夜ふかし閑談

夜更けの無駄話。おもにミステリー中心に小説、漫画、ドラマ、映画などの紹介・感想をお届けします

『アヒルと鴨のコインロッカー』小説・映画 ネタバレ解説 タイトルの意味とは?

こんばんは、紫栞です。

今回は伊坂幸太郎さんのアヒルと鴨のコインロッカーをご紹介。

 

アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)

あらすじ

大学新入生の椎名は、引っ越してきたばかりのアパートでボブ・ディランの『風に吹かれて』を口ずさんでいた最中に隣人の青年・河崎に声をかけられる。河崎は初対面の椎名にいきなり「一緒に本屋を襲わないか」と持ちかけられる。なんでも、同じアパートに住んでいる外国人留学生が彼女と別れて落ち込んでいるので、広辞苑を盗んでプレゼントしたいのだという。

あまりにも訳のわからない、おかしな誘い。相手にする気など無かった椎名だったが、悪魔めいた印象の河崎に押し切られ、乗せられて、決行の夜にモデルガンを持って書店の裏口に立ってしまった。

 

強盗をした実感のないままに事は終わり、翌日になって、椎名は大学で河崎から「もし会うことがあっても信じるな」と忠告を受けていたペットショップ店長の麗子と出会う。椎名は麗子から、河崎と、ペットショップ店員の琴美、ブータン人のドルジ、三人の二年前の物語を聞かされることとなり――。

 

 

 

 

 

 

本屋強盗とペット殺し

アヒルと鴨のコインロッカー』は2003年に刊行された、伊坂幸太郎さんの5作目の長編小説で、第25回吉川英治文学新人賞受賞作。名作といわれ、映画化もされた、伊坂幸太郎さんの初期の代表作です。

2016年以降はほさかようさんの脚本で何度か舞台化もされているようですね。2021年1月からの公演も予定されていたようですが、コロナで全公演中止になってしまったようです。

 

 

〈現在〉と〈二年前〉の出来事が交互に描かれる構成で、〈現在〉は大学生の椎名の視点、〈二年前〉はペットショップ店員の琴美の視点で描かれています。

 

〈現在〉では、上記のあらすじのように椎名が河崎に奇妙な本屋強盗に付き合わされる顛末が、〈二年前〉ではペットショップ店員の琴美が、町を騒がしていたペット殺しの犯人たちと出会い、付け狙われることとなってしまって――と、いう話がそれぞれ展開される。

 

〈二年前〉に登場するのは琴美の他に、琴美の恋人であるブータン人のドルジ、琴美の元彼で女たらしの河崎、ペットショップ店長で琴美の雇い主の麗子さん。

〈現在〉の椎名もですが、どの登場人物も魅力的でやり取りも面白いです。琴美の正義感ゆえの危うさは読んでいてヒヤヒヤしましたが。個人的に麗子さんがイチオシ人物。

 

人物が一部共通しているものの、「本屋を襲って広辞苑を1冊盗む」という妙な計画と、二年前のペット殺しに纏わる話がどう繋がるのか、読者は最初困惑して読み進めることとなるのですが、終盤には様々な断片が綺麗に繋がり、驚きの真相が待ち構えている。

 

微妙に突拍子もない事柄、軽快な語り口、独自の洒落た世界観に、見事などんでん返し、切なさ漂う結末・・・・・・と、これぞ伊坂幸太郎作品だ!という小説となっております。

 

伊坂さんの作品では楽曲が印象的に使われることが多いのですが、

 

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今作ではボブ・ディランの声が「神様の声」として重要な役割を担っています。「人を慰めるような、告発するような、不思議な声だろ。あれが神様の声だよ」とのこと。こう書かれると実際に曲を聴きたくなっちゃいますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下ガッツリとネタバレ~(映画

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヒルと鴨

終盤に明らかになる事実、それは〈現在〉で椎名と接していた河崎は〈二年前〉の河崎ではなく、琴美の恋人だったブータン人のドルジだったこと。ドルジは椎名に自分は河崎だと名乗り、外国人であることを隠して日本人として振る舞っていたのです。

〈二年前〉はカタコトの日本語で“いかにも”外国人という印象だったドルジですが、二年間で日本語会話を徹底的に勉強して流暢に喋れるようになっていたという訳。会話に特化した習得をしたので、漢字などは読めないといったところが作中に伏線として散りばめられています。

 

どんでん返しミステリには性別・時代設定・場所の誤認、同一人物と見せかけて別人、別人と見せかけて同一人物、など様々なパターンがありますが、今作は日本人だと見せかけて外国人だというトリック。

〈現在〉の椎名視点のパートと、〈二年前〉の琴美視点のパートで出てくる「河崎」は別人で、〈二年前〉のパートに主要人物として登場しているドルジが〈現在〉で〈二年前〉の「河崎」を演じているというのが今作での仕掛けになっているのですが、この事が驚きの真相となるのは〈現在〉の椎名の視点が入るからこそ。

 

「君は、彼らの物語に飛び入り参加している」

 

と、作中で麗子さんが言うように、この物語は元々、琴美、ドルジ、河崎の三人の物語。全く関係のない、飛び入り参加の椎名の視点が入ることで、ミステリとして初めて成り立つ構成になっています。

 

 

二年前、ファーストフード店にペット惨殺犯人たちがいるのを見付けた琴美とドルジは警察に通報したが、駆け付けた警察に気が付いた犯人たちは店の裏口から慌てて逃亡。店の外で様子を伺っていた琴美は、突然飛び出してきた犯人たちの車に轢かれて死んでしまう。

轢いた勢いで車が傾き、道路に停まっていた木材を積んでいたトラックにぶつかって犯人たちも二人死亡したが、一人は生き残った。生き残った犯人の一人・江尻は警察に捕まったものの、共犯の二人が死んだのをいいことに、自分はただの使い走りだったと主張して執行猶予になった。

琴美が死んでしまい、ひどく落ち込んでいたドルジと河崎は、新聞の記事に出ていた写真から江尻が父親の経営する本屋で働いていることを知る。反省している様子がまったくない江尻の姿に、河崎はドルジと共に閉店間際の本屋で江尻を襲う計画を立てるが、計画を実行する前に発案者だった河崎が突然死んでしまう。

琴美も河崎も死んでしまい、残されたのは「二人で本屋を襲う計画」だけ。

二人を喪った悲しみと江尻への憎しみが募りつつも、ドルジは途方に暮れていました。そんなところに現われたのが、ボブ・ディランの『風に吹かれて』を口ずさんでいた椎名。生前、河崎はボブ・ディランのことを「神様の声だ」と言っていました。“きっかけ”を与えられたように感じたドルジは、河崎と行う予定だった計画を椎名と行うことにする。本来の江尻を殺すという目的を伏せ、「広辞苑を盗むため」と偽って。

琴美が死んだときの状況から、ドルジは店の裏口から江尻に逃げられるような事態になることはどうしても嫌だった。裏口を見張ってくれる人物が必要だったのです。

 

椎名の前で日本人を装ったのは、外国人だと知られたら相手にされないと思ったから。外国人留学生として日本にやってきたドルジは、日本人の外国人への無意識的な差別をよく承知していました。「河崎」だと名乗って生前の彼を真似した言動をしていたのは、「河崎」がドルジにとっての日本語の先生で、最も親しかった日本人男性で、なおかつ計画を遂行するために“別人になりたかった”から。

 

 

タイトルの「アヒルと鴨」というのは、外国人と日本人を表すものです。〈二年前〉、アヒルと鴨の違いをドルジに尋ねられた琴美が「(アヒルは外国から来たやつで、鴨はもとから日本にいるやつ)」と大雑把に説明する会話を受けてのもの。

 

「(もしそうなら、僕と琴美は、アヒルと鴨だけど)」

ヒルと鴨か。悪くない表現だな、とわたしは思った。よく似ている動物にも思えるけど、実際にはぜんぜん違う。

 

 

 

 

 

世の中は、滅茶苦茶

ドルジが生まれ育った国、ブータンチベット仏教の国で、因果応報と輪廻が強く信じられているのだそうな。善いことをすれば、いつか報われる。悪いことをすれば、全部自分に戻ってくる。たとえ今世では大丈夫でも、来世でしっぺ返しがくる。

死んでも、生まれ変わるから怖くない、悲しくない。

 

そうやって人生を穏やかに送っていたブータン人のドルジですが、理不尽な出来事で琴美が死に、河崎も死んでしまって、元凶である裁かれるべき罪人の江尻が楽しそうに笑っている姿を見て、今までのブータン人としての思想や死生観は崩れてしまう。

世の中は、綺麗に因果応報に出来てはいない。実際は、世の中は、滅茶苦茶

 

来世でしっぺ返しがくると謳われても、現実に目の前で圧倒的に理不尽なことが起こってしまえば「不公平だ」と憤る気持ちは抑えられないし、生まれ変わるから悲しくないと思っていたはずでも、実際に大事な人が死んでしまえばどうしようもなく悲しい。

 

ブータンで信じていたものが分からなくなったドルジは、“ブータン人である自分”を切り離し、「河崎」という別人になることで本屋襲撃計画を実行する。「神様の声」であるボブ・ディランを口ずさんでいた椎名と共に。

 

 

 

 

 

 

映画

アヒルと鴨のコインロッカー』は2007年に実写映画化されました。

 

アヒルと鴨のコインロッカー

アヒルと鴨のコインロッカー

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

どんでん返しの仕掛けがあるのに、どうやって映像化するんだ!?と、原作を読んだ人間は思うところですが、映画では前半に出る〈二年前〉の回想にはドルジ田村圭さん、河崎瑛太さんで見せて、事の真相が判明した後の回想ではドルジ瑛太さん、河崎松田龍平さんで“本当の回想”として改めて見せるという、割と直球の表現方法になっていました。

椎名(濱田岳)の大学の同級生役で岡田将生さんが、バスの運転手役で眞島秀和さんが出演していて今見るとビックリする。どちらもほんの数分の出演ですね。眞島さんにいたっては一回目観たときは気が付かなくって、エンドロールに名前があって驚いて巻き戻した・・・(^_^;)

 

演出も役者さんの演技も素晴らしく、この映画も原作同様に非常に評価の高い作品です。

比較的、原作を忠実に再現しているといえる映画になっていますが、二時間という時間内にストーリーを纏まりよく、分かりやすくするように所々変更点があります。どれも映画としてみせるならこの方が良いと思える変更ですね。

 

 

原作と映画で大きく違うのは主に二つあって、その一つが河崎の死因

色男で複数の女性と交際していた河崎がHIV に感染しまったという設定は同じなのですが(琴美とは肉体関係を持つ前に別れたので、気楽に接することが出来る人物としてちょくちょく会いに来ていた)、原作だと前に交際していた女性がエイズで死んだと知って、自分がうつしたからだと思った末の自殺でした。映画だと、ドルジと一緒に本屋を襲おうとしたまさにその時に、病状が悪化してそのまま死んでしまうというふうに変更されています。

原作でも本屋襲撃計画実行前に河崎が自殺してしまうというのは、ちょっと唐突で違和感がありましたし、映画のあの流れで原作通りに自殺という事柄を出すと妙な感じになるので、この変更は良かったと思います。

病院に連れて行く途中の車での場面が悲痛でやるせなくって。この場面があることで、その後、ドルジが河崎として振る舞って本屋襲撃計画をやり直そうとする心情が理解しやすくなっているかと。

 

 

 

 

コインロッカー

もう一つの大きな違いは、ラストの、ボブ・ディランの曲がエンドレスで流れる状態にしたラジカセをコインロッカーに入れて鍵を掛ける、“神様を閉じ込める”場面。

これは、〈二年前〉にペット惨殺犯人たちに暴力で対抗したことを悔いたドルジに琴美が言った「神様を閉じ込めて、全部なかったことにしてもらえばいいって」という台詞を受けてのおまじない的行為なのですが、原作だと神様を閉じ込めるのがドルジなのに対し、映画では椎名が神様を閉じ込めています。

場面自体は忠実な再現なのですが、役割を交代することで原作と映画ではラストの捉え方が大きく異なることとなる。

 

本屋襲撃で江尻を殴りつけたものの、江尻は死にませんでした。殺すつもりだったドルジはここで予定を変更。椎名に気が付かれないように江尻を本屋から運び出し、海の近くにある林の木に足を刺して縛りつけて、カラスに食べさせようとしました。

鳥葬を模した行為で因果応報を試したかったのか、すぐに死なしてしまっては報いが足りないと思ったのか・・・。

相当に衰弱していたものの、江尻は発見されて一命を取り留めました。結果的に殺人未遂ということになり、麗子さんは自首をすすめますが、ドルジは返答を濁す。

で、コインロッカーでの例の場面となる訳ですが、原作のようにドルジが神様を閉じ込めるとなると、これ、見方によっては自分の罪を逃れたいというふうに捉えられますよね。映画では椎名が神様を閉じ込めることで、“友人からの気の利いた慰め”といったものになっている。自首する必要はないと言いたい訳ではないが、神様にちょっとしたお目こぼしを願うくらいは友人としていいだろ――と、いったものに。

 

椎名は、ずっと「彼ら三人の物語」に飛び入り参加していた部外者の立場でしたが、ラストに椎名がドルジの前で神様を閉じ込めることで、“ドルジと椎名のコインロッカー”に、ドルジと椎名の、「二人の物語」に成った。と、映画の方だとよりタイトルに繋がる意味合いが強くなっていると思いますね。

映画のキャッチコピーである「神さま、この話だけは見ないでほしい。」がまた秀逸。

 

 

 

原作も映画も、神様を閉じ込めた後に犬を助けるために道路に飛び出したドルジがどうなったのかはハッキリと描かれてしません。

因果応報だというなら、ドルジは殺人未遂の罰が当たって死んでしまったのか・・・と、なるところですが、世の中が滅茶苦茶だということは三人を襲った悲劇から証明されているし、神様は閉じ込めたしねぇ。

深く考えず、読者や視聴者の好きなように解釈していいのではないかと思います。個人的には、ドルジと椎名にはまた再会して欲しいと願っていますが。

描ききらない濁したラストがまた良いですね。映画の、ボブ・ディラン『風に吹かれて』が流れるエンディングは何とも言えない余韻を残してくれます。なるほど、人を慰めるような、告発するような、不思議な声、神様の声、か・・・。

 

 

 

原作と映画、どちらも名作ですので、気になった方は是非。

 

 

 

 

アヒルと鴨のコインロッカー

アヒルと鴨のコインロッカー

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 

ではではまた~

『後巷説百物語』6編 あらすじ・解説 シリーズ第三弾。百介の百物語、完結!

こんばんは、紫栞です。

今回は京極夏彦さんの『後(のちの)巷説百物語をご紹介。

後巷説百物語 「巷説百物語」シリーズ (角川文庫)

 

“あれ”から四十年後

江戸時代を舞台に、御行の又市率いる一味が公には出来ぬ厄介事の始末を金で請け負い、妖怪譚を利用した仕掛けで八方丸く収めていく一話完結型の妖怪小説のシリーズ巷説百物語シリーズ】

 

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シリーズ第一弾巷説百物語

 

 

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第二弾『続(ぞく)巷説百物語

 

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に続いての第三弾が『後(のちの)巷説百物語』なのですが、今作は前二作とはかなり趣が異なります。

 

まず大きく違うのは、前作『続巷説百物語』の最後に収録されていた「老人火」で百介が又市たちと別れてから四十年後、文明開化の明治十年(1877年)が舞台であること。

年老いた百介は自らを「一白翁」と名乗り、薬研堀の九十九庵という閑居に遠縁の娘・小夜と一緒に暮らしていているのですが、この九十九庵に一白翁の博識頼りに元幕臣の若者四人が不可思議な事件を携え相談しに訪れて、百介はかつて又市たちが施した仕掛け話を逸話として若者たちに語り聞かせる――といった、百介の昔語りで物語は進んでいきます。

 

前二作の『巷説百物語』『続巷説百物語』はハッキリとした年代が分からずあやふやだったのですが、今作で正確な年代が記されていることで逆算して前二作で描かれた時代が明らかになるのもチェックポイント。

 

幕臣の若者四人は、貿易会社勤務で物語の中心的存在として描かれる笹村与次郎、奇談好きの東京警視庁一等巡査・矢作剣之進、洋行帰りのハイカラで小理屈ばかり捏ねる無職遊民・倉田正馬、いまだに侍然とした堅物の剣術使い・渋谷惣兵衛といった面々。

巡査である剣之進が「こんな奇っ怪な事件が起こった」と仲間内で話題に出して、四人であーだこーだ言った末に「このままじゃ埒が明かないから、不思議話にやたら詳しい一白翁に相談しに行こうぜ」となり、そこで一白翁から聞いた逸話をヒントに剣之進が事件解決の糸口を見出すというのが大体の毎度の流れ。おかげで剣之進は「不思議巡査」の異名を取るようになる。

こう書くと剣之進が出張っている物語のように思われるかもしれないですが、この四人の中で中心的存在として描かれるのはあくまで笹村与次郎で、百介の視点や語り以外は全て与次郎からの視点で描かれています。

 

笹村与次郎は前作『続巷説百物語』収録の「死神 或は七人みさき」で騒動の舞台となった北林藩の元江戸詰め藩士。あの騒動の後、義理堅いことに北林藩は百介に藩を救った恩人として恩賞金を月月渡していたらしく、与次郎はその恩賞金を届ける役目を任されていたことで一白翁こと百介と知り合い、御一新で藩士ではなくなった後も交流を続けているという設定。

かつて北林藩で又市たちが仕掛けた祟り話を、現実にあったこととして幼少から聞かされて育ったため、百介が語る怪奇譚も受け入れやすく、興味を惹かれるという土台があるのですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

各話、あらすじと解説

後巷説百物語』は六編収録。

 

巷説百物語シリーズ】で題材として採られている妖怪たちは全て、天保十二年(1841年)に刊行された竹原春泉の画、桃山人の文の『絵本百物語』から。

 

 

●赤えいの魚(あかえいのうお)

維新から時が経ち、世相の混乱が一段落した感がある明治十年(1877年)。笹村与次郎は矢作剣之進、倉田正馬、渋谷惣兵衛の前で半月前に酒の席で聞いた「ゑびすの顔が赤く染まると島が滅ぶ」という珍奇な伝説を語った。与次郎としては単に座持ちの与太話のつもりだったのだが、聞いた三人はこの話があり得ることか否かで議論を戦わせることになってしまい、埒が明かなくなった四人は薬研堀の九十九庵に住まう博識の老人・一白翁に意見を求めることにする。

一白翁こと山岡百介は若い頃、怪異譚を求めて諸国を巡っていた好事家であり、それは奇妙な体験談を沢山持っていた。相談を受けた一白翁は四十年前に自らが体験した「恵比寿の顔が赤く塗られただけで崩壊してしまった島」、戎島での怪異を語り始める。

 

四十年前、年に数回しか陸地から見ることが出来ない幻の島・戎島に偶然辿り着いてしまった百介は客として島親・甲兵衛に迎え入れられるが、戎島は掟が何よりも重んじられる島だった。島親に逆らってはならぬ、笑ってはならぬ、明かりを燈してはならぬ――掟を破ると恵比寿の顔が赤くなり、島が滅ぶのだという。

島親の狂人ともいうべき傍若無人な振る舞い、能面のような顔で一切感情を見せずに唯々従い続ける異様な島民の姿に百介は嫌悪と恐怖を感じるが、特徴な海流によって島から出ることは叶わない。絶望していた百介の前に“あの男”が現われる――。

 

 

「赤えいの魚」というのは、島だと思って船で近づいてみたならば、実は島ではなくって巨大な魚の背でしたよ~ってな怪異。

時系列としては、シリーズ第一弾『巷説百物語』に収録されている「柳女」の後、品川から江戸に戻る途中での出来事で、百介からすると十二件目の仕掛け仕事ですね。

 

個人的に、【巷説百物語シリーズ】のなかで一番怖いのがこのお話(今のところ)。この戎島が怖ろしくってですね、読んでいると地獄を覗いている気分になる。その恐怖ってのは、“理屈が通じない恐怖”。百介から、世間一般からすると、酷く異常で残虐な行いも戎島では普通で当たり前のこと。この島では異分子の百介の方が“おかしい”という扱いとなってしまう。

こんな島から生涯出られそうもないとあっちゃ、百介が身投げしたくなるのも分かるというもの。又市が来てくれて本当に良かったなぁと(^_^;)。

島親が退屈しのぎにやることがもはや地獄絵図で酷いもんですが、産まれた時から周りが感情を一切見せぬ能面顔で唯々自分の命令に従うだけというのは、気が狂う状況なのだろうなと思う。逆差別、最上級の差別なのでしょうね。

 

 

 

 

●天火(てんか)

両国近辺で不審火が続いていた最中、油商いの根本屋が全焼する事件が発生。下手人として挙げられたのは根本屋の後妻で、今までの不審火も全てこの女の仕業であろうと考えられたが、後妻は火を付けたのは五年前に亡くなった前妻で、前妻の顔をした火の玉が窓から飛び込んで主人を追い回したのだと奇怪な主張をしているという。

巡査の矢作剣之進は困り果て、与次郎たちに話を持ち込んだ後に一白翁に相談する。意見を求められた一白翁は「天は時に偶然を装って人に罰を与えることがある」と、過去に体験した「天火」に纏わる騒動を語り始める。

 

摂津のある村で、死人の遺恨の火である“顔のある火の玉”が飛ぶという怪火の噂を聞きつけた百介は村を訪れるが、怪事は既に霊験あらたかな六部・天行坊によって鎮められていた。たいそう村人の信頼を得ているらしき天行坊に会いに行ってみると、天行坊の正体は御行の又市だった。これはいつもの仕掛け仕事なのか?それとも――。 

 

「天火」というのは、またの名を“ぶらり火”。地面より五十五メートルあたりは魔道で、様々な悪鬼が住みついて災いをなすとかいわれる怪異。

時系列としては、シリーズ第一弾『巷説百物語』収録の「帷子辻」での後、百介からすると十四件目の仕掛け仕事ですね。

 

「帷子辻」での仕掛け仕事の後、又市はいつになく塞ぎ込んでいる様子で百介は面食らっていました。その直後にこの村での又市のらしからぬ振る舞いですから、仕掛け仕事なのか、それともマジなのか、判らなくなってしまう百介。

このお話ではなんと、又市が代官の妻に惚れられるという役回りをしています。本の中では又市の容姿についての言及はほぼ無いのですが、結構色男なんですかねぇ。

 

 

 

●手負蛇(ておいへび)

与次郎たち仲間内三人を集めて、巡査の矢作剣之進は「蛇というものは、果たしてどれ程活きるものなのであろう」と言い出す。なんでも、池袋の旧家が祀る蛇塚で男が蛇に噛み殺される事件が起きたのだが、その蛇は七十年間石函の中に閉じ込められていたのだとしか思えぬというのだ。

行き詰まった与次郎たち四人は一白翁の元を訪れる。話を聞いた一白翁はどこか嬉しそうな様子で事件を解き明かしてくれた。実は、一白翁は四十年前、当の蛇の祠を建てた場に居合わせていたのだという。祠を建てたのは事触れの治平で、封印の札を貼り蛇入りの石函を設置したのは御行の又市――。

一白翁は「祟りが生きていた」と意味の解らないことを言い、顔をほころばせる。

 

「手負蛇」というのは、蛇を半殺しにして放置しておくと夜に訪れて仇をなそうとするから、殺るならちゃんととどめを刺さないと駄目だよ~てな伝承。 

おそらく、時系列としては今作収録の「山男」と「五位の光」の間の出来事で、百介からすると十六件目の仕掛け仕事(たぶん)。

百介が初めて又市に依頼した仕事だったというこの事件。又市が三十年以上前に仕掛けた“祟り”が、文明開化の世の中にまだ有効だったことに「不思議なものですねえ」「久し振りに懐かしい人に会うたような気がしましてねえ」と微笑む老いた百介が切ない。

 

 

 

●山男(やまおとこ)

武蔵野の野方村の大百姓の一人娘・いねが行方不明になり、三年後、高尾山の麓附近の村外れで幼子を連れた状態で保護された。幼子はいねの子で間違いないようだったが、父親が誰かを尋ねると途端にいねは錯乱し、六尺を超す裸で毛むくじゃらの大男に自分は拐かされたのだと述べた。

三年前、神隠しに遭ったいねを捜す山狩りの際には野方村の男が一人、高野山の麓で刺殺体となって発見もされている。果たしてこれは山に住まうという「山男」の仕業なのか?

巡査の矢作剣之進が与次郎らと共に一白翁の元に相談に訪れると、話を聞いた一白翁はどこか哀しそうな様子で、かつて自分が遠州秋葉山で遭遇した山男騒動について語り始める。旅の途中に御行の又市、御燈の小右衛門とともに遠州に着いた百介は、山男が人を助けたという話と、山男が娘を攫って人を殺したという話を耳にして興味を引かれ、又市を伴って二つの事件が起きた白鞍村を訪れる。そこで、一年前に攫われて行方不明になっていた娘・お千代を洞穴の中の牢屋で見つける。その近くにはなぎ倒された巨木の下敷きとなった三人の男の死骸があった――。

 

「山男」というのは、まぁ、深山にいる鬼のような姿の大男。喋ったりはしないが、ときには村人を助けてくれたり力自慢をすることもあるってな伝承。

時系列としては、今作収録の「天火」の後の出来事で、百介からすると十五件目の仕掛け仕事ですね。

 

このお話では百介と一緒に住んでいる遠縁の娘だという小夜が一気に存在感を増しています。あまりに悲痛な事件を前に、真相を明かすかどうか迷う百介の背を小夜が押してくれるのですね。

このお話では時代によっての対処の違いが明確化されています。幕末の頃ならば仕掛けを用いての八方丸く収める方法も通ったが、文明開化の世では「理由はどうあれ、人殺しは罪」。顛末を明らかにして、罪人は正しく裁かなくてはならない。

そう在ってしかるべきだと思いつつも、百介は妖怪が役に立たなくなった世に淋しさを覚える。それは「巷説百物語」「続巷説百物語」と読んできた読者も同様ですね。

 

 

 

●五位の光(ごいのひかり)

摩訶不思議なる事件を次次に解決したことで「不思議巡査」として異名を取るまでになった巡査の矢作剣之進。その評判を聞きつけた元公卿の由良公房から、剣之進はある相談を持ち掛けられる。

四十年か五十年近くも昔、まだ三四歳の童であった由良公房卿は、山中で光る女に抱かれていた。女は公房卿を父親の胤房卿に抱き取らせ、その後大きな青鷺となって燐光のようなものを発しながら飛び去ったという。童の頃の曖昧な記憶であるため、公房卿自身も勘違いか妄想であろうと思っていたが、二十年後に信濃国を訪れた際に記憶と同じ場所を見付け、その地で再び光る女と出会ったというのだ。女の横には漆黒の塊であるような男が立っていた。漆黒の男は自らを八咫烏と名乗り、公房卿に此処は決して踏み込んではならぬ場所と告げた後、またしても青鷺に変じて飛び去ったという。

与次郎と剣之進から相談を受けた一白翁は「八咫烏」と聞いて動揺した様子を見せ、与次郎にかつての体験談を語り始める。それは、一白翁こと山岡百介が又市を手伝った最後の仕掛け仕事だった――。

 

「五位の光」という鷺の名は、五位の位階を鷺が授かったという故事からのもの。この鷺は夜発光してあたりを照らすのだとか。

時系列としては、シリーズ第二弾『続巷説百物語』に収録されている「老人火」の出来事の前で、百介からすると十七件目の仕掛け仕事ですね。

 

八咫烏」「青鷺」のワードが出て来て、前作の「老人火」を読んでいるだろう読者はテンションが上がる。百鬼夜行シリーズ】

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 との繋がりがある事柄も出て来て、京極夏彦ファンとしてはこれまたテンションが上がるお話。

元公卿の由良家は陰摩羅鬼の瑕 

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 で登場する一族で、健御名方の頭骨を御神体として崇める「南方衆」は狂骨の夢に登場する〈汚れた神主〉たちですね。

 

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又市が施した仕掛けが、昭和の世に起きた事件に影を落としていたことが解る仕組み。又市さんは罪深いお人ですよ。

このお話では少なくとも又市が二十年前までは確りと生きて、かつてと同じように狂言芝居をしていたことが発覚。自分が関わったことには、最後まで関わり続けるという又市の在り方を改めて知らされ、百介は自分のことも何処かで見ていてくれたのだろうかと涙を流す。

 

 

 

●風の神(かぜのかみ)

由良公房卿の子息・由良公篤が主催する孝悌塾の門下生たちの間で、化け物が本当に存在するか否かの議論が巻き起こり、それを確認するために百物語怪談会をしようという成り行きになった。ついては、百物語の正しい作法を教えてくれと公篤卿は父の公房卿を通して「不思議巡査」こと矢作剣之進に相談を持ちかける。

剣之進から話を聞き、与次郎は一白翁の居る九十九庵を訪れるが、庵には和田智弁という僧侶の先客がいた。和田智弁は一白翁と一緒に住んでいる娘・小夜の命を救った恩人であるという。

和田智弁が帰った後、与次郎はこの度の百物語怪談会について一白翁に意見を求めた。話を聞いた一白翁は与次郎に、自分にもその百物語怪談会で怪異を語らせてほしいと申し出る。さらには、ある人物を百物語の席に招いてはどうかと推薦してきた。

 

 九十九の怪異が語られ、最後の百話目、一白翁は「風の神」という話を語る。語り終わった後、引き起こされる怪事とは――。

 

「風の神」というのは、風に乗じて所々を廻り、人を見ると黄色い風を吹かせてくる。この風に当たると疫病による熱病を患ってしまうてな伝承。

十九件目、百介にとって正真正銘、最後の仕掛け仕事です。

 

シリーズ第一作目「小豆洗い」での百物語から始まった物語は、百物語によって終わる。

今まで百介が体験してきた巷説が語られ、仕掛けは「小豆洗い」とほぼ同様のもの。これ以上なく完璧で、完全な最終話となっていますね。

ここで登場する和田智弁は【百鬼夜行シリーズ】の鉄鼠の檻と関わりのある人物。

 

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由良公房卿が遭遇した青鷺、この百物語怪談会でのエピソードは百鬼夜行-陽』に収録されている「青行燈」でも触れられています。

 

 

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以下ネタバレ~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小夜

四十年前、「老人火」での一件以降、百介は死んだように生きてきました。それほど百介の中では又市達と過した数年は“生きた”日々だった訳です。菅丘李山の名で戯作を開版し、生駒屋でほとんど閉じこもった生活を送っていた百介の前に、元治元年になって小夜が現われる。

小夜は幼い頃は母・りんと共に漂泊する山の民として生きていた娘でしたが、八歳の時に母が山中で暴漢に殺害されてしまい、遺体の横で衰弱していたところを臨済宗貫首である和田智弁に保護されたのですが、小夜が首から提げていたお守り袋の中には百介の戯作の奥付が入っており、そこには又市の字で「信用出来るご仁也。窮した際は頼るべし。からす」と記されていた。

“頼れ”と記されていたことに胸が熱くなり、百介は小夜を引き取って育てることにする。そうして禅師に連れられてやって来た幼い娘・小夜の顔はおぎんに生き写しでした。殺害されたりんはおぎんの娘で、小夜はおぎんの孫なのだと百介は悟る。

 

又市達と過した日日。その時期が虚構ではなかったことを、小夜の存在は何よりも雄弁に示してくれる。生きているのか死んでいるのか判らない、いや、死んでいるようにただ生き永らえている百介にとって、小夜は大事な宝物なのである。

 

そんな訳で、生駒屋を出て九十九庵で小夜と共に十年以上暮らしてきたと最終話の「風の神」で明かされています。

おぎんに子供というのも驚きですが、果たして子供の父親は誰なのか・・・おぎんの娘であるとして、りんはどのような経緯で山の民として生活していたのか・・・非常に気になるところですが、今作では分からずじまいです。

しかし、又市が深く関わっていることは間違いない。じゃあ、あの後又市とおぎんが・・・?う~ん。どうなのでしょう。

 

 

 

百物語とは

 

中途半端のどっちつかず。筑羅が沖の態。

 

虚構と現実の真ん中あたりに、どっちつかずの場を作る。

そうした呪術が百物語です。

 

と、百介は語る。

 

百介はシリーズ内でずっと、彼方と此方、表と裏の境界で迷う人物として描かれてきました。表の世界に完全に腰を据えることが出来ず、裏の世界に惹かれるものの、完全に一線を踏み越える覚悟はない。

「老人火」での一件で又市達と別れた百介は、自分は裏の世界で生きることは出来ないのだと決定的に思い知らされ、以後、生きてはいるけれど、どこか死んだように四十年もの時を過してきた。

 

又市達と過した一時期に於いては、百介自身が百物語だったのだ。百介の前で又市達が騙る度、どっちつかずの筑羅が沖は彼岸に揺れ此岸に戻った。そうして次次と怪異が生まれた。

怪を語れば怪至る。将にそうだったのだ。

 

百物語本の開版を夢見て諸国を巡って怪異端を蒐集していた百介ですが、戯作を開版して物書きになったものの、結局百物語本は開版しませんでした。

自分で見聞きしたものごとでも、書き記してしまえば物語。

百物語自身であった百介は、百物語を終えるのが厭で、思い出の中で保留していたのですね。

 

最後、百介は百物語怪談会で又市達との体験を語ることで“物語”にし、幕を閉じる。百介の百物語は今作『後巷説百物語』で完全に完結となります。

 

 

 

終わり

この『後巷説百物語』は八十過ぎの老人となった百介の昔語りの態で展開していく本。百介は達観した老人になっているし、又市達は昔話の登場人物として語られるだけで、又市以外の他の一味は台詞もまともにない。くわえて、文明開化の世で妖怪は不要となりつつあるなど、シリーズを読んできた読者としてはこの本全体がなんとも淋しいものだと感じることと思います。

 

しかしながら、今作は単に置いていかれた老人の回顧譚で終わってはいない。ただの“お話のなかの人”だった又市は「手負蛇」「山男」「五位の光」と徐々に現実の人物として浮上し、「風の神」で現世に立ち現れ、最後の仕掛けである百介の百物語の片をつける。

何ともいとおしく、あたたかで感慨深いラストは思わず泣けてきてしまいます。

 

「妖怪てェのは、土地に湧くもの時代に湧くもの。場所や時世を間違えちゃ、何の役にも立ちゃしないのサ。御行の又市は妖怪遣いで御座んしょう。ならばこの時世に相応しいモノを遣うに決まっている」

 

憑物は憑けるだけでなく、落とせなくてはならない。「妖怪遣いの物語」の後は「憑物落とし」の物語へ。

ここに至って【百鬼夜行シリーズ】と関連する事柄が出てくるのも、時世への繋がりが示されているということなのでしょうかね。

 

百介はここで退場となりますが、妖怪遣いの物語はまだまだ広がり続けます。シリーズの時系列では最終となる『後巷説百物語』の次は、妖怪遣い誕生の“始まりの物語”『前(さきの)巷説百物語』へ、いざ!

 

 

 

 

ではではまた~

 

 

 

 

 

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『人間昆虫記』ネタバレ・解説 手塚治虫が描く悪女の生き様

こんばんは、紫栞です。

今回は手塚治虫さんの『人間昆虫記』をご紹介。

 

人間昆虫記 1

 

 

あらすじ

恒例の芥川賞の授賞式がプリンスホテルで行われた。受賞したのは十村十枝子(本名、臼場かげり)。十枝子の堂々とした美しい姿がテレビで放送されているのをみながら、彼女の本名と同名の女・臼場かげりはアパートで首を吊って死亡した。

 

十村十枝子――彼女の名が新聞や雑誌をにぎわし始めたのは七年ほど前。

最初は「劇団テアトル・クラウ」の若手ナンバーワン女優として名を馳せた。あっさりと劇団を辞めた後には突如としてデザインの分野に進出し、国際的な評価を持つニューヨーク・デザイン・アカデミー賞を受賞。そして今度は、手なぐさみに書いたという処女作「人間昆虫記」で芥川賞をも射とめてしまった。

 

二十代前半の若く美しい女にそんな違った分野の才能がいくつも――マスコミは彼女に「才女」の冠をささげ、嫉妬と憧憬を抱き、いったいどんな女なのかと関心を寄せる。

 

授賞式の後に十枝子を訪ねてきた水野遼太郎との話の内容を立ち聞きし、同名の女が自殺したことを知った雑誌記者の青草亀太郎は、十枝子が何か妙な過去を持っていると勘ぐり、授賞式後に生まれ故郷の田舎へ向かう十枝子の後をつける。

そこで青草は異様な光景を目撃。コレをネタに十枝子と二人で会う約束を取り付けるが、約束の当日、青草の前に「劇団テアトル・クラウ」の元演出家・蜂須賀兵六が現われ、「彼女に近づくな」と忠告をする。

 

青草は蜂須賀から、十枝子は模倣の天才で、他人の能力を完璧に真似し、作品を盗み全てを奪うことでのし上がってきた寄生虫のような女だと聞かされるが――。

 

 

 

 

 

 

 

 

一人の悪女の物語

『人間昆虫記』は1970年~1971年にかけて「プレイコミック」で連載された漫画作品。

十村十枝子という一人の悪女の生き様と、彼女に群がり、翻弄され奪われていく者たちをとおして、喰うか喰われるかの人間社会を昆虫世界になぞらえて風刺している物語。

手塚治虫によるピカレスクものの代表としてよく名が挙げられる、大人向け漫画をバンバンと描いていた後期の作品群の中でも比較的有名な作品だと思います。

奇子

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『MW-ムウ』

 

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と、当ブログで紹介してきたので、『人間昆虫記』もやらないと!とか思って今回初めて読んでみた次第。

 

個人的に、こちらも『奇子』などと同様に、題名は知っていたけど十代の頃は変にビビって手を出さなかった作品。前評判などでやっぱり「子どもに読ませるものじゃない」とか言われていましたし、『人間昆虫記』というタイトルがなんだか怖くって。「昆虫標本の人間版みたいなものか?」と、勝手にとんでもなくグロテスクで猟奇的な想像を当時はしていたのですよね。長じてからそんなグロいお話ではないようだと知ったのですが。

しかし、文学においては共感と嫌悪感の双方を抱かせるような人物が“グロテスク”と考えられるらしく、その意味では『人間昆虫記』の主役・十村十枝子は正に、とんでもなくグロテスクだと言える。

後で調べて思ったのですが、タイトルは1963年の映画『にっぽん昆虫記』からの連想も少なからずあったのかもしれないですね。

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連載されていた1970年代は高度経済成長期の終わりかけで、左翼やら無差別テロ、中国の文化大革命などのさまざまな暗いニュースが報道されるなか、日本が経済成長のために躍起になっているという、慌ただしく、不条理で、そしてどこか空虚な時代だったのだそうな。この作品ではそういった時代背景も色濃く反映されています。

「その陰と陽の不条理な時代に、マキャベリアンとしてたくましく生きていく一人の女をえがいてみたいと思ったのです」

と、講談社刊の手塚治虫漫画全集『人間昆虫記』に収録されているあとがきで作者は語っています。※手塚治虫文庫全集にもあとがきは収録されています。全1巻。

 

 

私は秋田文庫版で読みました。全1巻。

  

 

 

他、手塚プロダクションから出している電子書籍など。こちらは全2巻。

 

 

 

『人間昆虫記』も、お高い《雑誌オリジナル版》が刊行されています。

 

 

雑誌掲載時のカラー扉絵やコミックス未収録ページ、予告や毎回の「あらすじ」も完全収録された、マニア向けの豪華版ですね。

奇子』や『MW-ムウ』では《雑誌オリジナル版》にコミックスとは異なるエンディングが収録されていたりしますが、『人間昆虫記』は雑誌掲載時と単行本とでエンディングに差はないようです。

手塚治虫は単行本刊行時に描き直しをすることが多い漫画家なのですが、『人間昆虫記』ではしなかったようですね。それだけこの作品の纏まり方に満足していたということでしょうか。

 

 

『人間昆虫記』は2011年にWOWOWでテレビドラマ化もされています。全7話。

 

 

 

漫画の方だと、同姓同名の小説家志望だった臼場かげりと何があったのかはハッキリと書かれていなくて、「同姓同名設定にした意味とかあるのか?」と割と疑問なのですが、こちらのドラマだとそこら辺の顛末も描かれているようです。

 

 

 

 

 

模倣の天才

『人間昆虫記』は春蟬(はるぜみ)の章浮塵子(うんか)の章天牛(かみきり)の章螽蟖(きりぎりす)の章の、四つの章で構成されています。どれも虫の名前ですね。

主要登場人物の名前も昆虫の名をもじったものになっています。徹底して昆虫まみれ。作者の手塚治虫は大の虫好きだったとあって、マニアックに細部を詰めたのでしょうね。章代や登場人物名に使っている昆虫名は、内容や人柄・役割などを表すものになっているのだと思います。なので、昆虫に詳しい人はより愉しめる内容かと。

 

主人公・十村十枝子の本名である臼場かげりはウスバカゲロウという虫の名をもじったものです。ウスバカゲロウはアリジゴクの成虫の名として有名。アリジゴクは罠を仕掛け、落ちてきた獲物に毒性の高い消化液を注入して死に至らしめるという怖ろしい虫。そして、ウスバカゲロウは卵から幼虫、蛹、成虫と、完全変態をする昆虫で、外見はトンボによく似ている。        

 

才能のある者にとりつき、能力をすいとり、作品を盗むことでのし上がっていく模倣の天才・十村十枝。

彼女は一つのものに囚われず、女優として、デザイナーとして、小説家として、名誉と賞賛を得ても、それらを惜しげもなく脱ぎ捨てて新しいものに挑戦し変容し続ける。まるで羽化し続ける蝶のように。

どんなに才能のある人間でも、何か一つ褒めそやされ評価されれば、成功体験を引きずって愛着や執着が湧き、簡単には手放すことは難しい。そもそもが好きで、得意で、やり始めたことでもあるのですからね。十枝子にはソレがない。だからこそ世間は驚くのですが、それは十枝子が他人の模倣をしているだけだから。昆虫の擬態のように身を守るためだけにやっていることで、本来が自分のものではないので、何の未練もなく捨てることが出来るという訳です。

 

「あなたは自分のモノは持っていない ただ ものすごく巧妙に他人(ひと)のモノをまねして自分のモノに奪ってしまうだけなんだ!」

 

と、作中雑誌記者の青草に糾弾されますが、言われた十枝子はキョトンとしている。(※コマの中で、十枝子の表情の横に本当に「キョトン」と書いてある)

十枝子にとって、自分のモノではないこと、“ホンモノではない”ことは何ら気にすることではないのです。彼女は本来の芸術家が求める「自分の中にあるものを創作・創造して表現したい」という気概は持っていないのですからね。

 

では、手段を選ばず、他人から全てを奪って、時には殺人までやってのけるのは名誉や出世欲のためなのかというとそれもまた違う。

 

十枝子が“ソレ”をするのは、模倣の天才的能力が自分にあるから。授かった能力だから使う、それだけのこと。計算ではなく、生き物としての生存本能でやっていることなのです。

 

劇団に所属している最中、有望なデザイナーである水野遼太郎と出会い、恋をした十枝子は、水野のアシスタントになるためにあっさりと劇団を退団する。水野と一緒にいたいという想いが第一にあっての行動だったのでしょうが、十枝子は結局水野のデザインを盗用して出し抜き、国際的な賞を受賞して水野に怒鳴られ、追い出されることに。

本当に愛している水野に対してまで、模倣して出し抜かずにはいられない。出来るからやった、当然のことだと悪びれもしない。

自然界の昆虫のように、本能で生きている女なのですね。不条理な文明社会に存在してしまったがために、十枝子はなんとも厄介な悪女として生きることになった。

 

創作・創造は、今日では全て先人の模倣から始まるものです。こんなに文明が進んでいる世界で、完全なオリジナルなど有り得ない。作者である手塚治虫だって、先人たちの様々な創作物から着想を得て漫画作品に昇華しているのですからね。十枝子の模倣能力はそれをおもいっきり誇張したものだともいえる。

 

 

 

 

 

 

 

以下ネタバレ~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水野・しじみ

水野に酷い仕打ちをしておきながら、その後も諦めきれずに想いをよせて口説き続けていた十枝子ですが、水野は商事会社社長の金文に紹介された「しじみ」という元芸者で十枝子と瓜二つの女と結婚する。

自分のことを振り続けていた男が、よりにもよって自分と同じ顔の女と結婚したとあって、十枝子はかなりのショックを受けます。十枝子は十枝子で、大企業の重役である釜石桐郎とゲームじみた契約結婚をしていたのですけどね。

 

最初は十枝子と同じ顔に惹かれてしじみと付き合いだした水野でしたが、次第に心底しじみを愛するようになります。しじみもまた、水野が自分に十枝子の亡霊をみているのだと気付きながらも水野を慕う。想い合う二人でしたが、しじみは実は幽門癌で余命幾ばくもない身体でした。

水野は知らされていませんでしたが、しじみは元々金文の愛人で、四回の堕胎で身体をボロボロにさせられ、お座敷に出れなくなり請け出された後は、昼間は金文の会社で働かされ、夜には娼婦として客をとらされるという、酷い扱いを受けてきた女性でした。親切ぶって水野としじみを引き合わせた金文でしたが、その実はいよいよ使い物にならなくなったしじみの厄介払いが目的だったのです。

 

しじみが死んでしまい、この話を知って憎しみを募らせた水野は金文を殺害。逮捕されて、そのままお話からフェードアウトしてしまいます。

 

しじみは因業な男に搾取され、オモチャにされるといった、この時代の社会に振り回される辛い女性像を表すような人物。この時代の女が社会に弄ばれずに生きていくには、マキャベリアンじみた、度を超えている程のたくましさがなければ無理だったのかもしれません。

 

「女ひとりでせいいっぱい生きていくってこんなにむなしいもんかしら」

 

群がるものに喰われて散々な人生を送ったものの、最後は水野に想われて満たされて死んでいったしじみと、群がるものを喰らって、誰もがうらやむ華々しい人生を送りながらも虚しく生きていく十枝子。

同じ顔で、まるで真逆の人生を歩んでいるしじみを対比的に描くことで、十枝子という女の社会の中での在り方が浮き彫りになっている。

 

 

 

母親

世間では「才女」として通っている十枝子ですが、実際は母親を唯一の心の拠り所としている平凡な田舎娘です。

 

母親は数年前に他界しているのですが、十枝子は生前の母親そっくりの蝋人形を故郷の実家に置き、何かある度にこの蝋人形相手に本音を吐き出して甘えている。裸になって、蝋人形のお乳を吸う真似をし、玩具箱のような部屋でおしゃぶりをすって寝ている姿はどこまでも異様です。

 

釜石とギャンブルな結婚をしていた最中、十枝子は悪戯に子どもを欲しがった釜石によって妊娠させられ、なんとかして堕ろそうと必死に知略をめぐらし、自分と瓜二つのしじみに協力させて堕胎します。とにかく、十枝子にとって自分が子どもを産むことなど以ての外なのです。

嫌なのは、子どもを産むことではなく「母親」になること。まだまだ母親にどっぷりと甘えていたい幼児だから、「母親」になって大人になり、自分以外の者のために生きるだなんて、十枝子にとっては考えることも出来ないことなのですね。

 

模倣するだけでなく、あらゆる策を練って世渡りをしている十枝子ですが、中身は子どもそのもの。完璧な悪女のように見えますが、やっていることは実は行き当たりばったりで、盗めると思えば盗むし、邪魔だと思えば殺すし、自分と競争しようとする者が現われれば勝って打ち負かそうとする。本能のままに生きているのも、子どもだから。

 

子どもである十枝子にとって、絶対的に信用出来るのは母親のみでした。十枝子が目的のためには殺人までいとわなくなったのは小説家デビューの一件からですが、このように手段がより過激になったのは母親が死んでしまったのが原因なのかも知れません。

 

 

 

オチ

ラスト、写真家の大和に玩具箱のような部屋で寝ている姿を見られた十枝子は、こんなにまで執着していた田舎の家と母親の蝋人形をあっさりと燃やして、前々から行きたがっていたギリシアへと旅立ち、大和から脅して奪い取った写真で、今度は写真家としてギリシアで成功を収めます。

拠り所にしていたものを一切棄て、本当に一人きりになった十枝子は、ギリシアの寂れた地に佇みながら、「私・・・・・・さみしいわ・・・・・・ふきとばされそう・・・・・・」と、呟いて物語は終わる。

 

どこまでも一人で生きていくことしか出来ない、十枝子の空虚さが滲み出る感慨深い終わり方ですね。

 

全てを知ってしまった写真家の大和ですが、破滅したり、死ぬことにまでならなくって良かったね、と思いました。写真盗られて悔しがっていましたけど、もともと十枝子が被写体のヌード写真なんだし、くれちまえよ、と。十枝子のそれまでの犠牲者たちの顛末から考えれば、大和はかなり難を逃れた方だと思いますね(^_^;)。

作中で毎度、十枝子についての解説者の役割をしてくれていた蜂須賀さんは最後やっぱり殺されちゃって「あぁ・・・」となった・・・。

 

いろいろ悪どいことをしているのに、裁かれずに野放しのまま終わっているので、今作は主人公の十村十枝子に感情移入出来るかどうかで、大きく評価が分かれる作品だと思います。

しかし、一気に読まされてしまう作品であることは間違いないので、気になった方は是非。

 

 

ではではまた~

 

 

 

 

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『スウェーデン館の謎』あらすじ・感想 雪の夜、館で起きた哀しい事件

こんばんは、紫栞です。

有栖川有栖さんのスウェーデン館の謎』をご紹介。

 

スウェーデン館の謎 〈国名シリーズ〉 (講談社文庫)

 

あらすじ

小説の取材で雪深い福島の裏磐梯のペンションに宿泊していたミステリ作家の有栖川有栖は、童話作家・乙川リュウの館、地元の人間がスウェーデン館と呼ぶログハウスに招かれる。

おいしいコーヒーとお菓子をごちそうになり、有名童話作家の主と美しい奥方、他の招待客らと共に楽しい語らいの時間を過し、その夜には乙川が「話足りなかったから」と、わざわざ北欧の酒を提げてペンションを訪ねてくれた。

旅先での良い思い出になったと喜び、スウェーデン館の人々との別れを惜しんでいた有栖だったが、翌朝になってスウェーデン館で客人のうちの一人が殺される事件が起こったことを知らされる。

館の離れで他殺遺体が発見されたのだが、外部犯の痕跡はなく、母屋と離れの間に犯人の足跡も見当たらないという不可解な現場だった。

訳のわからない事件を前に、名状しがたい不安感に襲われた有栖は、友人の犯罪社会学者・火村英生に応援を頼むが――。

 

 

 

 

 

 

定番!館・足跡

スウェーデン館の謎』は【作家アリスシリーズ(火村英生シリーズ)】

 

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の5冊目の本で、長編としては4冊目。また、講談社で刊行される【国名シリーズ】では2冊目の本となります。

  

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1995年刊行で、角川から刊行された長編『海のある奈良に死す』

 

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から2ヶ月後に発売された作品。

 

主にバレンタイン・デイである2月14日の長い1日が描かれており、雪深い中に建つ館が舞台。

ミステリで雪といったら足跡トリック!ってことで、館で殺人事件が起こって足跡の謎を解明するといった、本格推理小説の定番ものを堪能することが出来る作品になっています。パズルクイズや図解が挿入されていたりする点も、本格推理小説を読んでいる感を高まらせてくれる。

 

講談社ノベルス版と文庫版が出ていて、私が所有しているのは文庫の方なのですが、文庫版だと巻末に作家の宮部みゆきさんによる解説が収録されています。小説においての「探偵」の在り方を追求する興味深い解説もさることながら、宮部さんは大の火村ファンであるらしく、非常に愛が伝わってくる解説となっていて面白いです(^_^)。

 

 

 

好意?

旅先で事件に遭遇するのもこのシリーズの定番なのですが、今回はアリスが取材の為に一人旅行しているという状況からスタートで、探偵役の火村は後半からの登場になっています。

 

巨漢でバイカル海豹に似た容姿の童話作家・乙川リュウや館の客人たちと楽しく語らう中、アリスは、美しいスウェーデン人のヴェロニカ夫人に心惹かれる。

火村にからかわれたアリスは「好意やない、好感を持ったんや」と言いますが、まぁ、結構ヤバかった。アリスは不貞行為は勿論ダメだという当たり前の良識を持った男ですので、人妻に言い寄るようなことはしませんがね。

密かに憧れるに留めようと心の中で必死になっている様は、長年続いている【作家アリスシリーズ】の中でもこの作品でしかお目にかかることが出来ないアリスの姿です。

 

海豹のような容姿であるものの、館の主である乙川リュウは非常に女性にもてる人物で浮気癖があり、トラブルになったこともあると聞かされたアリスが、あんなに美人の妻がいながら許せん!バイカル海豹の分際で!と、心中で思ってしまい、いやいや、そんな失礼なことを思ってはいかんと考えを打ち消そうとして支離滅裂な文章になってしまうのが可笑しい。

とはいえ、事件の謎について考えるときにヴェロニカも容疑者から外しては考えないシビアなアリスですけど。推理作家の悲しい性なのか・・・(^^;)。

 

事件が起こり、にっちもさっちもいかない現状を打破しようと電話で火村を呼び寄せる訳ですが、ヴェロニカ夫人から不安を取り除くために火村の力を借りようというのがまずあったと。

 

朝っぱらに電話をかけてきて、無償でこれからちょいと福島に来てくれとか無茶ぶりする友人、普通なら相手しないだろうところですが、火村は電話の後すぐに新幹線二本と快速を乗り継いで風のように京都から遥々駆け付けてくれるのでした。まったく、そんなんだからアリスがどんどん付け上がる・・・(^_^;)。

 

 

 

 

 

 

 

 

以下ネタバレ~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「僕にまかせて」

乙川リュウとヴェロニカの夫妻には、三年前に幼い我が子・ルネを事故で亡くしています。一人で遊んでいる最中に沼に落ちての事故死でした。

綱木淑美から三年前のあの時、実は事故現場の近くに居合わせたが故意に助けなかったという告白を聞き、頭に血が昇ったヴェロニカは口論の末に淑美を殺害してしまう。

 

淑美はかつてリュウと不倫関係にあったのですが、淑美が本気になったらリュウは彼女から離れていった。諦めきれない淑美は三年前のあの日、リュウに復縁を求めましたが「君は僕の妻になれたとしても、ルネの母親は到底務まらない」とすげなく断られ、その直後に事故が発生。ルネが沼に落ちたのかも知れないと思いつつも、何もせずにその場を立ち去ってしまったというのが三年前の事故の秘密でした。

 

淑美を殺してしまい、しばし呆然としていたところにペンションから帰って来たリュウが現われる。ヴェロニカは自首を促してくれるものと思っていましたが、リュウ「僕にまかせて」と言って足跡トリックのアイディアをひねり出し、ヴェロニカに実行させた。

 

「(略)彼女は『そんなことはとてもできない』と答えました。その時、僕は言ったんですよ。『僕の前からいなくならないで欲しい。だからやってくれ』。それでもまだ躊躇っていたので、次にこう叱りました。『幸せな老後を送っている親父さんやおふくろを悲しませないでくれ。いつも、ずっと、そばにいてやってくれ』。――その二つが僕の本音でした。他人の命など知ったことか、というような醜悪な考えです」

 

と、まぁ、火村に真相を見破られ、妻が罪の告白をする姿を見て、乙川リュウは反省する。

 

ハイハイ、大いに反省して下さいといった感じですね。

息子を死なせることになったのも、妻が殺人者になってしまったのも、元はといえばリュウのせいです。全てが自分のせいなのに、何が「僕にまかせて」なのか。

執拗な元浮気相手と縁を切るのに幼いルネの存在を持ち出し、自首することを望む妻に年老いた親たちのこと持ち出して説得する。

自分のことを棚に上げた、他人を引き合いに出しての狡い、残酷な言い分で、なんだか詐欺師めいている。なぜか女性からモテると噂の人物だったらしいが、なるほど、どうやら口先でモテてきた男なのだなと想像させられますね。(いるよね、そういう人・・・)

 

「僕にまかせて」という言葉は、乙川リュウが自身の作品の中の登場人物に言わせる決めゼリフ。男らしさを表す素晴らしい言葉として作中で書いているらしいが、罪を犯し、悔いて自首しようとする妻に対して「僕にまかせて」と偽装工作を強要するのは親切ぶった押し付けでしかない。親切ぶっているぶん、悪質でもある。

“男らしさ”を説いていた人物が、蓋を開けてみればこの有り様だとは。“男らしさ”を説く滑稽さ、男の身勝手さを糾弾している側面も今作には込められているのではないかと思いますね。

 

 

 

 

 

何を言ったのか

罪の告白をするリュウに向け、火村は「愛する者を守るためなら自分も何だってやるだろう」「罪を犯してでも」と、犯罪者に対して一貫して厳しい立場をとっていた彼らしからぬことを言う。

 

私が驚くほど、火村はきっぱりと断言した。まるでそう語る彼の脳裏に、彼が全存在と引き換えにしてもいいと念じる具体的な誰かの顔を思い浮かべているかのようだった。

 

火村の過去、「俺自身が人を殺したいと思ったことがあるから」については、2021年現在も明かされていません。どんな過去なのか、読者は想像をたくましくするしかないのですが、シリーズファンである宮部みゆきさんは「火村センセが過去に誰かを殺そうとした問題には、絶対に女性が絡んでいるはず!」と、睨んでいるらしい。ついては、その運命の女性の名前を小説で出すときがきたらミユキってつけてくれと作者本人に懇願したことがあるのだとか。今作の解説で書かれています。宮部さん、ホントに火村ファンなのね・・・。

私も、思い人・大事な人に何かがあって火村は特定の人物に殺意を向けたのではないかとは思うのですが・・・どうなのでしょう?

 

エピローグで、アリスと共にルネが命を落した沼のほとりにきた火村は、アリスが脳裏で幻覚に浸っている最中に何かの言葉を口にする。アリスはそれが「愛する者を守るためなら自分も何だってやるだろう」と口走ったことに関する独白だったような気がして問い詰めますが、火村は「言ってねぇって」と教えてくれず、結局分からずじまいのまま終わっています。

 

過去を振り返っての独白のようでもあるし、彼岸に行きかけたアリスの意識を此方へ引き戻すために声を発したようでもある。これは本当のところはまったく分からないので、色々考察して楽しむのが良さそうですね。

 

 

 

封印された思い出 

ヴェロニカの不安を取り除こうと火村を呼び寄せたものの、結果としてヴェロニカを犯人として指摘することになってしまったこの事件。

アリスにとっても、火村にとっても、なんとも哀しく辛い事件として印象に残ることとなり、二人の間でスウェーデン館については封印された思い出となっています。イコールでバレンタイン・デイ自体も苦い思い出になっちゃってるのかな?永遠の34歳設定なので、その辺は分かりませんが…。

 

この終わり方の余韻が有栖川有栖作品の醍醐味なのですけどね。

ちょっと危うさはあるものの、トリックもパズル的で解ったときの爽快感があって私は好きです。

切なさや哀しさが目立つ作品ですが、雪をかぶってワチャワチャする二人のいつものやり取りなど、笑える場面もありますので是非。

 

 

ではではまた~

 

 

 

『私の頭が正常であったなら』8編 あらすじ・感想 失った者たちの奇談集

こんばんは、紫栞です。

今回は山白朝子さんの『私の頭が正常であったなら』をご紹介。

 

私の頭が正常であったなら (幽BOOKS)

『私の頭が正常であったなら』は2018年に刊行された短編集。2021年1月に文庫版も発売されました。文庫版だと宮部みゆきさんの解説が収録されているようです。

 

私の頭が正常であったなら (角川文庫)

私の頭が正常であったなら (角川文庫)

 

 

 時代小説である和泉蠟庵の道中記『エムブリヲ奇譚』『私のサイクロプスの2冊はシリーズ物ですが、『私の頭が正常であったなら』はノンシリーズの短編集。

ノンシリーズの短編集は2007年に刊行された『死者のための音楽』

 

死者のための音楽 (角川文庫)

死者のための音楽 (角川文庫)

 

 

以来、2冊目の短編集で、山白朝子個人名義の本としては4冊目。

 

「山白朝子」は作家・乙一さんの別名義。

 

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主に怪談雑誌『幽』で書くときに使われる名義なため、山白朝子での作品は奇談短編が大半となっています。怖いだけでなく、どこか哀しさがある作風が特徴。(中田永一名義だと青春・爽やか系が多い)

本の帯に中田永一氏絶賛!」と書かれているのは、いつものお遊び。

 

※各名義での合同本もあります↓

 

結構前に単行本で購入済みだったんですけど、読まずに放置してしまっていました(^^;)。今回やっと読んだので、あらすじや感想をまとめたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目次

全8編。いずれも何かを失った者たちによる、“喪失”の物語り“となっています。

 

●世界で一番、みじかい小説

突然、不気味な男の幽霊が見えるようになった夫婦のお話。

二人そろって怖がるのかと思いきや、慌てる旦那とは対照的に、ガチガチの理系頭である妻は「ただの心霊現象だから」と、落ち着き払っている。それどころか、幽霊相手に実験をしてみたり、観察をして記録をとるだのと妙な具合に。心霊現象の再発防止のため、幽霊の身元捜しを科学的に、論理的に試みるという趣向の短編。一風変わった推理モノですね。

“世界で一番みじかい小説”というのは、「For sale: baby shoes, never worn」。直訳で、「売ります:赤ちゃんの靴、未使用」という、たった六つの言葉で成立している小説。ヘミングウェイが執筆したものだとされることが多いらしいですが、もっと古くから似た文は存在しているらしく、正式な作者は不明。

突き止めた真相は恐ろしいものでしたが、出産前に子どもを失った夫婦にとっては、ちょっとした救いとなるもたらすものとなっている。

 

 

 

 

●首なし鶏、夜をゆく

叔母から虐待を受けているクラスメイトの少女が、首のない鶏を飼っているのを偶然知った主人公。少女の叔母に見つからぬよう、二人で首なし鶏を世話し始めるが――な、お話。

まずコレ、首なし鶏にビックリしてしまった。1940年代のアメリカで、首をはねられた後18ヶ月間生存していたとかで、「首なし鶏マイク」として世間や生物学者を騒がした有名な出来事らしい。私は全く知らなかったので、思わずネットで調べたら写真が出て来て驚いた(^_^;)。

 

最初はおかしなタイトルでコメディかななんて思いましたが、内容は怖くて哀しく、やりきれない気持ちになる。

 

 

 

●酩酊SF

彼女が酩酊し、意識混濁しているときに過去や未来が混濁して見えていることに気が付いたカップル。彼女のこの能力を利用して何とか金儲け出来ないものかと男は考えるが――な、お話。

深酒することにより、意識と一緒に時間も混濁するというアイディアが面白い作品。このような、“ちょっとした特殊能力・現象”のお話は乙一の十八番ですね。ページ数が限られているのを逆手にとり、登場人物が超即決だったり、ナチュラルにダメ人間だったりするのを、あえて簡素な説明ですまして可笑しみをだすのもまた乙一的。

ある人物がとても気の毒なことになっている。その後の人物たちの事を考えると空恐ろしいお話。

 

 

 

 

●布団の中の宇宙

長年のスランプ状態で妻子に出て行かれた小説家。金欠のため、中古の布団を買うが、その布団で寝る度に足先に何かが触れる感覚に陥るようになる。まるで布団の中だけ別世界と繋がっているかのごとき不思議体験に、小説家は無くしていた創作意欲を取り戻していくが――な、お話。

これまた“布団の中、足先だけで感じる不思議体験”といった面白アイディア。布団の中で感覚だけということで(?)、終盤は少し官能的な事態に。

「夢と現の境界線が布団の中で曖昧になる」というのは、朝、布団から出たくない、もっと寝ていたいという感覚を拡大させたものでしょうか。境界線に布団を使うというのが上手いですね。

布団の虜になったとき、人は・・・現実に戻れなくなる(^_^;)。

 

 

 

●子供を沈める

高校時代、いじめに加担してクラスメイトを死なせてしまった過去を持つ女性・カヲル。時が経ち、いじめのメンバーだった三人が、相次いで自分の産んだ子を一歳に満たないうちに殺害した。彼女たちの赤ん坊はいずれも死に追いやったクラスメイトの顔にそっくりだったという。その事実を知ったとき、カヲルは既に妊娠していて――な、お話。

 どんな状態でも産まれてきた子を愛せるのかがテーマのもので、非常に重い。バッドエンドではないのですが、この主人公の置かれている状況はこの先も非常に辛いものです。贖罪は一生掛けてするものだということなのでしょうね。

このタイトル、子宮に沈めるという映画を連想してしまいますね。


映画「子宮に沈める(Sunk into the Womb)」予告編 Trailer

虐待がテーマのもので、我が子を愛せるかという部分は共通している。

 

 

 

●トランシーバー

震災で妻と幼い息子を失った男性。焦燥の日々を過していたところ、生前、息子のお気に入りだったトランシーバーの玩具から、生きていた時そのままの息子の声が聞こえてくるようになり――な、お話。

2011年の東日本大震災で妻子を失ったという設定。残された者も前に進んで生きていかねばならない哀しみと苦悩が描かれる。読んでいて、あの震災からもう何年もたったのだなぁと実感させられますね。主人公が、トランシーバーの声を自分の願望による幻聴だと信じて疑わないところが辛い。完全におかしくなれた方が楽で幸せなのか・・・。

 

 

 

●私の頭が正常であったなら

元夫に目の前で愛する娘と共に無理心中され、精神を病んでしまった女性。母と妹の手助けにより、何とか病状が安定してきた矢先、日課にしている散歩の最中にいつも決まった場所で助けを求める子どもの声が聞こえるようになる。声は自分にだけ聞こえているらしい。精神を病んでいるが故の幻聴なのか、それとも本当に誰かが助けを求めている声なのか、彼女は真相を突き止めるためある実験を試みるが――な、お話。

まず、元夫が酷すぎて絶句してしまう。こんなことがあれば、精神を病まないほうが寧ろおかしいというもの。

主人公は自分で自分の頭が信用出来ていない常態のため、幻聴か否かの判断からして通常とは違う方法をとる事になる。“私の頭が正常かどうか”を憂慮しなくてはいけないという、皮肉な調査過程が描かれる訳ですね。

自分で自分を信用出来ない、“頭がおかしい人”として見られることの恐怖と、もどかしさが伝わる作品。

 

 

 

●おやすみなさい子どもたち

船の事故で死んでしまった少女。死に際、走馬燈を見るが、その走馬燈の記憶は他人のものだった。すると目の前に天使が現われ、「ここは死後の世界で、私たちは走馬燈を上映するのが仕事だが、何かの手違いで別人の走馬燈フィルムが流れてしまったようだ。ついては、貴女の走馬燈フィルムを探すのを手伝って欲しい」と言われ、一緒に探すこととなるが――な、お話。

死後の世界でのシステムが確りと決められていて、それの描かれ方が面白い作品。しかし、これらのイメージはすべて概念で形而上のものであり、その人の経験に一致する、理解が容易い形に変換されているとのこと。この話の主人公・アナはおそらくキリスト教的イメージで天使などを捉えていますが、人によっては別宗教のイメージなどで変換されるということなのですね。ここら辺の説明がなんだか巧み。

書き下ろしということで、本の全体をまとめるような締め方をされています。

 

 

 

 

 

 

 

 

正常か否か

8編収録されていますが、どのお話も、人にまともに説明すると正気が疑われてしまうお話ですね。表題作のタイトル「私の頭が正常であったなら」は、見事にこの本全体を表すものになっていると思います。

子どもに関連するワードが特に多いのも特徴の短編集で、隠れテーマだったのかなと。「おやすみなさい子どもたち」で出てくる一節「あらゆる人生、そのどれもが祝福に満ち、悲哀にあふれている」に、強いメッセージが込められていると感じる。

 

相変わらず奇想天外な発想で楽しませてくれる、山白朝子らしい、乙一らしい、期待を裏切らない短編集です。乙一の短編集に外れなし!

全話、30~40ページと読みやすい長さですので、ちょっとした休憩時間に是非。

 

私の頭が正常であったなら (角川文庫)

私の頭が正常であったなら (角川文庫)

 

 

 

 

ではではまた~

 

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『イニシエーション・ラブ』小説・映画 ネタバレ解説 ”最後二行”で全ては変貌!仰天恋愛小説

こんばんは、紫栞です。

今回は乾くるみさんのイニシエーション・ラブをご紹介。

イニシエーション・ラブ (文春文庫)

 

 あらすじ・概要

イニシエーション・ラブ』は2004年に刊行された恋愛小説。乾くるみさんは【タロウ・シリーズ】というタロットをモチーフにしたシリーズを書かれているのですが、この『イニシエーション・ラブ』はタロットの6番目「恋人」をテーマにした作品で、シリーズとしては『塔の断章』に続いての二作目。因みに、三作目はドラマ化もされた『リピート』ですね。

 

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このシリーズは「天童太郎」という人物が共通して出てくるのが特徴で(ただし、作品によって天童の人となりは異なるので、同一人物ではない)イニシエーション・ラブ』にも登場しています。ほんのチョロッと出てくるだけなのですが、「イニシエーション・ラブ」の意味を説明する役割を担っている、印象的な人物として描かれています。

 

どんなお話かというと、男性が代打で呼ばれた合コンの席で好みの女性と出逢い、恋に落ちる。1980年代後半を舞台にした、ノスタルジックで甘く切ない青春小説。

 

・・・と、いう、一見何の特徴もない恋物語なのですが、実は驚きの仕掛けが施されていて、最後の二行を読むと全く違う物語りが浮かび上がる、仰天させられる作品になっています。なので、恋愛小説というよりミステリ小説だと捉える人も多いですかね。

「最後から二行目は絶対に先に読まないで!」「必ず二回読みたくなる小説」という販売文句と、著名な芸能人による帯の絶賛コメント、テレビ番組で紹介されたりなどして注目を集めた作品です。

 

施されている仕掛けはミステリとしては叙述モノということになりますが、人が死ぬような物語りではない。2000年当初は、誰も死なない日常ミステリや、叙述トリックを使ったどんでん返しものがはやって多数出回った頃だというのが個人的な印象。この小説はそんな流行の只中にあった作品だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

以下ガッツリとネタバレ~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Side-A、side-B

この小説は1980年代後半の福岡・東京が舞台。各章のタイトルに内容に合わせた当時の有名楽曲が使われているのが構成の特徴ですが、もう一つの特徴がSide-Aとside-Bで物語りが大きく二つに分かれていることです。

 

Side-Aでは大学4年生で今までに恋愛経験のない22歳の鈴木夕樹が、歯科衛生士で20歳の成岡繭子と出逢い、交際するに至るまでの、恋にのめり込んでいく、幸せでたまらない様が描かれていて、side-Bでは就職したばかりの鈴木が東京に派遣され、静岡の繭子と遠距離恋愛する中で気持ちが離れていってしまい・・・と、いう苦々しい様が描かれる。

と、簡単にいうと太田裕美さんの代表曲木綿のハンカチーフまんまのストーリーがside-Bでは展開される。

実際、side-Bの最初の章は「木綿のハンカチーフ」になっています。

 

「離れ離れになっても僕たちは大丈夫さ!」と田舎に彼女を残して上京した男が、都会の絵具に染まって田舎と一緒に彼女を棄てる。

男を想い、静かに身を引くいじましい女性の姿と、恋愛の儚さを謳っていている名曲ですが、男性の身勝手な心変わりや、男性にとって都合の良い女性像の描写など、女性としては割とイラッとしてしまう歌詞ではある。

 

 

曲以上に、この小説のside-Bは胸糞が悪い展開をしています。

上京し、初の社会人生活に追われて静岡との行き来が面倒になる鈴木。繭子とは違う魅力を持った都会の女性・石丸美弥子に言い寄られて気持ちが揺れ動く。そんな時、繭子の妊娠が発覚。繭子に子供を堕ろさせたあげく、鈴木は美弥子と肉体関係に。しばらく二股状態だったが、ある日浮気が繭子にバレて、逆ギレして怒鳴りつけて別れる。かくして、鈴木は繭子を棄てて美弥子と真剣交際することに。

 

俺と繭子との関係は、子供から大人になる為の儀式、通過儀礼の恋、イニシエーション・ラブだったんだ。子供っぽい繭子から大人の女性である美弥子に。「脱ロリコンって意味でも、あいつと別れることが大人になることと繋がっていたんだな――」

 

そっか~“イニシエーション・ラブ”ってそういう意味なんだ~これってそういうお話だったのね~

 

って・・・・・・

 

は?

なんだこの、気持ち悪い男の独りよがり物語りは。冷静に考えてクズじゃないか鈴木。一人の男がクズになる過程を見させられているだけじゃないか。こんなんで“必ず二回読みたくなる”とか、本当か!?

 

と、読者はなる訳なのですが、最後から二行目を読んで、やはり最初のページに戻ることになる。

 

 

 

 

 

 

A面、B面

最後から二行目で明かされること、それは、side-Bの鈴木の下の名前が「辰也」だということです。

ここで読者は「ん?」と、なる訳です。そう、side-Aの鈴木の下の名前は「夕樹」。つまり、side-Aの鈴木とside-Bの鈴木は同じ名字というだけの別人なのだとここで判明する。

一貫して鈴木夕樹の、一人の男の視点で追っていたと思わせられるように書かれていましたが、それは“騙し”。実際はSide-Aは夕樹の視点で、side-Bでは辰也の視点で描かれている。

さらに、side-Aの後にside-Bの出来事が起こっているのではなく、Side-Aとside-Bの出来事は同時進行。どちらのsideも1987年の4月頃から12月までの出来事なのです。2年間の出来事と見せかけて、本当は1年間の出来事。

 

どういうことかというと、成岡繭子は上京した彼氏・辰也と遠距離恋愛中に、彼氏はいないと偽って大学生の夕樹に言い寄り、恋仲になった。つまり、辰也と同様に繭子も二股を掛けていた。

 

Side-Aとside-Bとは、カセットテープのA面とB面のこと。A面を聞いているときは、B面も一緒に回っている。

 

ここで重要になってくるのが、1986年~1987年に世間で起こった出来事の数々です。単にノスタルジックな、当時の懐かしい恋愛の在り方を描く為にこの時代設定にしているのではなく、仕掛けの目眩ましとしてこの時代設定が作用している。本の巻末に、大矢博子さんの「解説~再読のお供に」で御丁寧にイニシエーション・ラブ』を理解するための用語辞典が収録されているのですが、この用語辞典を参照しながら再読して答え合わせしていく作業が、この本の最大の面白さとなっていい。

 

しかしこの仕掛け、気が付かずにただ「ほろ苦い恋愛小説だったなぁ」で終わってしまう人もいるらしいく、現に、私の友達の友達は仕掛けに気が付かずに、友達が「驚くよね~」と言っても何のことか分からなかったのだとか。

 

確かに、side-Aの鈴木夕樹の名前を失念しているとせっかくの仕掛けにも気が付かないかなとは思う。多くの人が気付くことが出来るのは、本の紹介や帯に「仰天作」「必ず二回読みたくなる」と大きく書かれているからで、この本が評判になったのは販売戦略が大きいのかなぁとも思いますね。

私は宣伝文句を受けて最初っから警戒して読んでいたので、Side-Aとside-Bで違う男性なのではないかというのは読みながら少し感じていました。あまりにも人柄が変わりすぎですからね。同時進行なんだということには気づけませんでしたけど。80年代後半に詳しい人は気づけるのかな?

販売文句を知らずに、普通の恋愛小説だと思って読んだ方が純粋に驚けるのは確かなんですが。でも仕掛けに気が付いてもらえないのじゃもったいないしねぇ・・・。

 

 

 

 

映画

イニシエーション・ラブ』は2015年に実写映画化されました。

 

イニシエーション・ラブ

イニシエーション・ラブ

  • 発売日: 2015/11/02
  • メディア: Prime Video
 

 

監督は堤幸彦さん、鈴木役が松田翔太さんで、繭子役が前田敦子さんというキャスティング。

原作を読んだ人はまず映画化されるという一報を聞いただけで驚きだったと思います。私も驚きました。仕掛けが仕掛けなので、どう考えても映像化不可能な代物だという認識があったからです

ハッキリ言って、仕掛けなしでは面白味が無になる作品なのでどう映像化するのかと疑問でしたが、映画ではside-Aの鈴木夕樹(森田甘呂)がダイエットし、side-Bの鈴木辰也(松田翔太)の容姿になったかのように描くことでこの問題をクリアにしていました。

 

映画では「最後の5分全てが覆る。あなたは必ず二回観る」というキャッチコピーが付けられており、原作と違い、最後はクリスマスの夜に辰也(松田翔太)が繭子(前田敦子)に会いに行き、そこで繭子と一緒にいる夕樹(森田甘呂)と鉢合わせ。そこから映像上で“答え合わせ”の5分間が始まるという、原作よりも仕掛けが分かりやすいオチになっています。この後どうするんよ、この人ら・・・と、心配になる締め方ではありますが(^_^;)。

 

仕掛けが分かりやすいのもそうですが、原作の各章のタイトルに使われている懐メロがそのまま流れたり、映像で確りと1980年代後半が再現されていて、原作を読んだ人にとっても原作への理解がより深まる親切なものとなっているかと思います。

 

オチを変えている以外は割と原作通りに映像化しているのですが、成岡繭子は原作よりもより男性の妄想みたいな女性になっていましたかね。女性からすると、繭子って“100%あざとい女”なんですけど(^^;)。

 

 

 

 

何をしたい物語りなのか

この本を読み終わり、再読で答え合わせもすませて読者がまず思うことというのは、成岡繭子の周到な二股の仕方。夕樹と辰也、双方の男に全くバレずに二股行為をしているのですからね。見事なものですよ。

 

しかし、このことから繭子の方が悪いかのように捉え直すことは的外れです。

浮気はもちろんダメですが、このお話で圧倒的に悪いクズなのが辰也であることは、仕掛けが判明した後でも何ら変わらない見解のはず。

浮気して、きちんとした避妊をせずに妊娠させて堕胎させて、挙げ句逆ギレして怒鳴りつけ、シレッと別の女に乗り換えているのですからね。なにが、「俺とあいつの関係は、結局はその――イニシエーション・ラブってやつだったんだろうな」だ。ふざけきったバカバカしい男だ。

 

結果的に二股・浮気になっていますが、繭子の方は夕樹と親しくなっていきデートしたりするようになっていたものの、夕樹と肉体関係を持ったのは堕胎し、辰也との関係に破綻の兆しがハッキリと出てから後のことです。

まだ新生活が始まったばかりの頃に彼氏はいないと嘘を言って合コンに参加しているのはいただけず、男性に対して思わせぶりな態度をとるのが好きな女性なのかとは思いますけどね。

 

最後の2行目を読んで浮かび上がるのは、辰也より繭子の方が上手だったという事実。

ここで、「で?」となる人もいるかと思います。「ただ浮気し合っていた男女の話を読まされただけじゃないか。何がしたいのだ」と。

 

仕掛けありきの、脅かすのが第一目的に書かれた小説ではあるのだろうと思います。この手の話題は叙述トリックものでは度々議論されることであって、どうしても直面する問題なのですけども。『イニシエーション・ラブ』の場合は殺人事件ものではなく恋愛が題材になっているぶん、余計に疑問視されるのかもしれません。

 

終盤、酔った辰也は間違えて別れた繭子に電話をし、「たっちゃん」と普通に応対されて怖くなり、繭子が哀れだと思って勝手に感傷に浸っています。

実際は、繭子は誤って相手の前で浮気相手の名前を口走っても大丈夫なように夕樹の事を辰也と同じく「たっちゃん」と呼んでいただけなのですが。(因みに、辰也は繭子の前で美弥子の名前を口走ったことで浮気がバレた)

 

何も知らずに、繭子がまだ自分のことを想っているなどと哀れんで感傷に浸る。何を伝えたいのかと言われたら、この“独りよがりなクズ男の滑稽さ”を嘲っている物語りなのだろうと個人的には思っているのですが、どうなのでしょう。

 

必ず再読したくなるといいますが、私としては辰也がクズで不快なので(他に感情移入出来る人物もいないし)、とても丸々最初っから全部再読しようという気にはなれないのが正直なところ。拾い読みでの答え合わせとなってしまう(^_^;)。なので、映画はなんだか有り難かったですね。

 

 

一風変わった恋愛小説、血生臭い要素なしで叙述モノを楽しみたい人は是非。

 

 

 

ではではまた~

 

 

 

 

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『続巷説百物語』6編 あらすじ・解説 シリーズ第二弾!敵は”死神”

こんばんは、紫栞です。

今回は京極夏彦さんの『続(ぞく)巷説百物語をご紹介。

 

続巷説百物語 「巷説百物語」シリーズ (角川文庫)

 

『続巷説百物語』は江戸時代を舞台に、御行の又市率いる一味が公には出来ぬ厄介事の始末を金で請け負い、妖怪譚を利用した仕掛けで解決させていく妖怪小説のシリーズ巷説百物語シリーズ】の第二作目。


シリーズ一作目の『巷説百物語』は一話完結型の連作もので、関係者や仕掛けられている側の様々な視点で事件の全体像が示され、最後の章で百介が又市たちから仕掛けの種明かしを聞くという構成になっていました。

※詳しくはこちら↓

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この『続巷説百物語』も連作短編で六編収録なので、普通に前作からの続きなのだろうと目次を見た段階では思ってしまうのですが、実は色々と前作とは異なる描き方をされていて、単純な続編にはなっていません。

 

今作ではお話は全て山岡百介の視点で描かれています。各話の時系列も前作と大体交互、間に位置しているようになっています。

※作品時系列など、詳しくはこちら↓

 

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また、前作では全く語られなかった又市一味の過去や因縁が明らかに。一話完結の形をとってはいますが、今作に収録されている各話は複雑に絡み合い、大事件で大仕掛けの「死神 或は七人みさき」に収斂されていきます。そして、今作の最後の収録作「老人火」で、シリーズは思わぬ展開をする。単に続きだと思って読んでいた読者の意表を突く代物となっていまね。

 

「死神 或は七人みさき」を中心に描かれるとあって、前作は各話大体同じページ数でしたが、今作ではそれぞれお話によって文量が異なります。

 

 

 

 

 

各話、あらすじと解説

『続巷説百物語』は六編収録。

 

巷説百物語シリーズ】で題材として採られている妖怪たちは全て、天保12年(1841年)に刊行された竹原春泉の画、桃山人の文の『絵本百物語』から。

 

 

 

以下、ネタバレ含みますので注意。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●野鉄砲(のでつぽう)

百介は八王子千人同心である実兄・山岡軍八郎から武蔵国多摩郡千人町に呼び出される。

軍八郎の同僚が額に石がめり込んだ変死体で発見されたが、一体どのような事態になればこのような奇怪な死体が出来上がるのか、不思議話を蒐集している百介に意見を求めたいという。

百介は「野鉄砲」という妖怪の仕業ではないかと思いつき、表側からは見えない渡世に精通している御行の又市と事触れ治平に相談する。話を聞いた二人は途端顔色を変え、何やら慌てて行動を開始するが・・・。

 

「野鉄砲」っていうのは、北国の深山に棲む子狸だかモモンガらしき獣で、人を見かけると蝙蝠みたいな物を噴射し、目口をふさいで人を取り食うとかいう伝承。

越後の旅から数ヶ月後、八月の出来事で、時系列としては前作『巷説百物語』に収録されている「小豆洗い」の後。百介からすると二件目の仕掛け仕事ですね。

 

このお話では治平の辛い過去が明らかになります。事が終わった後、軍八郎に仕掛けのことを全て白状しちゃうのですけども、事情を知った軍八郎は粋な計らいをしてくれる。しかし、この仕掛け仕事は直接的な仇討ちの手伝いなので、又市としては見逃して貰っても苦々しい想いが残っている様子ですかね。

 

 

 

 

●狐者異(こわい)

百介は小塚原縄手に“稲荷坂の衹右衛門”の晒し首見物に出かける。なんでもこの衹右衛門、斬首される度に蘇る極悪人で、今回が三度目の斬首だというのだ。

好奇心から見物に来たものの、暗澹たる気持ちになってなかなか刑場への足運びが進まなかった百介は、立ち寄った茶屋で山猫廻しのおぎんと出会う。おぎんは衹右衛門に遺恨があるらしく、今回の仕置きを聞きつけて晒し首を見に来たらしい。二人は一緒に刑場にと向かい、晒された首を見る。其処に晒されていた衹右衛門の首は確かに“死んで”いた。しかし、首を見たおぎんは「まだ生きるつもりかえ」と呟く。

程なくして、衹右衛門が三度蘇ったという噂が立ち上るが・・・。

 

「狐者異」は無分別者で、“殺しても死なない執着”などを指し、仏法世法の妨げをするもの。『絵本百物語』では、「怖い」の由来だと書かれているらしい。

 

甲府から戻っての十一月半ばの出来事で、時系列としては『巷説百物語』に収録されている「白蔵主」の後。百介からすると四件目の仕掛け仕事ですね。

 

このお話ではおぎんの出生の秘密が明らかになり、“稲荷坂の衹右衛門”と又市との十年越しの戦いに決着がつけられます。

稲荷坂の衹右衛門”を巡る騒動についてはこの話は決着部分であり、ここでは十年前の出来事に関しては又市の口からサラッと説明されるだけですが、シリーズ4冊目の『前巷説百物語で十年前の衹右衛門との戦いが詳細に描かれています。

 

 

いやぁ、とんでもなく辛くって酷い事件だったのですよ・・・。

 

また、このお話で軍八郎の友人で北町奉公所定町廻り同心・田所真兵衛が登場しています。“融通の利かぬ朴念仁”という、非常に京極小説的(?)人物で、変な具合に好感が持てる。

 

 

 

 

●飛縁魔(ひのえんま)

百介は貸本屋の平八から、名古屋の廻船問屋の主・金城屋享右衛門の嫁を巡る奇妙な話を聞く。十年前、祝言の日に右衛門の嫁・白菊は姿を消した。勤勉で実直な人格で周りに慕われていた享右衛門だったが、この事があってからというもの、すっかり腑抜けて見る影もなくなってしまったという。

それが最近になって、金城屋の奉公人が江戸で白菊を目撃。話を聞いた享右衛門は立派な館を建て、其処に日がな一日閉じこもって白菊を待ち続けるという更なる奇行をするようになったという。

又市の手腕をあてに平八から白菊捜しを頼まれた百介が白菊について調べてみると、彼女は常に火の気がつきまとう、魔性のごとき女だと口さがなく云われ続けていたらしい事実を知る。

金城屋に訪れ、享右衛門の建てた館を前にした又市は、白菊は「飛縁魔」であり、今夜あの館に火の手が上がると皆に云うが・・・。

 

「飛縁魔」は顔や姿は美しいけれども、実は恐ろしい存在で、夜な夜な出没しては男の精血を吸って取り殺してしまうという妖怪。要するに魔性の女ということなんですが、暦の「丙午」から出た名だとも云われています。丙午生まれの女性は婚姻を忌まわれるという俗信や差別は現在でも残っているところでは残っている。

 

伊豆から戻ったばかりの五月半ばの出来事で、時系列としては『巷説百物語』収録の「舞首」の後で、百介からすると六件目の仕掛け仕事ですね。

 

事の真相を知ると、「金持ちの酔狂だなぁ」と。豪気なことよ。享右衛門としては気が狂うほど切実なんでしょうけども。しかし、燃やすための家を一軒建てても、一回こっきりで終わりでは結局長く留まってはくれないのではないかと思うのだけど・・・。ま、出来るだけのことはしてあげたかったということなのか。

 

この事件の元凶となった人物は、「死神 或は七人みさき」でガッツリ関わってきます。

 

 

 

 

●船幽霊(ふなゆうれい)

百介は又市たちとの淡路での仕掛け仕事の後、おぎんと共に四国へ渡る。土佐で噂されているという「七人みさき」の怪異が気になったためであった。「七人みさき」の怪異は近年、様々な場所で噂が立ち上っているらしいが、土佐では七人みさきは行き合うと命を失う祟り神「船幽霊」として畏れられていた。

途中、百介たちは得体の知れぬ輩たちに追い詰められるが、若狭の外れ北林藩からの密命で人捜しをしているという浪人・東雲右近に窮地を助けられる。

右近は平氏末裔の川久保党にまつわる人物を捜しており、それは偶然にもおぎんの目的と一致するものだった。

何者かに狙われながら、三人は川久保党が居るという山を目指すが・・・。

 

「船幽霊」は海で死した者たちの亡霊。甲冑姿の者たちが現われ、往来の船に取りついて「柄杓をくれ」と言ってくるのだけども、ここで素直に柄杓を渡すと船中にその柄杓で海水を汲み入れて沈めようとするので、言われたら底が抜けた柄杓を渡さなくちゃいけないとかいうもの。数ある平家の落人伝説の一つともされています。

 

巷説百物語』に収録されている「芝右衛門狸」の一件が終わった直後の、冬の初めの出来事で、百介としては八件目の仕掛け仕事ですね。

 

いつもは仕掛ける側である百介やおぎんですが、このお話では追われる側になっていて、緊迫感があります。かなりヤバかった。啖呵を切るおぎんが勇ましくって格好いい。

余裕がないとあって、又市の仕掛け仕事も荒事こみの危ない橋を渡るものです。「ヘボだ」とおぎんに詰られていますが、又市とおぎんの信頼関係がないと成立しない仕掛けでして、素直じゃない二人のやり取りがなんだかおかしいですね。

 祭文語りの文作が登場しています。

 

 

 

 

●死神 或は七人みさき

船幽霊騒ぎから数ヶ月後、百介は江戸で東雲右近と再会する。右近は相当に憔悴しきっていた。船幽霊騒ぎから解放されて北林藩に戻った右近だったが、「七人みさき」の祟りと思われる残虐非道な殺人が繰り返され、人心が乱れて、領内はこの世の地獄と化していたという。隣人の娘が殺害された事件を聞き、義憤に駆られた右近は独自に調べて回ったのだが、その最中で身重の妻が惨殺されてしまい、右近は下手人として罪を着せられ追われる身に。

右近から全てを奪い、非道な殺戮を繰り返す「死神」或は「七人みさき」を調べる百介だが、突き止めたその正体は常人にはどうするすべもない絶望的な強敵だった。

奇妙な縁と謎の断片は北林藩へと収斂され、小股潜りの又市による大仕掛け“祟りの夜”が開始される――。

 

「死神」は行き遭うと死ぬ、死を招き入れるもの。悪意を持って死んだ者の気が悪念をもった生者に呼応して悪所に引き込む。「七人みさき」は成仏出来ぬ七人組の霊で、一人取り殺すと七人のうちの一人が成仏するのだけども、殺された者が新たに仲間に加わるので数が減らないという厄介なもので、「死神」と同じく、行き遭い神・祟り神という代物。

 

加賀から江戸に戻っての六月過ぎの出来事で、『巷説百物語』に収録されている「塩の長司」の後。百介としては十件目の仕掛け仕事ですね。

 

この本の大詰めでして、「野鉄砲」「狐者異」「飛縁魔」「船幽霊」で張り巡らされていた糸は、全てこの「死神 或は七人みさき」という大事件へと繋がっています。

ページ数もこの本の中では最長で二百ページ以上ある。このお話一つだけで本出せるレベル。

 

コレに出てくる悪党たちがですね、まぁ酷いですよ。会話の内容がですね、百介のいうように“人の会話ではない”。吐き気を催す邪悪どころか、失神するほどの邪悪ッ!ですね。右近さんの立場からすると、聞いていてよく発狂しなかったなと思う。結局威勢が良いのは口ばかりで、滑稽なほど怖がって最後を迎えたというのがまたなんとも。

 

「死神 或は七人みさき」は、所々で横溝正史の『八つ墓村』を連想させられます。

 

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 オマージュとして描いているのかと思うくらい共通点がありますね。話の運びは全く違うのですけども。コレを読んだ後だと、『八つ墓村』もある意味「祟り神による事件」と解釈することも出来るのじゃないかと思えてきたりもする。

 

無動寺の玉泉坊が少し登場しています。百介は玉泉坊とはこの時が初対面ですね。また、治平がかつての又市のことを語る場面で出てくる「生きるもひとり、死ぬもひとり、ならば生きるも死ぬも変りはねぇ」という台詞は、又市初登場の嗤う伊右衛門

 

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で出てくる一節だったりして、時系列を辿って又市の心境の変化過程を鑑みるのもまた愉しい。

 

 

 

 

●老人火(ろうじんのひ)

あの“祟りの夜”から六年目の夏。戯作を開版し、物書きとして飯が喰えるぐらいには稼げるようになった百介の元に、北林藩からの使者がやって来る。六年前の騒ぎの関係者の一人、家老の樫村兵衛が度々幻覚を見るようになり、気が触れるようになってしまったため、また御行の又市の力を借りたいという。しかし、百介は二年前から又市との交流は一切経たれてしまっている状態だった。

又市の代わりに樫村に会いに行った百介。祟り神は守り神となり、北林藩は平穏を取り戻していたが、新たなささやかな怪異が囁かれていた。大磐の上に火が灯る。その火は水を掛けても消えず、蛇のように襲いかかる怪火なのだという。

女中からその話を聞き、百介は天狗の仕業とされる「老人火」だと説明するが、脳裏には一人の老人の姿が浮かんでいた。

怪異の真相が解った百介は、駆け出した先で懐かしい声を聞くが・・・。

 

「老人火」は深山において湧き出る怪火で、その火には老人が付き添っている。水をかけても火は消えず、消すためには家畜や獣の毛皮を用いるのだが、火が消えると同時に老人も消え失せる。人にとっては特に害はないもの。

 

「死神 或は七みさき」での一件からいきなり飛んで六年後。百介は百物語ではないけど戯作を開版してそれなりに名を上げているし、二年前から又市たちとは会えずじまいだというし、その二年前に何らかの大仕事で事触れ治平が命を落したとかいうしで、読者としては急な変化に困惑してしまう事請け合い!ですね。

 

百介は「死神 或は七人みさき」からこの「老人火」の間にも何件か又市たちの仕事に関わっていて、その間の仕掛け仕事はシリーズ三作目『後(のちの)巷説百物語で描かれています。(この間に『巷説百物語』収録の「柳女」「帷子辻」も含まれています)

 

「老人火」は一応件数でいうと、百介としては十八件目の仕掛け仕事。と、いっても、この一件は純粋に居合わせただけですけどね。

 

急な変化もそうですけど、この事件の決着のつけ方も、「今生の別れ」を言い渡されるのも、えらく哀しいし淋しい。

私は最初読んだ時、しばし呆然としてしまった記憶があります。単純に前からの続きだと思っていたら・・・何たることだ。変な言い方ですけど、侮ってかかっていたらドンって突き落とされた感じ。

 

 

 

 

 

 

 

 

巨大なシリーズ構成の片鱗

『続巷説百物語』を読み終わって先ず思い知らされるのは、【巷説百物語シリーズ】はどうやら通常のシリーズもののように、そう素直で単純な構成はしていないのだなということ。

 “続”とタイトル頭についているので、前作でのスタイルで一貫してストーリーを見せていくのかと思いきや、シリーズ二作目の今作は一話完結型ではあるものの、「死神 或は七人みさき」を中心とし、「野鉄砲」「狐者異」「飛縁魔」「船幽霊」は前フリ、「老人火」はエピローグ、といった一大長編の体をなしています。

時系列が前作と入り組んでいたりするのも、この本では「死神 或は七人みさき」に関連している仕掛け仕事をラインナップしているということでしょうか。おぎんの育ての親で、江戸を牛耳っていた裏社会の大立者・御燈の小右衛門も全体の重要なキーとなっています。

 

また、この本に収録されている話は全部百介からの視点ですので、百介の裏と表、彼方と此方の境界で思い悩む様子もしっかり描かれています。又市たちの境遇や素性が明かされるのもそうですが、前作『巷説百物語』では仕掛けられる側の人間を描いていたのが、この『続巷説百物語』では仕掛けている側の人間を描いている。前作が表からの見え方なら、今作は裏からの見え方という訳で、前作から一段深さが増している印象ですね。

 

 

 

二年前に何が

最後に収録されている「老人火」は結末を読む限りシリーズ最終話と受け取ることが出来るものになっていますが、“千代田のお城に巣喰っているでけェ鼠の始末”や、治平や上方の小悪党どもの元締め・十文字屋仁蔵が命を落すことになったという二年前の大抗争など、匂わせるだけ匂わしている事柄があるので、どの様に続けるのか分からないものの、まだシリーズは終わりではないのだと気が付く。

 

と、いっても、この後に刊行される『後巷説百物語』『前巷説百物語』『西巷説百物語』でも、この二つの事件についてはまだ明かされてないのですけどね・・・。

 

「老人火」の最後で、又市は全身白い御行の恰好から全身黒い恰好になって、「八咫の烏」だと名乗っている。おそらく“二年前の大抗争”を経ての変質なのでしょうが、一体何があったものやら。2021年現在連載中のシリーズ第六弾『遠(とおくの)巷説百物語』でそれは明らかになるのですかねぇ・・・。

 

 

 

後へ!

「老人火」での一件以降、百介は生涯二度と旅に出なかったと書かれている。では、シリーズ第三弾の『後巷説百物語』はどんな風に続いてどんな構成になるの?と、疑問に思うでしょうが、それは読んでのお楽しみ。「老人火」を読んで哀しみで気落ちしても、次の『後(のちの)巷説百物語』はここまで読んだ人なら絶対、絶対に読まなくてはならない作品となっていますので是非。

 

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続巷説百物語 (角川文庫)

続巷説百物語 (角川文庫)

  • 作者:京極 夏彦
  • 発売日: 2005/02/24
  • メディア: 文庫
 

 

 

 

 

 

ではではまた~

 

 

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