっていますので、ここらで第一作を振り返っておこうという訳です。

 

 

今作は第1回メフィスト賞受賞作。この賞の創設には京極夏彦さんが姑獲鳥の夏の原稿持ち込みで突如異例のデビューをした経緯が大いに関係しています。

 

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読んだ人なら分ると思いますが、『姑獲鳥の夏』は色々な意味で規格外な作品ですので、コレを受けて創設されたメフィスト賞の第1回受賞作品である『すべてがFになる』もとんでもない規格外な作品となっています。

 

メフィスト賞を象徴する作品の一つであり、科学・理科系分野の人間が活躍し、その分野が題材に使われている「理系ミステリ」(森博嗣風に言うなら「理系ミステリィ」)の代名詞的作品。日本ミステリ界に新しい風を吹き込んだ傑作です。

 

 

実はこの作品、当初はシリーズの一作目にする構成ではなかったところを、デビュー作はインパクトがあった方がいいとの編集部の意向でそうなったのだとか。

タイトルも「すべてがFになる日」だったものを編集部との話し合いで最終的に“日”が取れて『すべてがFになる』になったとのこと。

デビュー作だからこその衝撃と、この印象に残るタイトルが合わさって、森博嗣さんの代表作として定着したのだと思うので、編集部の思惑がドンピシャで当たったって感じですかね。こういう話聞くと、名作の誕生には作家一人だけでなく編集部の力が大いに関わっているのだなぁと感じる。

 

 

森博嗣作品は各シリーズが繋がり続けての広大なものであり、私は『すべてがFになる』を読んでしまったがために読者として長らくのお付き合いとなった訳ですが、今作は確り単独で愉しめる作品ですので(※近年の森博嗣作品は長年のファンでないと意味が分らないものも多い)、とりあえずの“お試し”というか、気負わずに読んでみて自分に合う合わないを見極めて欲しいですね。

 

 

 

 

以下、ネタバレ込みの解説・考察となりますので注意~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トロイの木馬

作中では三人殺されるんですが、やはり一番のメインは初っ端の密室殺人。

部屋のドアが突如開き、手足が切断された死体が進み出てくる派手な死体登場シーンから始まる事件ですが、この真賀田四季の部屋、どんなに調べてもコンピュータの記録に残らず、研究員らに気が付かれずに人が出入りすることは不可能。真賀田四季が部屋に入ってから十五年間、ずっと完全にそのように管理されている筋金入りの完全密室です。

 

端的に言うと、「一人しか居ないはずの密室に他者がどうやって入ったか」という謎。

部屋には本当に何の仕掛けもないので、どう考えても不可能だとなるところですが、部屋に居たのが“女性である”ということを踏まえると、「一人だったのに二人になる」状況が成立する。

それは妊娠、出産です。

 

真賀田四季は十四歳のとき、この部屋に入る前に妊娠していた。部屋の中で娘を出産し、部屋から娘を一歩も出すことなく十五年間育て続けた。

 

皆は部屋の中には真賀田四季一人だけが居るのだと思わされていたが、実は十五年間、部屋の中には真賀田四季とその娘、二人の人間が居た。なので、部屋のドアが開いたときに一つの死体が、その派手な死体登場で衆人の目を惹きつけている間にもう一人が出て行ったというのがこの密室殺人の真相なのです。

 

この発想は「トロイの木馬」を連想させるもので、作中でも読者へのヒントのように言及されています。敵の陣地に運び込まれた木馬の中には人が入っていた――部屋に入った女性の腹には胎児が宿っていた――と、いう訳です。

 

トロイの木馬」はコンピューターウイルスの名称としても有名なので、この発想とトリックは正に理系ミステリにピッタリ。ドンピシャ!やられた!って感じですね。

 

しかしながら、こんなトリック・・・規格外すぎる。現実にはそう言われたってにわかには信じられませんよねぇ・・・。

 

 

 

 

 

「F」の意味

この密室の真相だけをドンと言われても受け入れられるものではありません。もちろん、こうなるためのお膳立てというか、緻密な計算が組まれていた訳です。なんせこの計画は、人類でもっとも神に近い天才と言われた真賀田四季によるものなのですから。

 

計画を紐解くヒントとして残されていたメッセージがすべてがFになる。これは真賀田四季が誰かに気づいてもらおうと意図的に残したもの。誰も追いつけない程の天才となると、態々自分が不利になるようなものを残したくなるものなのですかね。

 

このメッセージでの「F」が何を表しているのかというと、フィフティーン。「15」のこと。

「すべてが15になる」って何?って話ですが、16進法では「15」の数字をアルファベットの「F」で表記する。

ここら辺の数字の説明が難しいところなのですが、真賀田四季はあの部屋から死体と共に出るために、その日、その時間になると研究所内がシステムエラーを起すようにセットしており、65535時間後に起こるようになっていた。「65535」という単精度型整数は16進法で表記すると「FFFF」。

 

「0000からカウントを始めて、すべての桁がFになるまで数えていた・・・・・・。全部の桁がFになるまで数える、それが時限装置だったんだ」

 

65535時間・・・つまり、七年以上前から真賀田四季はこの事件を起すことを予定していた。読み進めてみるともっと以前、両親殺害の罪で逮捕され、十五年前に部屋に入ったその時には既に、この事件を起すつもりでいたのだと明らかになる。

 

 

 

 

 

 

真賀田四季

十四歳の少女が十五年後に事件を起すべくプログラムを組む。その常人には理解しがたい計画の目的は何なのかというと、「娘に殺されること」。

 

真賀田四季が産んだ娘の父親は叔父の進藤清二で、両親を殺すことになったのも叔父との関係がバレてのことでした。

「何してんだ叔父!!」で、けしからんですね。あまりに規格外なことだらけなので薄れますが、恋愛とか血のつながりとかよく分っていない十四歳の娘(※天才ではあるものの、四季はこちらの知識は誰も教えてくれなかったためからっきしだった)を孕ませるなんて絶対に許してはいけない大人ですよ!

 

進藤は研究所の所長で、今作での第二の被害者です。「二番目に進藤清二が殺される」これもまた十五年前からの計画されていたことで、進藤清二もそのことは承知していました。

 

つまりこの計画は、“娘に両親を殺害させるための計画”

 

あの部屋の中で、真賀田四季は自分を殺させるために娘を育てていた。

長い時間をかけての緻密な、実行日時が予め定められた計画。

しかし、結果的に殺されたのは娘の方でした。

 

「名前のない十四歳の自分の娘を、真賀田博士は殺したんです・・・・・・。博士の子供は、普通の子供だった。天才ではない。母親を殺すことができない。母親の思想を理解できなかったのです・・・・・・」

 

娘がそうだったように、読者にも真賀田四季の思想は理解できない。十五年かけての“死ぬため”の計画を、自分が部屋を出るための計画に変更し、進藤を殺害。研究所から逃げるために予定になかった研究員の山根さんをも殺害して、警察からまんまと逃げおおせる・・・・・・・。

 

あまりに矛盾した行動。そもそも何でこんな大掛かりでまどろっこしい“殺される計画”を立てたのかも今作だけじゃよくわかりませんしね。“自分が死ぬ日のためのスケジュールがとても贅沢だ”的なことは言っていますが。

 

 

どうして自殺しないのだと犀川に聞かれ、四季は「たぶん、他の方に殺されたいのね・・・・・・」と答える。

 

「自分の人生を他人に干渉してもらいたい。それが、愛されたいという言葉の意味ではありませんか?犀川先生・・・・・・。自分の意思で生まれてくる生命はありません。他人の干渉によって死ぬというのは、自分の意思でなく生まれたものの、本能的な欲求ではないでしょうか?」

 

うーむ。今読み返してみると、真賀田四季もこの時はまだ人間的だなといった感じですね。“そういう欲求”がまだ残っていたのだなと。他人巻き込んで死のうとする傍迷惑な人って度々ニュースになっていたりしますが、こういう心理なんでしょうか。

 

今作の事件背景に関しては『四季』で語られていますので、

 

 

 

天才の思想をもっと知りたかったらこちらを。これを読んだからといって納得出来る「理解」は保証しないのですけどね。凡人の限界を感じさせられる・・・。

 

第一作のこの時点では単に“天才の殺人犯”という認識しかないですが、この後、真賀田四季は神様街道まっしぐらですから。

「人類でもっとも神に近い天才」ってこの時点で書かれていますが、まさか本当に文字通りの神様になると誰が思うよ・・・。

 

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個人的に、「水の中では煙草が吸えない」っていう発言が気に入ったという理由だけで四季が犀川先生に度々干渉してくることになっているというのが洒落ていて良いなとずっと思っています。

【Vシリーズ】の紅子さんもですが、天才過ぎて何でも予測ができてしまう真賀田四季にとっては、相手に予想外の発言をされるだけで“お気に入り”になるのですね。

 

 

単純に理系ミステリというだけでなく、森博嗣作品は一般論に対しての逆説的・別方向からの思考で「なるほど、そういう考え方もあるのか」と、いつも新鮮な気づきや驚きを理知的に、淡々と、低温で、与えてくれるのが魅力的。

 

人によって好き嫌いがハッキリする作風でしょうし、構想もあまりに壮大で追うのは大変ではありますが、今作が気に入ったなら「森ミステリィ」の深みにどっぷり嵌まってみては如何でしょうか。

 

 

 

 

ではではまた~

『カッコウの卵は誰のもの』原作 ドラマ 疑問 諸々感想

こんばんは、紫栞です。

今回は、東野圭吾さんのカッコウの卵は誰のもの』について感想を少し。

カッコウの卵は誰のもの (光文社文庫)

あらすじ

かつてはオリンピックにも数回出場したトップスキーヤーだった緋田宏昌の娘・風美は、幼い頃から目覚ましい才能を発揮し、宏昌以上のスキーヤーに成長しつつあった。

高校を卒業し、風美は「新世開発」に入社。すると、「新世開発スポーツ科学研究所」の副所長で、才能と遺伝子の関係を研究している柚木が「あなたたち親子の遺伝子を科学的に調べさせて欲しい」としつこく宏昌にアプローチしてくるようになった。

宏昌は「才能に遺伝は関係ない」と柚木への協力を拒み続ける。

風美の才能は、宏昌とは何の関係もない。風美は宏昌の実子ではなく、妻がよそから“盗ってきた”子なのだから。宏昌は妻の死後にその事実を知り、苦悩し続けていたのだ。

 

そんな中、風美の大会出場を辞退させろという脅迫状が「新世開発」に届き、宏昌の前には「風美さんのことで話がある」と会社社長の上条伸行が現われた。さらに、風美の合宿先でバス事故が発生して――。

 

 

 

 

 

 

 

 

こちら、2010年刊行の長編小説。2016年にWOWOWで連続ドラマ化もされています。

 

 

WOWOWはよく東野圭吾作品ドラマ化していますね~。

 

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「才能」をテーマに、「脅迫状とバス事件の犯人追及」と「風美の出生の謎」を解き明かすストーリー。タイトルから察することが出来ると思いますが、事件内容諸々をカッコウの習性である托卵で表しています。

 

主な語り手は宏昌柚木で、合間にスポーツ遺伝子を持っているからっていう理由でスカウトされて、父親の就職先の面倒と引き換えに渋々スキー競技をすることになった鳥越伸吾の語りが入っています。

ミステリだけでなく、スキー競技についても多く描かれている物語ですね。主役は宏昌って感じですが、調査能力を発揮するのは柚木の方。

 

この柚木、悪い人ではないのですが、スポーツ遺伝子の研究にのめり込んでいるためか「才能」「遺伝」とうるさい。選手としては頑張って練習している横で「生まれ持った才能が~」とかばっかり言われるとそりゃ面白くなかろうと思う。努力して出した結果を「才能」の一言で済ませてしまうのですからね。嬉しくないし腹立たしいですわ。

 

「才能がない」という言葉を使って逃げるな!などと指導の場では言われたりする。スポ根根性。努力至上主義。結果が出ないのは、努力が足りないから。

しかしながら、努力で補えない壁というものがあるのは否定出来ない事実。努力はもちろん必要だが、世界的な選手となるには「才能」と呼ばれるものが必要。凡人が納得するための都合の良い言葉として「才能」が使われている部分ももちろんあると思いますが。「努力できるかどうかも才能のうち」という言葉もある。

 

 

作中の柚木はスポーツの才能を“身体能力が生まれつきどれ程優れているか”ではかっている訳で、その証明として外国人選手に比べて日本人選手は身体の違いで活躍出来ていないじゃないかなどと言うのですが、個人的にはスポーツ競技はそもそもの競技にふれる機会、環境、精神力、運など、「これだけが理由!」ってものではなく、もっと総合的なものだろうと思う。

 

身体能力の優れている人物を見つけ出し、その能力に適した競技をさせて才能を伸ばしてあげることが本人にとっての幸福であるはずだと柚木は信じて研究していたし、デリカシーのない事も言っていたのですが、「才能」で人生を曲げられて不服な様子の伸吾をみて考えが少し変わる。

 

自分が欲しがっているものが、皆が欲しがるものとは限らないってことですね。

とはいえ、作中の伸吾がそうだったように、嫌々やらされ始めたことでも練習の成果が出れば愉しさを見出して気持ちが追いついてくるということもあるかと。どんな事でも上手く出来れば嬉しいものですしね。結局、「自分で選んだ」って気持ちが大事ってことでしょうか。

カッコウの卵」、金の卵である“金”、「才能」は本人のもので、どうするのも本人自身。

 

 

 

 

 

 

 

おかしい

「才能」がテーマなのは分りますが、ミステリ部分との折り合いがいまいちなのか、掘り下げきれていない印象。

ミステリ部分にしても、トリックがあるようなものではなく単に意外な繋がり、意外な犯人といったもので推理小説的な愉しさもそこまで。無理があるところも多い。

何の接点もない人物に犯行を頼むのは現実的じゃないし、同時期に偶々三人の女性が妊娠していたとか、真相と奥さんが自殺した理由が噛み合わないなど。

 

一番違和感があるのは、ちょっと怪我させたいという動機でバスにあんな仕掛けをする犯行計画ですね。

運転手さん巻き込むのが前提なの酷すぎるし、結局一人死亡者が出ているし。

 

こんな犯行をしておいて、“あなたや風美さんには、何ひとつ非はありません。そういう人たちを不幸な目に遭わせることは私の本意ではないのです。”って・・・何を言っているんだ。おかしすぎる。

 

真相部分を犯人の独白や手紙ですべて説明してしまっているのも、やっぱり手抜き感がありますね。東野圭吾作品って、割とコレやりがちですけど・・・。

“意外な犯人”ってのも、意外っていうか、単純に出番が少なすぎるだけではって気も。コレもやっぱり東野圭吾作品でやりがち・・・。

 

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手紙に従って宏昌がした最後の選択も、個人的には釈然としないですね。手紙の内容に感謝していたけど、それは感謝すべきところなのか?いつかはバレるって思いますしねぇ。読者としては、これで「良かった良かった」とはならないのですが。

 

 

 

 

 

 

ドラマ

2016年のドラマでは風美が主役になっているなど、かなり原作からは変更されています。変更のお陰で、これら原作での疑問点、明らかにおかしい部分がカバーされているし、犯人の思想も「才能」が強く関係していて、心情も犯行理由も物語のテーマもドラマでの方がしっくりくる。全体的にドラマの方が完成度は高いですかね。

この話で6話使うのは長過ぎ感はありますが。補うためか、選手の葛藤などが多めに描かれている。本格的なスキーシーンが見応えあります。

 

しかし、最終回は盛り上げるためとはいえちょっと無理があるのではって感じでしたけど。「前回とはうってかわって体力あるね」みたいな。ま、ドラマオリジナルのあのシーンは良かったですけども。やはり解決シーンは直接対面が良い。

 

原作より犯人当ては容易です。と、いうか、毎回のエンドロールのキャスト順で犯人丸わかりなんではって気が・・・。

 

宏昌の選択も原作とは真逆のものですが、やっぱりこの方がしっくりくる。ちゃんと「良かった良かった」となりますよ。

毎回、お話の最初と最後に「カッコウが、雛鳥が、云々~」と内容を表すナレーション(?)が入っていたので、個人的には最後もそれで締めて欲しかった。

 

 

原作小説とドラマ、気になった方は是非。

 

 

 

 

 

ではではまた~

 

 

 

 

『屍人荘の殺人』映画 “ひどい”をネタバレ・考察

こんばんは、紫栞です。

今回は、映画『屍人荘の殺人』(しじんそうのさつじん)について感想を少々。

屍人荘の殺人

 

今村晶弘さんの長編推理小説が原作のこちらの映画、公開されたのは2019年で前に当ブログで原作小説の紹介をしたのですが↓

 

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今更ながら映画を観たので思ったところを少し。

 

以下、映画及び原作小説のネタバレ含みますのでご注意~。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

予想通りの酷評

まずこの映画、各サイトのレビューが散々に酷評されております。公開直後も今現在もそうです。

しかし、それは原作を読んでいて、映画の役者三人がそろったメインビジュアルとコミカルなCMを目にした人なら予想がつく評価なのですよね。「ああ、これじゃあ原作未読の人は“思っていたのと違う!”ってなるだろうなぁ・・・」と。

 

トリオものの定番ミステリで、コメディタッチの映画――そう思って観ると、この映画はことごとく期待を裏切ってくることになる。それは原作を読んだ人間からすると明白なこと。

 

それというのも、この『屍人荘の殺人』は途中で突如として脈絡もなくゾンビと化した者たちに襲われるトンデモ展開となる。

それだけでなく、ホームズ役の一人だと思っていた明智さん(中村倫也)が最初のゾンビ騒動の時点で襲われて早々と退場してしまう。

メインである殺人事件が起きるのは館に数名が逃げ込んでからなので、明智さんは実質事件に参加しないに等しい。当然ながら出番はほぼなしということに。

 

これが、役者の中村倫也さん目当てで観に行った人にとっては受け入れがたいだろうなと。

 

明智さんが序盤で退場してしまうのは、原作小説でも驚きポイントの一つ。

メインの探偵役だと思っていた人物が“あんなこと”になってしまうというのは、ゾンビが出て来るのと同様、いやそれ以上に、読者に衝撃を与える展開で度肝を抜かれる訳です。

デビュー作の小説でやられるなら「斬新なストーリー展開だなぁ」で済みますが(明智さん、少しの登場だけど良い感じのキャラクターだったので私は悲しかったですけどね・・・)、映画で人気役者を起用、メインどころのように触れ回っていたのに蓋を開けたらこれでは、そりゃ役者のファンは文句言いたくなりますよね。

 

映画の制作側としては、原作での驚きを“どう考えてもメインの一人だろう主役級俳優”をキャスティングすることで再現しようとしたのだと思います。メインビジュアルもCMも原作に倣っての“引っ掛け”のつもりなのでしょう。

 

でも、如何せん映画でこれをやられると・・・レンタルや配信で観た人はともかく、映画館で観るのはそれなりの労力とお金がかかりますからね・・・。驚きよりも文句を言いたい気持ちの方が勝ろうというものです。

 

それに加えて予想外のゾンビ登場でのパニック・ホラー的展開に戸惑う人ももちろんいるだろうと。ミステリは好きでもパニック・ホラーが苦手な人はいますからね。苦手なのに観に行ってしまった人は「言っといてよ!」って、これまた文句言いたくなるでしょう。

 

 

 

 

予想以上の酷評

そんな訳で、レビューの低評価の嵐を見ても「そりゃそうなるよね」と一人納得していたのですが、「でも私は原作完読済みだし、全部了解していて心構えも出来ているから!」と、低評価を知りながらも大丈夫だろうと観てみたのです。

 

結果・・・予想の範囲を上回る酷さ加減でした。観終わった直後に凄い怒ってしまった。

 

原作が好きだから許せない!という怒りではなくって、「映画作品」としての出来が酷い。

変更点は多々あるものの大体のストーリーは原作通りだし、役者も良いのだが、演出ですべてを台無しにしてしまっている。

 

 

『99・9』などで知られる監督の木村ひさしさんは、独特のコミカルな小ネタなどを入れる演出をされる監督さんで、この映画でも変わらずにそのような演出を自身の持ち味だと思ってか入れているのですが、これがことごとく作品にミスマッチでスベって見える。何も笑えない。

 

だってそもそも笑える状況じゃないですからね。

明智さんは目の前であんなことになっちゃったし、館の周りはゾンビが囲んでいていつバリケードを破って入ってくるかも分らない、館の中は中で殺人事件が起きている。

なのに、葉村君(神木隆之介)は比留子さん(浜辺美波)にドギマギして終始デレデレ。慕っていた明智さんが目の前であんなことになった直後でのこの葉村君の態度は不自然だし、人間性を疑ってしまう。

 

全体的に不謹慎な感じが漂っていて、コミカルな場面をやられる度に不快になってしまうのですよね。ゾンビにとどめを刺す瞬間をレントゲン写真(?)で表現しているのも個人的には凄く嫌でした。

 

実を言うと、原作小説でも少しこういったコミカルシーンはありました。原作を読んでいてもミスマッチで浮いているので余計だと感じていた部分が、映画だと増大されてしまっていたので悪い意味で驚き。

木村さんのコミカル演出自体が独特で、一歩引いて客観的にみると「これのなにが面白いんだ?」なシュールさなので、元々人を選ぶんですよね。そのくせこの映画は画面が暗くてBGMが少なめなので、鑑賞者の“おいてけぼり感”が際立つ。

 

私は原作の比留子さんがさほど好きではないのでアレですけれども、特徴的なファッションさせたり、妙な口調で喋らせたり、変なポーズとらせたりと、妙ちくりんな人物設定の変更も終始疑問でしたね。ま、かわいいから見ていられるんだけど・・・。

 

 

ゾンビシーンが思いの外長いのに、元凶であるウィルスをばらまいた斑目機関」に関して映画ではノータッチだったのも鑑賞者を困惑させるところかと。

 

原作は、コテコテの本格推理小説→かと思ったらゾンビ登場で予想を裏切る→だけどやっぱり本格推理小説

といった、特殊設定ミステリ。

特殊な設定を踏まえてあくまで論理的思考を愉しむ、奇抜ながらも実のところは古式ゆかしいゴリゴリの本格推理モノなのですが、映画だとなんの脈略もなくいきなりゾンビが登場し、意味不明に緊迫した展開になった印象が強いので、「なぜゾンビ?」って感じで、単に閉鎖空間をつくるためだけにゾンビが機能しているような勘違いをしている人もいるようです。

解決部分をちゃんと観ていればゾンビがいる特殊設定だからこその殺人事件でしっかり作り込まれていることが分るはずなのですが。ゾンビに関しての“ルール説明”が映画だとサラッとしているからですかね。特殊設定ものはルールが大事・・・!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最悪な最後

一番酷いのはなんと言ってもラストシーンです。ゾンビ化した明智さんが葉村君を襲って、比留子さんが「あげない。彼は私のワトソンだ」といって明智さんの頭を槍でぶっさして終わり。

「えええ!?ここで終わり!?」とポカンとしているところで、Perfumeさんの場違いにポップなエンディングが流れてさらにポカン。もう、最悪です。

もちろん、曲が悪いのではありません。このラストシーン後にこの曲を流す、そのセンスが最悪。

 

 

原作にもあるシーンなのですが、状況が全然違いましたし、ラストシーンではありませんでした。

なんでこれをラストに持ってくる?信じられない。本当に何がしたいのか分らない映画。

 

明智さんの最後の言葉、口パク部分が気になる人も多いようですが、原作から考えるなら「うまくいかないもんだな」だと思います。あのシーンで言うセリフではなく、作中で印象的に言っているセリフなんですけど。

ゾンビになると知性は失われるはずなので、完全にゾンビになっているこの状況で言うのはおかしいのですが・・・もはや考察する気力もおきない。

私にとってはそんな気分になる最悪な最後でした。

 

 

原作はシリーズ化して続編がでていますが、

 

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映画はどんなもんでしょうか。

 

キャストは良いので、演出を見直してくれるなら或は・・・ですが。そう考えると、本当に残念ですね。原作小説はミステリ界の話題を攫った高評価の作品なんですよ・・・。

 

 

色々言ってしまいましたが、そこまで言うなんて逆に気になるよって方は是非。

 

 

 

ではではまた~

 

 

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